第七章・夕映えの面影
昼下がりの風が、城の回廊を抜けていく。
熱をほどよく奪った空気が肌に触れ、紗世は思わず足を止める。
窓の外では、朱雀祭を前にした町のざわめきが、うっすらと城内まで届いていた。
「紗世様!」
背後から呼ばれ、振り返ると、袖口をきゅっと摘ままれる。
ルナが頬を上気させた顔で立っていた。
「紗世様、夕陽をいちばん綺麗に見られる場所があるんです」
「そんな場所が?」
問い返すと、ルナは胸の前で手を組み、小さく跳ねる。
「はい。高台なんです。案内しますね!」
有無を言わせぬ勢いに、紗世は笑いをこぼした。
ここで暮らし始めてから、こうして「一緒に行きましょう」と誘われることがどれほど救いになっているか、本人は気づいていないだろう。
「じゃあ、お願いしようかな」
「はい!」
ルナは嬉しそうに頷くと、紗世の少し前に出て歩き出した。
元気な足取りに引かれるように、紗世も裾を持ち上げてついていく。石畳を踏む足音が、二人分だけ軽やかに重なった。
高台は、城の外縁に張り出すように造られていると聞いていた。
普段は警備の兵たちが見回りに使う場所で、めったに侍女たちが近づくことはない。けれど、祭りの準備期間だけは出入りが緩くなるらしい。
曲がり角をいくつか抜け、細い階段を上がると、風の質が変わった。
上へ行くほど、町のざわめきと草原の匂いが混じり合ってくる。高い位置にあるせいか、空が少し近い。
「ほら、ここです」
最後の段を上がりきったところで、ルナがぱっと身を引いた。
その先に広がる景色に、紗世は息をのむ寸前で胸の奥を揺さぶられる。
眼下には、城下町の屋根が段々に重なっていた。
瓦の列のあいだから伸びる煙突、祭りを告げる旗。
道という道には布飾りが渡され、広場には朱雀を象った大きな柱が組まれている。
町の外側には、どこまでも草原が続いていた。
真昼の名残を留めた緑が、太陽の傾きに合わせて少しずつ色を変え始めている。
西のほうから差す光が長く伸び、草の一つひとつに細かな陰影を刻んでいた。
「私は、ここの景色が大好きなんです」
ルナが胸の前で両手を広げる。
「なんだか胸が広がる気がして」
「分かる気がする……。こんなに見晴らしがいいなんて思わなかった」
柵まで歩み寄り、紗世は両手を添えた。
風が頬を通り抜け、髪先を掬っていく。張りつめていた気持ちが、ひと息ごとにほどけていくようだった。
「祭りの前日はね、みんな遅くまで準備してるんですよ」
ルナは紗世の隣で身を乗り出し、町を指さす。
「あの通りにはお菓子の屋台が並ぶんです。甘い蜜をかけた焼き菓子とか、果物を煮詰めたものとか。それから、あっちの広場には舞台ができて、朱雀の舞を踊る人たちが集まります。灯りもたくさん吊るされて、空まで赤くなったみたいに見えるんですよ!」
思い浮かべているのだろう、言葉には期待が溢れていた。
紗世はその横顔を見ながら、自然と口元が解ける。
こんなふうに祭りの話を聞くのは、いつ以来だろう。
元の世界では、季節の行事は常に忙しさとセットだった。
飾りつけや買い物をこなし、仕事の締切を気にしながら足早に通り過ぎていく日々。ゆっくりと空を見上げる余裕など、ほとんどなかった。
「紗世様は、元いた世界ではどのような暮らしだったんですか?」
唐突に向けられた問いに、紗世は肩を揺らした。
それでも、ルナの瞳に好奇心以外のものがないとわかると、少しだけ胸の内を解いた。
「えっと……そんな立派なものじゃないよ。働いて、帰って、ご飯を食べて寝て。毎日、そんな繰り返し」
言いながら、自分の声に苦笑が混じる。
あちらの世界での自分の姿が、頭の中に浮かんだ。
通勤電車、人混み、コンビニの明かり。
洗い物の音と、テレビのニュース。
「家族とは……距離が近い時と、遠い時と、いろいろあって」
