第六章・境界に走る火
狼国との境にほど近い草原には、昼だというのに薄く焦げた匂いが残っていた。
兵たちの足元には焼け落ちた草が広がり、黒い筋が大地を斜めに走っている。
夜のうちに放たれた火矢の跡なのか、それとも誰かが意図して上げた狼煙なのか──はっきりとした判別がつく前に、両軍の空気は限界に近づいていた。
◇◇◇◇◇
「この痕跡はお前たちの仕業だと報告が来ている」
獅子国側の指揮官が一歩踏み出し、声を張る。
鎧の下で肩を張り、目の前の男を射抜くように見据えた。
対する狼国の将校は、口の端だけで笑みを作った。
「そちらも、民の集落の近くまで兵を進めていると聞いたが。それとも、その事実は書状には載せぬのか?」
言葉と共に、草原に立つ兵たちの胸のうちでなにかが爆ぜる。
槍の柄を握る手が強く締まり、木の軋む音が列のあちこちから連なった。
背後から吹く風すら重く感じられ、喉の奥が乾いていく。
ここで起きているのは、記録上は小競り合いのひとつに過ぎない。
矢を交わしても死者は出ておらず、負傷者も数人。大戦と呼ぶにはあまりに小さな傷だ。
それでも兵たちの胸の底では、別の火が燻り続けていた。
「狼は裏切り者だ。王妹殿を奪った」
獅子国の若い兵が、歯の間から漏らす。
隣にいた年長の兵は、その言葉に頷きながら地面の焼け跡を見やった。
「獅子は復讐心を眠らせているだけだ。いずれ牙を剥くだろう」
同じような言葉が、今度は狼国側の陣で囁かれる。
誰が最初に口にしたのかは分からない。
だがそうした言葉は、草原を渡る風より速く野営地を巡り、兵たちの胸に根を張っていく。
獅子国の伝令が、陣の後方で馬を受け取った。
指揮官から巻物を託され、封を確かめると鞍へ身体を預ける。
「王都まで駆けろ。遅れるな」
短い指示に、伝令は無言で頷いた。
馬が地面を蹴ると、焦げ跡の上に新しい蹄の跡が刻まれていく。
彼の腕に抱えられた書簡には、誇張気味の文面が並んでいた。
『狼国兵、故意に国境を侵犯』
『挑発行為とみられる火矢の痕多数』
『戦端が開くのは時間の問題』
伝令は、文面の細部までは気にしない。
任務は届けること。ただそれだけだ。
だが、その一文一文にどんな意図が込められているのか、書いた者には明確な狙いがあった。
事実をなぞるだけでは、王都の者たちの心は動かない。
だからこそ、火の粉を大きく見せ、重く見せ、遠く離れた玉座の間にいる者の胸にまで落とす必要があるのだ。
一方、狼国側の軍営でも、同じような作業が進んでいた。
境目を示す杭の近くには、昼になっても消えきらない黒い跡が残っている。
狼国の将はその跡を足先で示し、傍に控える士官へ筆を持たせた。
「獅子の軍勢は、こちら側の土地へ踏み込んでいると記せ。あくまで事実として、だ」
「はっ」
「そして、相手が攻める気なら、こちらも備えを固めねばならん、とな」
士官は短い肯定の声を上げ、羊皮紙の上に墨を落としていく。
言葉の選び方ひとつで、報告は印象を変える。
将もそれをよく理解していた。だからこそ、必要なところだけを少し押し広げる。
兵たちの野営地では、煮煙の上がる鍋の傍らで、同じような噂が飛び交っていた。
「獅子の連中は、王妹の件をまだ根に持っているらしい」
「ならば、いつかはこうなる運命だったってことだな」
誰も真偽を確かめようとはしない。
疑いを挟む余裕がないほど、互いを警戒する日々が続いているからだ。
不安と疲労が蓄積していく場所では、簡単な物語ほど受け入れられやすい。
片や獅子国も、同じ構図を抱えていた。
王妹の死を悼む祈りの席では、狼国への怒りが言葉となって飛び交う。
宮から送られたお触れが、国境の小競り合いを〝敵国の挑発〟として伝えるたび、その思いはさらに強まっていった。
境界付近の報告書は、どちらの国でも似たような形をとって積み上がっていく。
兵の胸に生まれたささやかな苛立ちが、言葉を通して膨らみ、やがて備えという名目のもとに兵力の増強へと姿を変える。
火が燃え上がる前に、薪を積むような作業だった。
草原を撫でる風が、焼けた地面から灰を巻き上げる。
灰は空へと上がり、やがて王都の空にも届くだろう。
境界に立つ者たちが感じている温度よりも、高い熱を帯びて。
獅子国の伝令は、馬を走らせながら思う。
自分が届ける文字の列が、どれほどの重みを持って読まれるのか。
狼国の士官は、筆を置いた手を一瞬だけ空中で止めた。
書き上げた文が、どんな決定の根拠となるのかを意識しながら。
ささやかな疑念は、彼らの胸の奥で小さく息づいていたが、役目を優先する意識がそれを押し込める。
兵として、官として、それぞれの道を選んでしまった以上、個人の迷いは紙の下に隠れていく。
境界に広がる草原は、今日も変わらず風に揺れ、灰混じりの土を晒している。
ただ、その土の下には、まだ誰も見ようとしない火種が埋め込まれていた。
この小さな火が、王宮の中で生まれた別の思惑と結びついたとき──境界を走る一本の筋は、大地全体を揺るがす導火線へと姿を変える。
その未来を、今はまだ誰も知らないまま、日だけが淡く傾いていく。




