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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第五章・咆哮の止む刻

 謁見の間に兵士の荒い息遣いが響き渡り、張りつめた空気を切り裂いた。

「狼国との国境で、軍が大規模に動いています!」

 叫んだ勢いのまま膝をつき、額が床に触れそうなほど深く頭を垂れる。

 重臣たちは一瞬でざわつき、玉座の前に視線を向けた。

 レオンの呼気が変わる。

 肩の筋がわずかに固まり、金の瞳に熱が灯った瞬間、空気の質そのものが一変した。

 次いで、謁見の間全体が熱を帯びる。

 壁に刻まれた紋様が赤みを増し、柱の飾りが色を変えていく。床石の下から響いた低い震動が、耳の奥で唸るように響いた。

(これが……炎の咆哮)

 重臣たちは椅子を押しのけて後退し、兵士たちは武具を握り直す。

 誰もが自分の身を案じるように距離を取り、しかし玉座から放たれる熱から逃げきれずにいた。

 紗世がこの場に足を踏み入れたのは、書庫へ届け物を頼まれた帰り道だった。

 謁見の間の入口を通りかかった瞬間、押し寄せてきた熱に息が詰まり、壁へ手をつく。

「……っ!」

 耳を打つ衝撃音に耳鳴りがする。

 しかし奥に立つレオンの背中を見た途端、紗世の意識は熱よりも別のものを捉えた。

 金の炎が荒ぶり、彼自身を焼き尽くしてしまいそうに見えたのだ。

(……苦しそう)

 理屈ではない。

 ただ、あの炎の中心にいるレオンが、痛みに押し潰されそうだと胸が告げていた。

 恐怖が首筋を走ったが、それよりも強い衝動が足を動かす。

 誰も近づけない熱の渦へ向かって、紗世は踏み込んだ。

「紗世殿、危険だ!」

「下がれ!」

 重臣たちの声が飛んだが、耳に届く前に熱の壁を越えていた。

 衣の裾が焼けそうな熱に晒されながらも、紗世はまっすぐレオンに手を伸ばす。

 触れた瞬間、世界が裏返った。

 燃え上がっていた熱が、その刹那、底の深い影へと吸い込まれるように引いた。

 耳を塞いでいた咆哮が止まり、空間を満たしていた赤い脈動も消えていく。

 レオンの身体が硬直し、紗世を見る瞳がかすかに揺れた。

 炎の色が弱まり、金の奥に暗い影が差す。

 その影は、紗世が触れている右腕から広がるように沈んでいった。

「……今、なにをした?」

 低い声が落ちる。

 怒りの響きではない。理解しがたい現象を前にした獣の問いだった。

 紗世は指を離し、震えを抑えながら息を整えた。

「なにもしていません。ただ……あなたが苦しそうに見えたので」

 その言葉に、レオンは返す言葉を失ったように紗世を見つめる。

 周囲の熱は完全に消え、謁見の間はようやく静寂を取り戻した。

 崩れていた重臣たちが姿勢を正す。

 まだ恐怖の余韻を残したまま、互いに表情を確かめ合った。

「陛下、今の咆哮……」

 ラガンが途切れた声で言い、ガルシュと目を合わせた。

「止まりました。紗世殿が触れた瞬間に」

 レオンの喉がわずかに鳴る。

 紗世を見る瞳は深い影を映し、その中心に彼女の姿だけを捉えていた。

 紗世は腕に残った熱の名残を確かめるように見下ろし、胸の奥が細く震える。

(影が……あの炎に触れた?)

 説明のつかない感覚が、肌の下で揺れ続けていた。

 熱が引いた謁見の間は、つい先ほどまでの混乱が嘘のように落ち着きを取り戻していた。

 だが紗世の胸は逆に落ち着かず、脈が一定のリズムを刻まない。

 レオンは腕をわずかに持ち上げ、紗世が触れた場所を確かめるように指を閉じた。

 そこには赤い炎の名残がうっすらと漂っていたが、先ほどのような激しさはどこにもない。

「紗世殿。今の現象をどう説明する?」

 それは落ち着いた声音だった。

 感情を押し殺しているような深さがあり、その下に別の色が隠れている気配がした。

 紗世は言葉を探し、唇を噛む。

 あの瞬間、確かに自分の内側が反応した。

 ミレイアの痛みに触れた時と同じ、名前のない影が動くような感覚。

「……説明はできません。ただ、あなたが苦しそうで……」

「それだけで、咆哮が止むものなのか?」

 問いは厳しいようでいて、責め立てる調子ではない。

 むしろ紗世の答えを求めているように聞こえた。

 レオンの内側にも困惑があり、それを抑えているのが分かる。

 紗世は胸に手を添え、深く息を整えた。

「私自身、なにが起きたのか分かりません。ただ……触れた瞬間、あの炎が沈んでいくのを感じました」

 正直に言うしかなかった。

 誰かを安心させるための言葉ではなく、自分の内側をそのまま出すしかない。

 レオンは紗世から目を逸らさず、沈黙を落とした。

 その沈黙に、重臣たちは息を呑んで動きを止める。

「……紗世殿」

 レオンがようやく声を絞り出す。

「お前は、炎を抑えるなにかを持っているのか?」

「分かりません。ただ……胸の奥が反応したんです。炎に触れた時みたいに」

 ミレイアの痛みに触れた時の感覚が蘇り、紗世は指を見つめた。

 自身の中にある影が、また何かを拾い上げたような余韻がまだ残っていた。

 その時、ラガンがおそるおそる口を開いた。

「陛下……王家の炎に触れてなお正気を保てる者など、過去の記録にもございません。まして抑えるなど……」

 重臣たちは口々に意見を交わしはじめ、謁見の間はざわめきに覆われた。

 だがレオンは一切そちらを見ず、紗世だけに意識を向けている。

 金の瞳の奥で、かつてない色が揺れた。

 恐れでも拒絶でもなく、理解を求めようとする静かな熱。

 紗世が触れた腕に意識を残したまま、彼はゆっくりと言った。

「紗世。お前は……俺の炎を止めた」

 その言葉に、紗世の胸が跳ねた。

 自分が聞き違えたのではないかと思うほど、重い意味を含んだ言葉だった。

 レオンは続ける。

「炎の咆哮は、王家の血に宿る制御できぬ力だ。止まることは、本来あり得ない」

 紗世の中で、先ほどの影が小さく震える。

 説明のつかない感覚が脈を打ち、自分の存在がわずかに揺らぐ。

「紗世殿」

 レオンの声が呼びかける。

「お前は一体……」

 問いの続きを聞く前に、胸の奥でなにかが反応した。

 影がかすかに震え、熱と結びつく。

(どうして……私が?)

 理由のない感覚が、紗世の世界をそっと揺らした。

 咆哮が止んだ刻。

 それはただの偶然ではなく、これから訪れるなにかの始まりだった。


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