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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第四章・揺らいだ炎

 回廊の奥から熱が押し寄せてくる。

 砂漠の陽射しではない。

 もっと鋭く、肌の内側まで入り込むような熱だ。

 紗世は足を止め、思わず息を浅くする。

 赤い布が下がる石壁、陽を受けて鈍く光る柱。

 その全てが、目に見えない灼熱の膜に包まれた。

 先を歩いていたレオンが、ぴたりと立ち止まった。

 振り返った横顔はいつも通り冷静なはずなのに、その目の色が変わっている。

 金――瞳の奥に濃い金が灯り、底で荒れた炎がうねっていた。

 感情が極まったときだけ現れるという〝王の炎〟。

 宮廷で耳にした説明が、遅れて紗世の脳裏をかすめる。

 回廊の空気が波打った。

 石壁が細かく震え、床の石がきしむ。

 髪の先が熱に持ち上げられ、喉に熱気が張りついた。

「……レオン様?」

 声を出した途端、熱がさらに強まる。

 胸に入ってくる空気でさえ焼けているようで、呼吸が浅く乱れた。

 後方で、従者たちが身構える気配がする。

 ラガンが片手をわずかに上げ、紗世へと腕を伸ばしかけた。

「殿下、危険です。王の炎が――」

「……退がれ」

 レオンの低い声が、熱の中で響いた。

 言葉に含まれた気配が鋭く、紗世の背筋に冷たいものが走る。

 逃げろ、と身体のどこかが告げてくる。

 このまま近くにいれば、焼かれる。ここにいるべきではない。

 それなのに、足は動かなかった。

 あの執務室で交わした言葉が脳裏に返る。

 弱さを口にするな、と切り捨てた声。

 その裏側で、誰も触れられない傷を抱えていた男の瞳。

(この炎は……私のせい?)

 さっき、自分は「弱い」と、はっきり伝えた。

 怖いことも、不安も隠さないと宣言した。

 それが、彼をまた追い詰めてしまったのではないか――。

 胸の奥が痛んだ。

 逃げ出したいのに、背を向けたら本当に取り返しがつかなくなる気がする。

 ここで目を逸らしたら、この人の中で絶対に触れてはいけない場所が、完全に崩れてしまうような予感があった。

 怖い。

 熱が肌を刺し、喉が焼ける。膝も震えている。

 それでも紗世は、一歩だけ前へ出た。

 足が床に張りついたように重いのに、靴底が石を踏む音だけがやけに大きく聞こえる。

 焼けるような空気の中で、レオンの金の瞳が紗世をとらえた。

 そこには怒りも戸惑いもあったが、それ以上に、行き場を失った痛みが宿っている。

 逃げてはいけない――そう思った。

 喉の奥が乾いて声が出しにくい。

 それでも、紗世はかろうじて言葉を絞り出した。

「レオン様……自分を追い詰めないで」

 掠れた声だった。

 責める響きも命令もない。ただ、苦しんでいる誰かの肩に手を添えるような調子で。

 その瞬間、回廊に満ちていた熱が変質した。

 床から立ちのぼっていた温度が、ふっと落ちる。

 荒れ狂っていた炎の気配に薄い影が差し込み、金の光の色がわずかに沈んだ。

 レオンの目の奥で燃えすぎていた炎が、外から抱きとめられたように形を変える。

 紗世には、灼ける渦の中心に、柔らかい陰が染み込んでいく絵が見えた気がした。

 髪を持ち上げていた熱風が止む。

 石壁の震えも止み、回廊に本来の静けさが戻り始める。

「……今のは……」

 レオンが、小さく息を吐いた。

 彼自身、なにが起きたのか理解できていないように見える。

 背後で控えていたラガンが、息を詰めた音を立てた。

「王の炎が……鎮まった?」

 彼の声には、隠しきれない驚愕が滲んでいた。

 ガルシュも、険しい顔で前へ出る。

 老いた獅子の耳がぴくりと動き、金の瞳が大きく開かれた。

「殿下、さきほどまでの熱が……ほとんど消えておりますぞ」

 紗世は胸元を押さえた。

 自分の心臓も、つい先ほどまで暴れ回っていたのに、今はひどく疲れたように重く打っている。

(私? ……私がなにをしたの?)