言葉を選びながら、紗世は遠く過去を振り返るように目を伏せた。
賑やかだった食卓の日もあれば、同じ部屋にいるのに互いの顔を見ないまま時間だけが過ぎていく夜もあった。どちらも、紛れもなく自分の生活の一部だった。
「大変そうですね」
ルナが素直に漏らす。
否定も肯定も混ぜない、その一言が紗世にはありがたかった。
「まあ、そういう時期もあるよね。でも、全部が嫌なわけじゃなかったよ」
紗世の声には、懐かしさと少しの寂しさが同居していた。
帰れない場所になったからこそ、ようやく落ち着いて振り返ることができる。そんな感覚が胸の内側に広がる。
気づけば、太陽は半分ほど傾いていた。
さきほどまで金色に近かった光が、次第に橙を帯びていく。町も草原も、ひとつの色に包まれる準備を始めているように見えた。
「紗世様、笑われていますね」
「え?」
不意にかけられた声に、紗世は瞬きをする。
ルナがじっとこちらを見上げていた。
「今、とても嬉しそうでした」
「……そうかな?」
自分では意識していなかったが、言われてみると頬が少し熱い。
高台に立っているだけなのに、胸の奥に小さな灯がともったような感覚があった。ここに来てから心が張り詰める日が続いていたのに、こうして他愛もない会話をしていると、ようやく「生きている」と思える瞬間がある。
「はい。紗世様が楽しそうだと、私も嬉しいです」
ルナは笑った。
その屈託のない笑みを見ていると、紗世の中で固まっていたなにかがゆっくりと緩む。
「ありがとう、ルナちゃん」
自然と手が伸び、ルナの頭にそっと触れた。
柔らかな髪の感触に、胸の奥が少し温まる。ここでは誰かと肩を並べて同じ景色を見ている。その事実が、紗世にとってどれほど大きいか、言葉にはしづらかった。
──その様子を、階段の上からひとりの男が眺めていた。
レオンだった。
訓練場からの帰途、見回りを兼ねて高台のほうへ足を向けたところで、ふたりの姿が目に飛び込んできたのだ。
柵にもたれ、風に髪を遊ばせながら笑う紗世。
隣で、夢中になって祭りの話をしているルナ。
夕映えを背に立つ紗世の横顔は、柔らかな明るさをまとっていた。
淡い橙色が頬を染め、その表情からは昼間の緊張が解けている。
紗世がルナの話に耳を傾け、微笑むたび、その輪郭は別の誰かの記憶と重なる。
失われたはずの姫──リアナ。
(……やめろ)
胸の内で短く命じる。
紗世は紗世であり、リアナではない。それは頭では理解している。それでも、あの笑い方、時折見せる真剣な眼差しが、どうしても過去と重なってしまう。
あの日、自らの腕からするりとこぼれ落ちた、小さな背中。
声をかける間もなく、祈りも届かない場所へ飲み込まれていった光景。
胸裏に沈めていた痛みが、風に触れた古傷のように疼いた。
(もう消えたと思っていた輝きが、なぜ、あの者の中で形を変えて息づく)
答えの出ない問いが、喉の奥で重く渦を巻く。
紗世の笑顔を見ていると、守れなかった日々と、今守るべきものとの境が揺らぎそうになる。
手にした手袋の縫い目を、指先がきつく挟んだ。
この場にこれ以上立ち続ければ、己の感情がどこへ向かうのか、レオン自身が読めなくなる。
そう判断した瞬間、彼は踵を返した。
階段を下りる足音を、できる限り抑える。高台に残る二人に気配を悟らせたくなかった。
夕陽はさらに沈み、空の赤が濃さを増していく。
城壁の輪郭が影となり、町のざわめきには祭りの唄が混じり始めていた。
その頃、高台ではまだ、紗世とルナが並んで景色の変わりゆく色を眺めていた。
草原の端から夜がゆっくりと歩み寄り、屋根のひとつひとつに影が落ちる。紗世は柵に添えた手に力を込め、この場所で過ごす初めての朱雀祭の夕暮れを、胸に刻みつけていく。
自分の笑顔が、どこかで誰かの記憶を揺らしていることなど知らぬままに。




