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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第七章・ 弱さのかたち

 夜気が肌を掠め、紗世は寝所から抜け出して廊下を歩いていた。

 石畳に敷かれた長い敷物は、昼間と同じはずなのに、夜の色を吸って別の物のように見える。

 柱の陰には灯が間引かれ、壁にかけられた紋章だけが輪郭を浮かべていた。

 耳に届くのは、廊下の奥で番をする兵の鎧が鳴る音と、衣擦れの気配だけだ。

 眠れない夜は、考えたくないことが次々と浮かんでくる。

 この世界に来る前の生活。

 仕事、家族、当たり前だと思っていた日々。

 そして今、自分がここで過ごしている日々。どちらを思い出しても、胸のどこかがざわつく。

 中庭へ通じる格子戸の前まで来たとき、庭のほうから冷えた空気が流れ込んできた。

 格子の間から覗くと、池の縁にひとつ、細い影が立っている。

 ミレイアだった。

 薄青の上着に肩を包み、髪をひとつにまとめている。

 夜の白さを受けて髪先が溶け、横顔の輪郭だけがくっきりと浮かんでいた。湖面を見つめるその顔には、思考の深さが宿っている。

 紗世は格子戸を開け、草履の音を忍ばせながら縁側に出た。

 夜気が足首を撫で、袂がわずかに揺れた。

「眠れないのですか、紗世様」

 背を向けていたはずのミレイアが、振り返らずに声をかけてきた。

 いつもと変わらぬ落ち着いた声音だったが、それが紗世には救いのように思えた。

「……うん。考えることが多くて」

 返した言葉は自分でも驚くほど素直で、紗世は苦笑する。

 本当は「たまたま目がさめただけ」と取り繕うこともできたのに、そうしようとする気力すら今夜は湧かなかった。

 池の縁まで歩み寄り、ミレイアの横に並ぶ。足元には玉砂利が敷き詰められ、その上に伸びる影がふたつ、細長く伸びていた。

 水面には月の白さが薄く映り、ゆるい波紋が輪を描いている。

 紗世は池を見たまま、胸の奥に沈んでいた思いを掬い上げた。

 言葉にしたら壊れてしまう気がして、ずっと押し込めていたものだ。

「私なんて……役に立てていないよね。あの世界でも、ここでも。なにもできてない」

 自嘲に近い声が、自分のものとは思えないほど涸れていた。

 誰に責められたわけでもない。

 それでも、周りの誰もが自分の役割を果たしているように見えるたび、胸のどこかが縮む。

 森の民は森の道を知り尽くし、獣人たちは武で国を支えている。

 ミレイアのような侍女は、宮廷の習わしや礼を身につけ、誰よりも気配りを忘れない。

 自分だけが、この世界のどこにも属しきれず、立っている場所を見つけられないままだ。

 そう思うからこそ、口から溢れた言葉には棘が混じった。

 そこには、誰かに否定してほしいという幼い願いも入り混じっていた。

 ミレイアは眉を寄せることもなく、その棘ごと受けとめるように紗世へ顔を向ける。

 目元には責める色はなく、ただ「聞いています」という静かな意志だけがあった。

「紗世様、リアナ姫のことを少しだけお話ししてもよいでしょうか?」

「……姫様の?」

 意外な名が出て、紗世は思わず首を傾げる。

 リアナ姫は、ミレイアが仕えていた主であり、この国の人々から今も慕われている存在だ。

 紗世も、彼女の名を聞くだけで胸の奥に小さな緊張が走る。

「ええ。姫様の幼いころのことです」

 応じながら、ミレイアは視線を池へ戻した。口元に添えた指が、一度だけ小さく握られる。

 それは、深い記憶の扉にそっと触れる仕草だった。

 紗世は言葉を挟まず、隣に立ったまま耳を傾ける。

 水が石に触れるかすかな音が、二人のあいだの沈黙を埋めていた。

「姫様は、幼いころ病がちで、それに加えて立場ゆえの重荷を抱えておられました」

 ミレイアの声は、懐かしい誰かに話しかけるときのような柔らかさを帯びていた。

 紗世の脳裏には、ほんの一度だけ見た肖像画が浮かぶ。

 白い衣をまとい、薄く笑みをたたえた少女の横顔。

 絵の中の姿しか知らないのに、不思議と身近に思えるのは、ミレイアが幾度となく彼女の話をしていたからだ。

「ご自分の身体が思うように動かない朝もありました。寝台から起き上がるだけで息が上がり、指先が痺れるときも。食事が喉を通らない日には、スープ一杯を飲み干すだけで精一杯ということもありました」