 特別な力を使った実感はない。

 ただ、この人にこれ以上、辛い思いをしてほしくなくて、言葉を投げただけ。

 でも、確かに変化が起きた。

 焼き尽くすはずだった炎が、ひととき揺らぎ、色を変えたのだ。

 レオンは紗世を見つめていた。

 感情を読み取られまいとする、いつもの固い表情。その奥に、驚きと、名もない不安が混ざっている。

 紗世は視線を逸らさず、そのまま立ち尽くした。

 膝の震えはまだ治まらない。それでも、逃げたいという気持ちはなかった。

 逃げてはいけないと、もう知ってしまったから。

「……殿下」

 沈黙を破ったのは、ラガンだった。

 慎重な足取りで二人の距離を測りながら、レオンの横に並ぶ。

「今の現象、記録しておくべきかと。王の炎がこれほど短時間で収まった例は、少なくとも私の知る限りではありませんでした」

 彼の声はいつも通り冷静だが、わずかに震えを含んでいる。

 レオンは答えず、しばし紗世を見据えたままだった。

 やがて、自分でも気づかぬように小さく首を振る。

「……俺が抑えたわけではない」

 認めるように、低く溢す。

「さきほどまで、炎が骨の内側まで食い込んでいた。自分の意思で止められる状態ではなかった」

 その告白に、ラガンとガルシュが同時に息を呑んだ。

 老獅子は、顎に刻まれた傷跡へ手を触れる。

 若い頃、暴走した王の炎に焼かれた跡だと、さきほど聞いたばかりだ。

「では……紗世殿の言葉が?」

 ガルシュが紗世を見た。

 責める色ではない。ただ、確かめたい一心だけがにじんだ眼差し。

 紗世は咄嗟に首を横に振る。

「わ、私はなにも……ただ、胸が苦しくて。レオン様が、ご自分をさらに傷つけているような気がして、それが嫌で……」

 言葉を探しながら、自分の胸の前で両手を握りしめる。

 誤魔化したくないのに、うまく伝えられない。喉がきゅっと縮んだ。

 ラガンは、記録板に素早くなにかを書きつけながら呟いた。

「王の炎は、王族の血と霊脈に深く結びつく力。通常は外部から干渉できないはず……」

 彼の視線が、紗世の胸元へと落ちる。

 召喚の痕跡を示す紋章が、薄い金の線で肌に刻まれている場所だ。

「番候補の力なのか」

 その言葉が、廊下の空気をわずかに震わせた。

 紗世は肩を竦める。

 番――この国の王に寄り添い、炎を支える存在。

 古き龍の預言とともに、何度も耳にした言葉。

(私なんかが……本当にそれなの?)

 自分と王太子という組み合わせが、途方もなく釣り合わないものに思えて、胸の奥がざらついた。

 ただの司書で、平凡で、特別な才能なんてひとつもない。

 そんな自分が、王の炎を鎮める存在だなんて、とても信じられない。

 レオンは、静かに息を吐いた。

 金色だった瞳は、いつもの落ち着いた琥珀へと戻りつつある。

「番候補かどうかは、まだ決まっていない」

 彼はそう言って、ラガンの言葉を遮った。

「今はただ、ひとつの事実だけを覚えておけばいい。――俺は先ほど、自分の力を制御できなかった。だが炎は沈んだ。そばにいたのは、この女だけだ」

 その言い方は、紗世を断罪するものではなかった。

 事実だけを丁寧に拾い上げ、目の前に並べている。

 紗世は、胸元へ置いた手に力をこめる。

 心臓がまだ少し速い。だけど、さっきのように暴れ回ってはいない。

(もし本当に……私の言葉が届いたのだとしたら)

 怖い。

 嬉しいどころか、責任の重さに押し潰されそうになる。

 それでも、同時にほんの小さな光も灯った。

 レオンの中で荒れ狂う炎に対して、自分には触れられる場所があるのかもしれない。

 誰も近づけず、誰も救えなかった痛みに、少しだけ影を落とせるのかもしれない。

 そんな可能性が、紗世の中で膨らんでいく。

 レオンは紗世の前まで歩み寄った。

 先ほどまで燃え上がっていた気配は、今は深く沈んでいる。

「さっきのお前の言葉は……」

 低い声が、近くで響いた。

「俺を止めるために口にしたのか。それとも、自分のためなのか?」

 問われて、紗世ははっとする。

 思い返してみても、その境界が分からない。

 自分が怖かったからか。

 それとも、この人の中でなにかが壊れてしまうのを見たくなかったからか。

 どちらも同じくらい大きくて、ひとつに混ざっていた。

「……分かりません」

 紗世は正直に答えた。

「逃げたいと思ったのは本当です。それでも、逃げたら後悔するとも思いました。あなたが、もっと傷ついてしまう気がして」

 誤魔化しも飾りもない言葉が、廊下へ落ちる。

 レオンはしばらく黙っていた。

 炎の代わりに、複雑な感情が目の奥を過ぎっていく。

 やがて、ほんのわずかな変化が生まれた。

 彼の肩から、目に見えない重りが一枚分だけ剝がれ落ちたように見える。

「……逃げなかったことだけは、評価する」

 不器用な言葉が、それでも紗世の胸に温かさを落とした。

「怖くても、その場に立つ。それができる者は多くない」

 それは、自分に向けてはいえない台詞なのかもしれない。

 レオンはわずかに目を逸らし、奥の窓へと顔を向けた。

 外では、灼けた風が城壁を叩いている。

 砂を含んだ風の音が、ここまで届いた。

(この人は、王の炎をひとりで背負ってきた)

 紗世は、胸の奥でそっと呟く。

(それなら私は、その炎が燃えすぎないように、少しでも影を差し出せたらいい)

 怖さも迷いも消えはしない。

 それでも、さっき自分が取った一歩だけは、嘘ではなかった。

 レオンの炎が揺らいだ瞬間。

 紗世の中にも、新たな決意の火種がひっそりと灯っていた。


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