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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第六章・黒炎の兆し

 王城の一角に設けられた作戦室には、まだ朝の冷気が残っていた。

 壁一面に掛けられた地図の上には、小さな駒がいくつも並び、国境線に近い辺りだけが不自然に密を成している。長卓のまわりには鎧を脱いだ将軍らと、帳簿や報告書を抱えた文官たちが詰めていた。

 分厚い扉が内側へ押し開けられたのは、ひとしきり意見が出そろい、沈黙が落ちかけたときだった。

 森の民の若者ユラが、外気を引き連れて駆け込んでくる。肩で荒く息をしており、その衣には森の土と葉の色がまだ残っていた。

「国境の森で……黒い炎を見ました」

 短い報告の一言で、部屋の空気が変わる。

 ざわめきかけた声が喉の奥で止まり、紙を繰る指の動きさえ止まった。

 ユラは一歩進み出ると、言葉を探すように目を伏せる。

 走り続けたせいで手は震えており、その震えには別の色も混じっている。

 目に焼きついた光景をうまく言葉にできず、心が追いついていない。

「燃えていたのは枯れ枝だけでした。森そのものが焼けたわけではありません。……でも、炎の色が違っていたんです。赤でも金でもなく、闇が火を食っているみたいな、底の見えない黒でした」

 ありありと思い出される異様な光景に、ユラの声は細くなった。

 聞いている者たちの間に、見えないざわめきが走る。

 長卓の端に立つバルガス将軍が、太い腕を組み直した。

 分厚い眉の下で瞳が細くなる。

「黒炎か。玄冥の残滓を疑うほかないな」

 その名が出た瞬間、目に見えぬ縄で一同の喉を締めつけたような圧が室内に落ちた。

 誰も顔色を変えないまま、しかし意識のどこかで一歩あとずさる。

 玄冥──王国史にはほとんど記されない、外つ国の災厄の名。

 かつて大陸の半ばを焼き、初代王が命を削って封じたと伝えられながら、その詳細は意図的に書き残されていない。

 名を呼ぶだけで不吉が開く、と古い戒めが今も残っている。

 バルガスはそれ以上続けず、視線だけで話を打ち切った。

 ユラも、うかつにその名を繰り返してはならないと悟る。

「これを……採ってきました」

 ユラは腰に下げていた布袋を解き、小さな包みを取り出した。指先はまだ震えている。

 布をひらくと、中から焦げた枝が現れた。普通の火に焼かれたものよりも黒さが深く、ひび割れた表面には煤が貼りついたまま固まっている。

 最前列にいた将軍たちが無言で身を乗り出した。

 顔色は変えず、しかし目の奥で警鐘の音を聞いているのが紗世にもわかる。文官たちは墨を含ませた筆を握りしめたまま、目を逸らすこともできない。

「国境付近で起きた小競り合いと、無縁とは言えまいな」

「炎の色が変わるなど、本来ありえん」

「霊脈の乱れが、森のあたりで表に出始めたのかもしれん」

 いくつもの声が、ぐっと抑えた調子で交わされる。

 そのすべてを、紗世は作戦室の入口近くで聞いていた。壁際に控える者のひとりとして立っていながら、胸の奥では別の音が鳴り始めている。

 黒い炎──その言葉が、内部のどこか柔らかな場所に鋭く刺さった。

 耳に入った瞬間、別の日の景色が重なる。

(黒い……火)

 まぶたの裏に、空から落ちてきた裂け目の線がよみがえった。

 あのとき、世界の空間そのものに傷がついたように、眩しさと暗さが捻れながら押し寄せた。裂け目の奥で渦巻いていた濃い気配。

 触れれば世界が軋む、と本能が叫んだあの圧。

 ユラの報告した炎の色と、紗世の記憶が密かに重なっていく。

 説明のつかない一致が、背骨の内側から這い上がった。

 裂け目から引きずり込まれたときのことを、紗世は意識的に思い出さないようにしてきた。

 耳鳴りのような音が頭の奥で鳴り続け、足元の地面が悲鳴を上げた感覚。骨の中までひびが入るような、あの異様な感触を言葉にすれば、再び現実に引き寄せてしまう気がしたからだ。

