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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第四章・押し寄せる役目

 大広間のざわめきが背中の方へ薄れていくと、王宮の回廊は不自然なほど静まり返っていた。

 高い天井から垂れた赤い布が風にひるがえり、壁に穿たれた窓から差し込む陽が、石床の上に不規則な模様を描き出している。

 その上を歩くたび、紗世の足音だけが乾いた響きを残した。

 先を行くレオンの背中は、鎧ごしでも揺るぎがない。広い肩と、迷いのない歩幅。その一つひとつが「ここは自分の場所だ」と告げていて、後ろを歩く紗世は自分の場違いさをひしひしと意識させられた。

 やがてレオンが足を止め、短く言った。

「ついて来い。人の目を避ける」

 低い声が、硬い空気を押し分けて届く。

 頷くことしかできず、紗世はその背を追った。

 連れて行かれた先は、中庭に面した一室だった。

 重厚な扉が開くと、外の熱とは別種の熱を含んだ空気が流れ込んでくる。

 壁一面には地図と戦略図が掛けられ、机の上には印の入った駒や封蝋付きの書簡が積まれていた。

 砂漠と草原と城下町が描かれた紙の上で、幾度も勝敗の計算が繰り返されてきたのだろう。

 扉が閉じられると、外界との境界が切り離されたように感じた。

 二人分の気配だけが部屋を満たす。

 レオンは机の端に片手を置き、紗世の方へ向き直った。

 金の瞳がまっすぐに射抜いてくる。

 その眼差しに押され、紗世は反射的に背を正した。

「お前には役目がある。それはこの国を守るための役目だ」

 硬質な声が、逃げ場を与えない形で落ちた。

 さきほど大広間で聞かされた「価値」という言葉が、胸の奥で嫌な重なり方をする。

「……役目?」

 自分の口から漏れた声が頼りなく感じられ、紗世は指先を握り込んだ。

「私には、そんなものありません。私は司書です。本を整理して、貸し出しをして、問い合わせに答えて……それだけの人間です」

 日常を説明する言葉を並べながら、かえって現実感が遠のいていく。

 さっきまでいた世界の色と、いま目の前に広がる金と赤の空間が、どう組み合わさっても一枚の絵にならない。

「否定するな」

 レオンの眉がわずかに寄り、低い声音が紗世を制した。

「お前の血は、この国を救う鍵だと証明された」

 紗世の胸の内で何かがきしむ。

 血。鍵。救う。

 どの言葉も、これまで自分が結びつけてきたものとは違う意味で突き刺さってくる。

「鍵? そんな話は、聞いていません」

 喉の奥が焼けるようで、声がうまく出ない。

「ここに呼ばれた理由すら分かっていないんです。私の意志なんて、誰も聞いてくれなかった」

「意志だけで国は救えん」

 短く切り落とされた一言に、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 紗世は思わずレオンを見上げる。

(この人にとって、私はあくまでもこの国の一部なんだ)

