第四章・触れた痛み
執務室に足を踏み入れた瞬間から、空気は外とは別物だった。
窓の外から届く熱気はあるのに、部屋の内側には冷えた緊張が張りつめている。
机の上には地図と駒、封蝋の割れた書簡の束。
戦と政だけが許される場所に、紗世だけが異物として立っていた。
扉の向こうを行き来する兵の足音がかすかに響く。
しかし、その気配でさえ壁一枚隔てた別世界の出来事のように思える。
レオンは机から半歩離れ、紗世の正面に立った。
鎧の肩がわずかに鳴る。
短い沈黙が落ち、そのあとで、彼は迷いのない声を放った。
「弱さを口にするな」
まるで、そこに見えない線を引くような一言だった。
責める響きというより、刃の平らな面で言葉を断ち切るような硬さがある。
紗世は胸の奥がきゅっと詰まり、思わず顔を上げた。
真正面から彼の目を受け止めたとき、その奥で揺らいでいるものに気づく。
たった今の言葉と同じくらい鋭い痛みが、そこにあった。
ただ強いだけの人ではない。
揺らぎを押しつぶし、自分で自分の首を締めながら立っている人間の目だった。
「弱さを認めた瞬間、守るものを失う。……俺はそれを知っている」
低く落とされた声は、今この場の紗世ではなく、別の誰かに向けているように聞こえた。
過去のどこかにいる自分自身へ、繰り返し叩きつけてきた言葉のようでもある。
胸の内側がひりつく。
さっきまで自分に向けられた怒りだと思っていた感情が、別の形を取り始めた。
(この人は、きっと弱さを許されないまま生きてきたんだ)
その考えが浮かんだ瞬間、目の前の王太子の輪郭が変わって見えた。
生まれながらの強者でも、なにも感じない石でもない。
強さという鎧をまとい続けなければ、立っていられなくなる人。
その鎧の裏側には、誰にも触れさせたくない傷が潜んでいる。
「私の言葉が……あなたを怒らせたんですか?」
紗世はおそるおそる口を開いた。
問いかけているのに、声は自分でも驚くほど細い。
「怒ったわけではない」
レオンは短く答えた。
「ただ――弱いと言うな。それは足元を掬われる前触れだ」
淡々とした口調なのに、語尾まで冷えきらない。
どこかで引っかかりを残したままの言葉だった。
それは叱責ではない。
喪失の記憶に根を張った戒めの匂いがする。
(誰かを守ろうとして、守れなかったことがある……)
根拠はないのに、胸の奥で確信めいた予感が形を取った。
そして、その相手を守れなかった自分を、レオンは今も責め続けている。
紗世は喉元まで上がってきた言葉を、そっと飲みこむ。
本当は言いたかった。
『――私は、弱いです』
そう認めてしまいたかった。
けれど、口にはできなかった。
さっき彼が放った「弱さを口にするな」という言葉が、単なる教訓ではないと分かってしまったから。
彼は、「弱い」という音の並びそのものに縛られている。
そこに触れた瞬間、まだ塞がりきらない古い傷に触れてしまう。
そんな予感が、紗世の舌を止めた。
(ああ……この人には、弱いと言ってはいけないんだ)
胸の奥で、その事実を静かに受け入れる。
言葉の刃で傷つくのは、自分ではなく、彼の方なのだ。
レオンは紗世から目を逸らさないまま、きっぱりと言い切った。
「役目は変わらん。……お前には価値がある」
それは命令の響きを持ちながら、どこかで願いにも聞こえた。
国を救う道具としての価値なのか。
誰かを再び喪うまいとする、自分自身への言い訳なのか。
紗世には判別がつかない。
ただ、その一言が彼自身の痛みと強く結びついていることだけは、直感的に分かった。
自分の不安よりも先に、目の前に立つ男の孤独の方が胸に刺さる。
その感覚に、紗世はひそかに戸惑った。
互いの距離は一歩も縮まっていない。
それでも、触れてしまったのだ。
レオンの中にある、強さの呪いに。
室内の静けさが、いっそう濃くなる。
外から差し込む陽が地図の上に境界線を落とし、その影が紗世とレオンの足元で交わっていた。
紗世は唇を噛み、慎重に言葉を選んだ。
「……価値、という言い方は、少し怖いです」
そこからなら、踏み込める気がした。
「私のことを大事にしてくださっているのか、それとも役に立てるかどうかだけで、判断されているのか、分からなくなるから」
言いながら、胸の内側がきりきりと痛む。
自分で口にした言葉が、そのまま過去の自分へ向かうからだ。
図書館の奥で、ひっそりと資料を整理していた日々。
誰かの役に立てた日だけが、その日を肯定してくれるように感じていた。
