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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第五章・ 影が触れた夜

 与えられた寝台に身体を沈めても、瞼の裏は冴えたままだった。

 天蓋の布は淡い色を重ねて波打ち、見慣れぬ文様が夜気に合わせてわずかに揺らぐ。

 敷かれた寝具は柔らかいのに、肌へ落ち着かず、胸の内側だけが騒ぎ続けていた。

 音のない部屋には火鉢の名残りが残り、炭の匂いが薄い層を作っている。

 じっと横になっていても心が落ち着かないのは、この宮廷に慣れていない夜だからだと理解していた。

 知らない廊下を案内され、知らない人々に頭を下げ、そのすべてを飲み込む間もなく日が暮れた。

 緊張はまだ肌に張り付いたままなのだ。

 寝台から上体を起こした時、廊下のほうで微かな音がした。

 この場所は夜でも完全には眠らないらしい。

 巡回の兵が歩く歩調が規則的に続き、遠くのほうで誰かが炭を崩すような音が混じる。

 息をひとつ整え、音のしたほうへ足を向けた。

 通された部屋の外へ出ると、柱の陰に人影が寄り添うように立っていた。

 足音を殺して近づくと、それがミレイアだと分かった。

 いつも背筋を伸ばし、周囲への気配りを忘れない彼女が、壁に肩を預けている。

 髪はほどけ、目の下に落ちた影が濃い。

「ミレイアさん?」

 声をかけた瞬間、彼女の膝が崩れ、身体が支えを失った。

 咄嗟に腕を差し出して抱きとめると、驚くほど冷えているのが伝わってくる。

 肩も指も力が抜け、支えなければその場に座り込んでしまいそうだった。

「起こしてしまいましたね。申し訳ございません」

 細い声が喉の奥から押し出される。

 言葉を継ぐ前に、ミレイアは胸元を押さえた。

「夜になると、リアナ様のことを思い出してしまうのです」

 その名を聞いた時、紗世の胸のどこかがきゅっと縮んだ。

 レオンの瞳にも刻まれていた痛みと同じ色が、彼女の表情を暗く染めている。

 失った人を呼ぶ声は、支えを探してさまよっているようだった。

「少しの間、手を貸していただけますか……自分が保てなくて」

 頼られたことに驚きながらも、紗世はその指を取った。

 触れた瞬間、指先が引き寄せられるような感覚が生まれた。

 温度とも違う、境界のないものが紗世の内側へじわりと入り込む。反射的に手を離そうとしたが、ミレイアの指は弱くしがみついている。

 次の瞬間、知らない光景が紗世の脳裏に広がった。

 陽の当たる庭。花々の間を抜ける穏やかな色。笑う少女。その隣で、ミレイアが嬉しそうに頬を緩めていた。少女が振り返り、金の色を帯びた髪が揺れ、名前が胸の奥を打つ。

 リアナ。

 ミレイアが守れなかった、大切な主。

 その面影と同時に、胸にしがみつくような後悔が流れ込んできた。

『——あの時、自分がもっと動けていれば……』

『——手を伸ばせていれば』

 紗世は息を整えようとした。けれど指先から入り込む痛みが、細い糸のように彼女の心に触れる。切り離されていた誰かの想いが、その糸を伝って紗世の内側へ落ちてくる。

 引き剥がすような荒いものではなく、長い時間をかけて固く結ばれた後悔がほどけるような感覚だった。

(なに? ……これ……)

 胸の奥が熱くなり、呼吸の深さが変わる。

 ミレイアの肩が少しだけ下がり、張りつめていた空気が薄くなるのが分かった。

「……紗世さん?」

 ミレイアが顔を上げた。

 揺れ続けていた呼吸が整い、胸の上下が落ち着いていく。

 長い時間、誰にも触れられなかった痛みがようやく落ち着きはじめた人の表情だった。

「胸の辺りが軽くなったような気がします。夢を見たようでした。リアナ様が、昔のまま微笑んで……」

 その声には、止めようのなかった後悔が薄らいだ気配があった。

 だが紗世の胸には別の波が立っていた。

「私は、なにもしていません。ただ……手を握っただけで」

 そう言いながらも、自分が感じたものを否定しきれずにいた。指先から流れ込んだ痛み。知らない景色。胸の奥でひそかに広がった熱。どれも説明のつかないものばかりだ。

 ミレイアは壁から身を離し、ふらつきながらも丁寧に礼を述べた。

「今夜は眠れそうです。本当に、助かりました。ひとりになることが怖かったのですが……今は違う気がします」

 彼女の声には、ほんの少し生気が戻っていた。

 紗世は彼女の歩みを見守るように廊下へ出る。

 淡い明りが床に広がり、昼間は気づかなかった宮廷の夜の顔が静かに覗いていた。

 屋根を渡る風の音、火鉢の灰が落ちる小さな響き、そして警護の兵が歩く足音。

 人の営みが途切れないこの場所では、夜の闇さえもどこか脈動しているように思えた。

 ミレイアが自室の扉の前で振り返る。

「紗世様もお休みください。今夜のご恩は、決して忘れません」

 軽く頭を下げたあと、ミレイアは扉の奥へと消えていった。

 音が途切れた廊下に、ひとり残された紗世は、手を胸元に寄せる。

(どうして……あんな景色が見えたんだろう)

 問いは誰にも向けられず、胸の奥に沈んでいく。

 ミレイアが流した想いが、自分の中に薄い痕跡を残している。リアナという名の少女の笑顔が、まるで夢の残り香のように指先にとどまっていた。

 廊下を戻りながら、紗世は自分の掌をゆっくり開いた。

 どこにも変化はないのに、内側でじんとする感覚が消えない。その感覚がなんなのか理解できずにいる自分がいた。

 室内へ戻ると、天蓋の布が再び揺れた。

 宮廷の夜気はさっきよりも静まり返り、火鉢の赤みだけが薄明りを作っている。

 寝台に腰を下ろし、紗世は背にかかる布を指で確かめた。先ほどまでの焦りは薄れたものの、胸のざわつきはまだ完全には収まっていなかった。

(あれは、力……? それとも……)

 ひとつ思考を進めるたび、心が奥に引き込まれるようだった。

 ミレイアの痛みに触れた時、紗世の内側で確かに何かが応えた。寄り添い、拾い上げ、そして溶かした。そんなふうに説明できない働きが、無言のまま自分を通り抜けた。

 寝具へ身体を横たえると、天蓋のすき間から夜の気配が落ちてきた。

 昼間の緊張は薄れつつあるのに、胸の奥では何かがゆっくり膨らんでいく。形を持たず、名前のないもの。それが、今夜初めて息づいたように思えた。

 指先に残る微かな痕跡をそっと包む。

 触れるたび、胸の奥が少し締まり、その度に別の感情が芽を出す。恐れよりも、不思議と静かな確信に近い感覚だった。

(もしこれが……私の中にある力なら)

 考えが言葉になる前に、瞼が自然と下りた。

 眠気はまだ遠い。それでも心は少しずつ落ち着き、身体の重みが寝具に広がっていく。

 影が触れた夜。

 この夜がなにを告げる始まりなのか、紗世はまだ知らない。

 だけど確かに、なにかが動き出した気配だけが胸に残り続けていた。


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