 それでも今、ユラの一言をきっかけに、封じていた記憶がわずかに隙間を開ける。

 息が浅くなり、指先に冷えが降りてきた。

(偶然じゃ……なかったのかもしれない)

 この世界に落ちたのは、ただの事故ではないのか。

 黒い炎という兆しと、裂け目。その二つが同じ根を持つものだとしたら──自分は、世界のどこかが壊れ始めている場所に、意図して落とされたのではないか。

 考えかけたところで、紗世は慌てて胸元へ手を上げた。

 呼吸が乱れたのを悟られぬよう、口元を押さえ、少し顎を引く。冷えた木の床を踏む足に力を込め、姿勢を整えた。

 幸い、誰も彼女の小さな変化には気づいていない。

 将軍らは黒い枝に意識を奪われ、文官たちは紙と筆のあいだを行き来している。

「黒炎の出現は、今回だけで終わるものではあるまい。再度、調査隊を出すべきだ」

 重々しい声が長卓の上を渡る。

 別の将軍が眉間に皺を寄せた。

「狼国の仕業だと決めつけるのは早い。あやつらの術に、こんな炎の話は聞いたことがない」

「だが、この報せが広まれば、強硬派はすぐにでも刃を抜きたがるだろうな。玄冥の名など出ようものなら、なおさらだ」

 争いを望む者たちの顔が頭に浮かんだのか、数人が無言で頷いた。

 黒炎という得体の知れない存在は、敵意を煽る口実にも、王国を揺らす噂にもなり得る。

 紗世は壁にもたれぬよう気をつけながら、胸の奥で別の響きを聞いていた。

 霊脈──この世界の大地に流れる見えない筋。その乱れが広がっているかもしれない、と先ほど誰かが言った。

 この世界を支える見えない流れが、どこかで歪んでいる。

 その歪みが一定の限度を超えたとき、裂け目や黒炎のような形を取って現れるのだとしたら。

(やっぱり、私も、その流れに巻き込まれているのかもしれない)

 国境の森で立ちのぼった黒炎。

 王城の地下で唸りを上げているであろう霊脈。

 そして、裂け目からこちらへと引きずられてきた自分。

 ばらばらだった点が、ゆっくりと線になっていく気配がある。それは心強さではなく、逃げ場を狭める縄のように紗世の胸を締めつけた。

 ふと、足元でなにかが動いた気がして、紗世は床を見下ろした。

 そこには、誰の影ともつかない影がひとつ、薄墨を垂らしたように静かに横たわっている。

 燭台の火が揺れたわけでもないのに、その影だけが水面のようにかたちを変えた。

 紗世の足首に触れそうなほど近くまで広がり、それから、ひと呼吸の間だけ添うように寄ってから、元の輪郭に戻る。

 触れれば冷たさと安らぎが入り混じった、不思議な感触が返ってくるだろうと、紗世にはなぜか分かった。

 それは外から差し込んだ闇ではない。彼女の内側から漏れ出し、形を取ったものに近い。

(また……大きくなっている)

 短く目を閉じ、紗世は足指に力を込めた。

 影はそれに応じるように薄れ、ただの色の濃い床の陰と見分けがつかなくなる。

 王都の外では、冬を告げる風が城壁を打っていた。

 地の底を走る霊脈は、誰にも聞こえないところで、今にも悲鳴に変わりそうな震えを続けている。

 その震えに、紗世の心のどこかも共鳴していた。

 黒炎はただの予兆にすぎない。そう直感した瞬間、背筋の奥で見えないなにかが音もなく軋み、彼女の世界の輪郭が、目に見えないところでわずかにずれた。


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