(ここへ来ても、同じことを繰り返すのだろうか)
役に立てなければ、存在している意味が薄くなってしまう恐怖。
レオンの〝価値〟という言葉は、紗世のその恐怖を無意識に刺激していた。
レオンは、しばし沈黙した。
机に置いていた手をゆっくり離し、指先を一度だけ握りしめる。
「国を背負う者にとって、役に立つかどうかは、確かに重要だ」
言葉は現実をなぞるように硬い。
それでも、さきほどより棘は少ない。
「だが――それだけなら、お前をここまで連れて来たりはしない」
「ここまで?」
紗世が問い返すと、レオンは部屋の壁を視線でなぞるようにしてから口を開いた。
「この執務室は、王族とごく限られた者しか入れない。外から見れば、お前を国の奥に招き入れた形になる」
それはつまり、自分を単なる駒以上の位置に置いたと宣言しているのと同じだ、と彼は続けた。
「駒なら、もっと扱いやすい場所がある。人々の目から遠ざけ、命の替えも利くようにすればいい。だがそうしなかったのは……俺自身の選択だ」
そこまで告げて、レオンは短く息を吸う。
「お前を守ると宣言したのも、俺だ」
それは国のためであり、同時に彼個人の責任でもある。
そのことを、レオンは自ら繰り返し胸に刻みつけているのだろう。
紗世はそっと瞼を伏せた。
さっきまで「押しつけ」にしか思えなかった言葉の中に、少し違う成分が混じっていることに気づき始める。
「……あなたは、自分の弱さを認めたら守るものを失うと思っているんですよね」
おそるおそる問いかける。
レオンの肩が、ほんのわずかに強張った。
「だったらせめて、私だけでも、ここで『弱い』っていう言葉を使えるようになりたいです」
紗世は胸の前で両手を重ねた。
指先が冷えているのに、それを隠すように、指と指を絡める。
「怖いとか、不安だとか、情けないとか。そういうものを、どこかで誰かに出せないと、人は途中で折れてしまうと思うから」
これまで過ごしてきた時間が、紗世の背中をささやかに押した。
仕事で失敗した日、家へ帰ってから机に突っ伏し、小さく愚痴を零すことで、どうにか翌日も出勤できたことを思い出す。
レオンのように、すべてを飲み込んだまま戦い続ける生き方は、自分には到底できない。
「私は強くなんてないです」
紗世は、はっきりと断言した。
「でも、弱いからこそ誰かの痛みに気づけるって、信じたいんです。役に立つかどうかじゃなくて、隣にいる人の心が壊れないように、手を添えることくらいなら……たぶん、できます」
それは誇れる力ではないかもしれない。
けれど、彼女が自分で見つけたたったひとつの取り柄だった。
レオンは紗世をじっと見つめたまま、しばし言葉を失っていた。
いつもなら即座に返ってくるはずの反論が、出てこない。
やがて、彼はほんのわずかに目を伏せる。
「……弱いと言うなと、さっきは言った」
ゆっくりとした口調で続けた。
「だが、お前が自分の弱さを認めることで、誰かの心を守れるというのなら、その在り方まで否定するつもりはない」
厳しい男が譲歩する瞬間は、とても不器用だ。
言葉の端々までぎこちないのに、そのぎこちなさが紗世の胸に温かなものを落としていく。
「ただし」
レオンは一歩だけ近づいた。
鎧の金具が音を立てる。
「弱さを言葉にするときは、決して諦めには変えるな。それだけは約束しろ」
紗世は顔を上げた。
彼の目の奥に、先ほどとは別種の光がある。
失う痛みを知る者なりに、懸命に差し出した条件なのだと思った。
「……はい」
紗世は頷いた。
「怖いだとか、不安だとかは言います。でも、諦めるときだけは自分できちんと決めます。そのときが来るまでは、ちゃんと足掻きます」
たどたどしい言い方でも、紗世なりの誓いだ。
レオンは短く「それでいい」と言った。
それ以上飾らないところに、彼らしさがあった。
執務室の空気が、ほんのわずかに和らぐ。
重ねられた地図の上で、砂漠と草原を分ける線を陽が撫でる。
押し寄せる役目は、まだ重い。
国を救うという言葉は、紗世の肩にとってあまりに大きすぎる。
それでも――。
(この人は、『弱い』と言ってはいけない人。それなら私は、弱いまま立っていてもいい人でいよう)
そのような小さな決意が、胸の奥で形を成す。
互いの傷に、まだ直接触れることはできない。
それでもせめて、触れてはいけない場所の輪郭を知ることができた。
その一歩だけでも、この灼土の国で生きていくための、大切な始まりに思えた。




