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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第五章・影を抱く者

 咆哮が途切れたあと、謁見の間には重たい沈黙だけが残った。

 先ほどまで肌を刺していた熱は薄れつつあったが、石床の下にはまだ火が眠っているような気配が残っている。誰もが声を失い、椅子の脚が擦れる音さえ聞こえない。

 その静けさを破ったのは、ラガンだった。

 額の汗を手の甲で拭い、紗世をまじまじと見つめる。

「先日も……同じ現象が起きました」

 声には困惑と驚愕がはっきりと滲んでいた。

 マーリスも胸元を押さえたまま、震えを残した息を吐き出す。

「王の炎を鎮めるなど、常識では考えられません。あの咆哮が、あれほど急に静まるなんて」

 王家に受け継がれる炎は、時に戦場を焼き尽くすほどの力を持つ。

 一度荒れ狂えば、鎮まるまで誰も近寄れない。それがこの国の誰もが共有している認識であり、恐れだった。

 その炎が、異国から連れてこられたばかりの娘が触れただけで止まった。

 その事実が、謁見の間にいる全員の理解を追い越している。

 重い足音が近づき、ガルシュが紗世の正面に立つ。

 軍務を預かる男の硬い眼差しが、紗世の頭から足先までを確かめるように滑った。

「偶然では片づけられん。紗世殿、なにをしたのですか?」

 問いかけは責めるような調子ではなく、むしろ真相を掴みたいという必死さを含んでいた。

 紗世は両手を胸の前で重ね、指先の震えを押さえ込む。

「わ、私にも分かりません。ただ……近くにいると、胸の奥がざわつくような感じがして」

 言葉にした途端、その感覚がまた目を覚ます。

 ミレイアに触れた時も、レオンの炎に手を伸ばした時も、あの場所でなにかが動き出した。深いところから伸びた影のようなものが、痛みや熱に触れていくあの感覚。

 自分の内側でなにが起こっているのか、紗世自身がいちばん分かっていなかった。

「……胸の奥が?」

 マーリスが思わず問い返す。

 説明にならない説明に、重臣たちの間で小さなざわめきが起きた。

 そのざわめきを断ち切るように、レオンが一歩踏み出す。

 玉座にいた時よりも近い位置から、まっすぐ紗世を見据える。

 先ほどまで炎を宿していた金の瞳は落ち着きを取り戻していた。

 しかし、その奥にはいまだ言葉にできない感情がうごめいている。苛立ちでも安堵でもない、その両方を抱え込んだような色だ。

「紗世」

 名を呼ぶ声は低く、謁見の間の空気を深く揺らす。

 呼ばれた瞬間、紗世の背筋に緊張が走った。

「お前は、危うい」

 短く告げられた言葉が、鋭い刃のように胸へ突き刺さる。

 そこに込められていたのは、紗世への非難だけではなかった。王として、この国を預かる者として、得体の知れない力に対する警戒が混じっている。

 レオンはそれ以上なにも言わず、踵を返した。

 長い外套の裾が床をかすめ、熱の筋だけが彼の通り道に残る。

 誰もその背を呼び止められなかった。

 紗世は伸ばしかけた手を胸元で握りしめ、去っていく足音が小さくなっていくのを聞きながら、心の中で自分に問いかける。

(危うい……私が? それとも、この影が?)

 謁見の間に満ちていた緊張は、方向を変えて紗世に集まり始めていた。

 レオンの姿が扉の向こうへ消えると、重臣たちの意識が一斉に紗世へと向かう。

 静寂の中に、言葉にならない距離感が生まれる。尊重と警戒が混ざり合い、場の温度を複雑にしていた。

 ラガンが咳払いをひとつ挟む。

「紗世殿。王の炎は、本来誰にも触れられません。触れた者は心身を壊すと記録にあります」

 彼の言葉に、紗世は思わず目を見開いた。

 先ほど肌を焼くような熱を感じたことを思い返す。それでも自分は今、正気でここに立っている。腕にも、焦げた跡ひとつ残っていない。

「それなのに、あなたは陛下のそばに近づき、触れた。加えて炎を鎮めた。……これは、王宮の歴史でも例を見ない事態です」

 マーリスがそっと言葉を継ぐ。

 さきほどまで震えていた肩が、いくらか落ち着きつつあるが、目の奥にはなお恐れが残っていた。

「危険だと決めつけたいわけではありません。ですが、わたしたちには判断材料が少なすぎるのです」

 ガルシュは腕を組み、低く唸る。

 あまたの戦を見てきた男らしい顔つきに、慎重さが浮かんでいた。

「王の傍らに置く存在として、その力がなんなのか、いずれははっきりさせねばならんでしょう」

 紗世は三人の言葉をひとつずつ飲み込みながら、無意識のうちに手を握り締めていた。

 反論できる材料はなにもない。むしろ自分自身が説明を求めたい側だった。

(……祝福なのか、災いなのか……)

 ミレイアに触れた時、彼女の胸を締めつけていた罪悪感が解けていった。

 レオンの炎に触れた時、荒れ狂う熱が影の底へ落ちるように静まった。

 二度続いた出来事は、もう偶然とは呼べない。

 それでも、名を与えられないままのこの力をどう受け止めればいいのか、紗世には分からなかった。

「紗世様」

 控えていたルナが、おそるおそるといった様子で近づいてくる。

 謁見の間の緊張を察しているのだろう。声は小さいが、その中に紗世を気遣う色があった。

「お疲れでしょう。お部屋に戻られますか?」

 尋ねられ、紗世は小さく頷く。

 ここに立ち続けていても、答えの見つからない問いばかりが増えていきそうだった。

 深く頭を下げて謁見の間を辞し、廊下へ出る。

 外の空気はまだ昼の名残を抱きつつも、窓の向こうには夕刻の色が滲みはじめている。宮廷の屋根が連なり、その隙間を風が抜けていった。

 歩みを進めるうち、胸の奥のざわめきは少しずつ形を変えた。

 恐れだけではない。自分の中に確実にあるものを、認めざるを得ない感覚が芽を出している。

(……影を抱いているのは、きっと私だ)

 誰かの痛みや炎に触れた時、いつも動き出すあの感覚。

 それは他でもない、自分の内側に巣くう影だ。

 部屋に戻ると、窓から見える空はすっかり薄闇に沈んでいた。

 朱雀祭の準備で飾られた布や灯りが中庭に浮かび上がり、日々の営みが続いていることを告げている。

 紗世は寝台の端に腰を下ろし、胸に抱えた不安と共に、今日一日の出来事をなぞった。

 ミレイアの痛み。レオンの炎。咆哮の止んだ刻。そして『危うい』と告げた彼の声。

(祝福と呼べる日が来るのか、それとも――……)

 問いを抱えたまま、目を閉じる。

 影は胸の奥で丸くなり、眠りにつくタイミングを待っているようだった。

 窓の外に夜が降りていく。

 紗世は、自分の内に宿る影を腕の中に抱きとめるような気持ちで、その長い一日を閉じた。


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