 語られる情景が一つひとつ積み重なり、紗世の想像の中で部屋の形ができ上がっていく。

 高い天井、淡い色の帳、窓辺に置かれた鉢植え。

 そこで、細い肩を起こそうとしている少女の姿。

 その部屋の戸口には、きっとミレイアも立っていたのだろう。

 目の前の女性が、ほんの少し指を握りしめるたび、その場の重さが伝わってくる。

「それでも姫様は、皆の前では笑顔を絶やしませんでした」

 ミレイアは言い切ってから、言葉を選ぶように小さく息を継いだ。

「強さを装っていたのではありません。弱さをごまかすのでもありません。ただ……弱いご自分を抱えたまま、穏やかであろうとしておられたのです。痛みがある日も、『今日は少し風が気持ちよいですね』と窓を開けさせ、側仕えの者に『あなたも座って休みなさい』と声をかけてくださった」

 自分よりつらいはずの相手が、こちらを気づかってくれる。

 そのあり方は、紗世にはうまく言葉にできない種類の強さに思えた。

「姫様は、その姿がいちばん美しかったのですよ」

 ミレイアは紗世のほうを向いた。

 夜の淡い明るさの中で、その瞳には静かな光が宿っている。敬意と、惜しみない愛情が、そこにあった。

「弱さがあるままでもいいのですよ。それを恥じず、生きようとする姿こそ、人の心を動かすのです」

 紗世の胸に、なにかが触れた。

 リアナ姫の話を聞きながら、自分のことを語られているような感覚が込みあげる。

 この世界で何度も助けられてきたこと。

 誰かに守られ、支えられてばかりだと感じていたこと。

 そのたびに、自分の弱さを恥じていたこと。

 けれど、今ミレイアの口から語られた姫の姿は、その〝弱さ〟と同じ場所に立っているように見えた。

「……強さだけが価値じゃない、ってこと……なのかな」

 紗世は池の面を見たまま、胸の奥で浮かんでいた言葉を拾い上げた。

 言葉にしてしまえば消えてしまいそうで、これまで誰にも言えなかった思いだ。

 口から溢れた瞬間、それは自分のものとして静かに形を持つ。

 どこかで誰かに言ってほしかった言葉が、ようやく自分の声として立ち上がった。

 ミレイアは、しっかりと頷いた。

「ええ。紗世様は、弱さを抱えたまま前へ進もうとしておられます。その姿は、見ている者に光を与えます。リアナ姫がそうであったように」

 月が雲間から顔を出し、池の水面に淡い揺らぎを生む。

 先ほどまで重たく沈んでいた胸の内側に、波紋が広がったような感覚がした。

 強くなれない日の自分を、否定しなくてもいい。

 なにもできないと決めつけていた時間も、ただ耐えてきた日々も、すべてを抱えたまま立っているだけで、誰かの力になっているかもしれない。

 その考えに至った途端、肩に乗っていた重しが、ほんのわずかに軽くなった。

 弱さを抱えたままでいる自分を、責め続ける必要はない。

 そう思えたことで、長く居場所を失っていた感情が、ようやく胸の内に座る場所を見つけた気がした。

 夜風が袂を揺らし、二人の影が池の縁で寄り添う。

 この夜、紗世の中で〝弱さ〟のかたちが、徐々に塗り替えられていく。

 それは目に見えない変化だったが、確かにこの先の歩みに、別の色を添えてくれるものだった。


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