 そう理解した途端、足元の感覚が揺らいだ。

 個人として見てほしいという、ささやかな願いさえ贅沢なのだろうか。

「私は……ただの人間です」

 自分でも驚くほど小さな声がこぼれる。

「誰かの期待に応えられるような力なんて、持っていません。役に立ちたいとは思っても、私ひとりでなにかを変えられたことなんて、今まで一度も……」

「自分を貶めるな」

 押し殺した苛立ちが混じった声が、紗世の言葉を遮った。

「価値を持つと分かったのに、それを拒むのか?」

 価値。

 またその言葉が出てきた。

 国のために必要だからここにいる。

 それは、居場所を与えられたことと同じなのか。

 それとも、役に立てなくなった瞬間に切り捨てられる可能性と隣り合わせだということなのか。

 答えが出せず、紗世は唇を噛んだ。

「拒んでいるんじゃありません」

 喉の奥にたまった言葉を押し出すように、紗世は続けた。

「ただ、分からないんです。この世界のことも、あなた方の事情も、なにひとつ。なのに役目があるから救え、だなんて……」

 胸元に置いた手に、自分の心臓の速さが伝わる。

 冷えた指先が少しだけ震え、それを隠そうと強く握り込んだ。

「そんな重いものを背負えるわけがありません」

 声が揺れないよう必死に整えながら言うと、レオンは黙ったまま紗世を見つめた。

 感情を読み取ろうとしても、表情にはほとんど変化がない。ただ、鎧の下で肩の筋肉がわずかに強張った気配だけが伝わってくる。

 沈黙が数拍のあいだ降りたあと、彼は低く問うた。

「逃げる気か?」

「逃げられるなら逃げたいです」

 答えは自然に口をついて出た。

「でも、帰る方法を知らない。どこへ向かえば元の世界に戻れるかも分からない。だから……怖いんです」

 自分の声が情けなく響いて、紗世は視線を落とした。

 床の模様がぼやけて見える。

 ここで泣いたところで、状況が変わるわけではないと頭では分かっているのに、胸の奥にたまったものが行き場をなくしていく。

 レオンは小さく息を吐き、すぐそばの椅子の背に手を置いた。

 握った指の節が白くなる。

「……怖さを理由に役目を否定するなら、国は滅ぶ」

 淡々と告げられたその言葉に、紗世は瞬きを忘れた。

 自分ひとりの選択が、それほど大それたことと結びつくなど、実感が追いつかない。

「私ひとりの選択で、そんなことになるなんて……とても信じられません」

「なる」

 レオンの声は短く、揺れる余地を許さない。

「この国の霊脈は乱れている。火の宮の加護も弱まりつつある。民の不安は日に日に増している。預言が真であり、お前が番として俺の隣に立つことで災厄を退けられるのなら、その可能性を無視する選択はできない」

 淡々と事実だけを並べた調子なのに、その奥に小さな焦りが混じる。

 レオンは妹を喪った日から積み重なってきたものが、言葉に揺らぎを生じさせていた。

「だからこそ、お前を保護すると宣言した」

 それは、守りの言葉でもあり、拘束の宣言でもある。

 紗世は胸の奥に重石を載せられたような心地で立ち尽くした。

(私の選択が、そんなに重いものだなんて……)

 いまここで「嫌です」と言ったとして、その意思を受け止められる余地はどれほどあるのだろう。

 国という単位の前で、個人の感情はどこまで許されるのか。

 答えを探しても見つからず、瞼の裏側が熱を帯びる。

 涙は見せたくない。見せたら、余計に自分が弱い存在として刻まれてしまう気がした。

 そんな紗世の内心に気づいているのかいないのか、レオンは少しだけ声音を和らげた。

「お前ひとりにすべてを押しつけるつもりはない。預言が真かどうかを確かめるのは、俺たち側の役目だ」

 言いながら、自らもそれを言い聞かせているようだった。

 紗世は顔を上げる。

「……それでも、怖いものは怖いです」

 震えを抑えながらも、言葉だけは曲げなかった。

「なにも知らないまま救えと言われるのも、なにも理解できないままに鍵と呼ばれるのも……怖いんです」

 レオンは紗世をじっと見て、やがて短く頷いた。

「分かった。ならばまず、この国のことを知れ。俺たちがなにを守ろうとしているのかも含めてだ」

 彼の言葉には命令の響きが残っている。

 それでも先ほどより幾分か柔らかく感じられたのは、紗世の気のせいだけではないだろう。

「学ぶことで、怖さが薄れるとは限らない。むしろ増すかもしれん」

 レオンは続けた。

「それでもなにも知らぬまま役目を拒否するのと、理解したうえで選ぶのとでは全く違う。お前が『自分で決めた』と、言えるようにすることだけは、約束しよう」

 その言葉に、紗世の胸の奥で固く縮こまっていたなにかが、ほんの少しだけ形を変えた。

 役目を押しつける側と押しつけられる側。

 そう思っていた距離の、さらにその奥で、彼自身もまた別の重荷を抱えているのだと気づく。

「……私に、その学ぶ時間を与えてくれるんですか?」

「ああ」

 即答だった。

「逃げるなとは言うが、理解もさせずに縛る気はない」

 その言い方があまりに不器用で、紗世は思わず小さく息を吐いた。

 ほんのわずかに笑いそうになった自分に気づき、慌てて表情を引き締める。

(……この人は、怖い。だけど――完全に私のことを突き放しているわけでもない)

 怖さと、わずかな安堵が入り混じる。

 それは、押し寄せる役目の重さに押し潰されそうな足元へ、ぎりぎりのところで差し出された一本の綱のようにも感じられた。

「……分かりました」

 紗世はゆっくりと頷いた。

「もちろん今すぐ、『この国を救う』なんて言えません。でも、この国のことと、あなた方のことを知る努力くらいなら……私にもできると思います」

 それが彼女にできる、精一杯の返事だった。

 レオンは短く「それでいい」と告げ、机上の書簡へ視線を落とした。

 執務室の空気が少しだけ動く。

 役目は、まだ彼女の肩に重くのしかかっている。

 押し寄せる波は止まらない。

 それでも紗世は、自分の中に一本の細い芯が通ったような感覚を覚えていた。

 怖いままでもいい。迷ったままでもいい。

 そのうえで、なにを選ぶかを決めるのは――自分だ。

 そう思えたことだけが、いまの彼女にとって、確かな救いだった。


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