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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第六章 ・宰相の火種

 薄暗い密談室には、紙を捲る微かな音だけが流れていた。

 厚い石壁に囲まれたその部屋は、外界から切り離された小さな洞のようで、灯された火が机と書状の端だけを淡く浮かび上がらせている。

 オルディス宰相は、机いっぱいに広げられた書状へ目を落とした。

 戦況報告、物資の出入り、諸侯の駐屯地から上がってきた細かな数字。いずれも人の命と土地の行方を示す記号にすぎないが、彼にとっては王国の脈動そのものを映す血管の地図だった。

 一枚目を読み終えると、指先で端をたぐり寄せ、別の報告へ移る。

 狼国との国境付近での小競り合い。地方貴族の間で強まる強硬論。民草の間で囁かれ始めた不安の声。すべてがひとつの流れとして、彼の頭の中で組み上がっていく。

 書状の束の中央付近から、王妹リアナの名を含む報告が顔を出した。

 あのときの記録は簡潔だ。王妹は敵国の謀略により命を落とした。国を挙げて弔い、狼国への怒りを集めるべし。そう記されている。

 オルディスは短く息を吐き、口元の片側だけで笑みを作った。

(あれは上出来だった。王家への忠義を掲げる者ほど、わかりやすい敵役を求める)

 民は悲劇の理由を欲しがる。

 強硬派の重臣たちは、自らの正しさを証明するための焚き木を欲しがる。

 そのどちらにも応えられる物語を用意しただけだと、オルディスは考えていた。

 功績だと思ったことは一度もない。英雄と呼ばれたいわけでもない。

 ただ、王を正しく導くためには、国の中に火種が必要だと信じているだけだった。火のない場所では、誰も動かない。動かなければ、この国はゆっくりと腐っていく。

 王妹の死を狼国の仕業として処理したことで、炎は容易に広がった。

 民は憎しみを向ける先を得て、強硬派は武を振るう口実を手に入れた。

 王は、その炎を背に立つ象徴として位置を確かにする。

(どれも、王国を前へ進めるための手段にすぎん)

 卓上の杯を指で軽く動かし、静かな音を立てた。

 葡萄酒の表面に灯が揺らぎ、歪んだ光の筋が宰相の横顔をなぞる。

 書状を重ね直すと、その下から別の一枚が現れた。

 上部に記された題名は《召喚者に関する報告》。

「人間、紗世」

 短い一文を、オルディスは口の中で転がす。

 王のもとに呼ばれた異界の娘。今や宮中の誰もが名を知る存在となりつつある。

 王の炎を鎮めた──そんな噂が、すでに官僚層の間で小波のように広がっていた。

 最初は些細な噂話として耳にしたが、複数の報告が重なると、さすがの宰相も無視はできなくなってきた。

(人間の娘ひとりに、この国が左右される?)

 鼻先で笑い、唇の片端をわずかに吊り上げる。

(笑わせる。駒は駒にすぎない。王国の盤面を動かすのは、常にこの私だ)

 報告の行間を追いながら、オルディスはゆっくりと椅子に凭れた。

 王の炎、人間の影。そこに強硬派の憎悪を加えれば、国はどう転がるか。胸の内で、新たな図が描かれ始める。

 オルディスは机の端に広げてあった地図を引き寄せた。

 王国全土が鳥瞰の形で描かれ、山脈と河川が細い線で走っている。その片側、狼国との境界線が、濃い墨でなぞられていた。

 筆を取り、国境沿いの小さな集落の名前をひとつずつ読み上げる。

 農地を囲む集落、交易路の分岐点、古くから見張り台が置かれてきた村。どこも平穏であるほど、火を放てば燃え広がりやすい。

「憎悪は、理由があればすぐに燃え上がる。その理由を与えてやればいい」

 誰に聞かせるでもなく、低く呟く。

 強硬派の貴族たちは火を見ると高揚する。自分たちの力を示すためなら、どれほどの犠牲も正義へと変換してしまう。その性質を利用するのは、宮廷政治を担う者の務めだとオルディスは思っていた。

 筆先で境界線をなぞり、いくつかの村に印をつけていく。

 その印が、これから噂の発火点となる。

 新しい書簡を取り出し、さらさらと文を記した。

《国境周辺に不審な動きあり。調査名目で兵を動かせ》

 別の紙には、内々に流すべき文言を書き連ねていく。

『民の間で、狼国兵の影を見たとの噂ありと広めよ。集落数か所に、不穏な印象を残せ』

 噂は雪と同じだ。

 最初は小さな塊でも、転がす者がいれば、やがて誰にも止められない重さを持つ。

 そうして民の心を覆ったとき、怒りはひとつの方向へ流れ始める。

 オルディスは筆を置き、指先についた墨を布で拭いながら次の段階を思い描いた。

(そのあとで、あの人間の娘を番候補として祭り上げる。王の炎を鎮めた存在として、民の前に差し出せば──)

 国は自ずと二つに割れる。

 人間を守るべきと考える者と、異物として拒む者。

 分断は支配を容易にする。意見が揃っている場よりも、対立がある場のほうが、舵を取る者の影響力は強まる。

(あとは王がどう動くか。いや、動かざるを得ない局面を用意してやればいい)

 そのとき、王は初めて真に試される。

 炎に身を委ねるか、影に手を伸ばすか。どちらを選ぼうとも、盤上の駒はすでに宰相の想定した道をたどる。

 オルディスは息を整え、背もたれへ身を預けた。

 灯明の火が小さく揺れ、その光が机上の地図と書簡を照らし出す。

 すでに、盤上は整いつつある。

 王の炎、人間の影、強硬派の憎悪。

 これらを混ぜれば混ぜるほど、この国は思い描いた方向へ転がっていく。

「さて……次の駒を置くとしよう」

 封蝋を乗せた指先にわずかな熱が伝わる。

 いくつかの書状を封じ終えると、オルディスは扉のほうへ目をやった。

 厚い木の扉の向こうでは、まだ誰もこの小さな部屋で形づくられた企てを知らない。

 それでも、新たな火種はすでに地中で根を伸ばし始めている。

 宰相は静かな満足を胸に、次に打つ一手を思い描いた。


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