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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第三章・揺らぐ立ち位置

 ひと通りの紹介が終わり、紗世は案内役の兵に導かれて客間へ戻ってきた。

 重い扉が開かれると、外のざわめきが嘘のように引いていく。赤と金を基調とした布が壁に掛けられ、床の石は夕刻の熱をうっすらと保っていた。磨かれた面が淡く反射し、自分の立ち姿がぼんやり映り込む。

 寝台には薄布が幾重にもかけられ、卓には果物と涼茶が用意されている。誰かが丁寧に整えてくれた気配はあるのに、胸の奥には落ち着く場所が見当たらない。

(豪華なのに……ちゃんと息ができない)

 廊下で交錯した面々の言葉が、ひとつずつ浮かんでは沈む。

 マーリスの手渡した布。震えを包むような声色。

 ミレイアの潤んだ瞳と、触れられた指先のあたたかさ。

 ガルシュの「泣いてよい」という許しの響き。

 それらとは別に、胸を締めつける声もあった。

 ラガンの揺るぎない警戒。

 オルディスの丁重な笑みの奥に潜む、測りかねる意図。

 味方になりそうな人たちもいる。

 距離を置きたがる気配もある。

 そのどちらもが同じ重さで心にのしかかり、足場を曖昧にしていく。

(私は……ここでなにになっていくんだろう)

 部屋の中心で立ち尽くしたまま、自分の手をゆっくり開いた。

 馴染みのはずの指先が、異国の光に縁どられているだけで別物のように見える。

 窓へ歩み寄ると、外の景色がいっそう明瞭になった。

 陽に焼けた草原が一帯に広がり、風が砂を含んで運んでくる。耳の奥で太鼓の拍が響くたび、この国の鼓動が部屋にまで入り込んでくるようだった。

 一歩外へ出れば、獣の耳や尾を持つ者が当たり前のように歩き、金属の装飾が陽を弾いてきらめく。全てが日常で、全てが未知の世界。

 胸のまんなかに、小さな不安の粒が落ちた感覚があった。

 ここに呼ばれた理由は分からない。

 番という言葉が告げられた意味も、まだ輪郭が曖昧なままだ。

 その曖昧さが、余計に息を吸いにくくする。

(王宮の中に置かれている時点で……私はもう、誰かの〝駒〟なのかもしれない)

 そんな思いをかき消すように、紗世は一度目を閉じた。

 あの中庭で落下を受け止められた瞬間の衝撃が、胸の奥に残っている。

 王太子レオンの腕に抱かれたときの、言葉にできない痛みの混ざった感覚。

 あれは偶然。

 そう思おうとしても、胸の片隅がざわついてしまう。

(番の候補。王を守らせる存在。人間には務まらない)

 ラガンの言葉が焼き付いたまま離れない。

 窓の外で陽炎が揺らぎ、草原が溶け出したように見えた。

 この国の風景はどこも鮮烈なのに、自分だけが薄く霞んでいくような感覚がある。

 それでも、足を止めていられない。

 紗世は額に手を添え、ひとつ息を整えた。

(怖がっても、進むしかないんだよね)

 まだ答えは出ない。

 けれど、自分が立つべき場所だけは、自分の意志で選びたい。

 そんな想いが、かすかな灯のように胸で瞬いていた。

 窓から離れ、部屋の中央へ戻る。寝台の端に腰を下ろすと、石床の残り火が足裏から伝わってくる。

 この熱が、生きている世界の確かさを教えてくれる。

 卓の上に置かれた果物へ手を伸ばし、ひとつ持ち上げてみた。手のひらに重さが乗り、異国の土が育てた甘さが皮越しに伝わるようだった。だが、口に運ぼうとすると、指が途中で止まった。

(これは……食べてもいいのかな?)

 疑いというより、礼儀への迷いだった。

 この世界の客人としてどう振る舞うべきか、まだ分からない。

 人間としての常識も、獣人の国では通用しない場面が増えるはずだ。

 果物を元の皿へ戻すと、寝台の端に手を置き、軽く押して揺らぎを確認する。厚いクッションの感触が返り、ひとまず寝心地は悪くなさそうだった。

(眠れるだろうか)

 胸に滞った緊張がまだ抜けず、身体の奥が強張っている。

 もし眠ってしまったら、目覚めたときには別の場所に移されていた――そんな不安まで湧いてくる。

「紗世殿」

 扉越しに、控えめな呼び声が届いた。

 マーリスの声音だった。

 紗世が返事をすると、扉が静かに開く。

 白い衣を整えたマーリスが一歩踏み入れ、部屋の中を確認するように目を走らせた。

「本日の案内は以上となります。ご不便の際は、鈴を鳴らしてください。すぐに誰かが参ります」

 丁重な言葉。だがそれ以上に、彼の眼差しは、先ほどと同じあたたかな色を帯びていた。

「……ありがとうございます。迷惑をかけてばかりですみません」

 紗世が小さく頭を下げると、マーリスは首を横に振った。

「迷惑などと。あなたは客人であり、王宮にとっても重要なお方です」

 その「重要」という一言に、胸の奥がきゅっと縮んだ。

 どんな意味で重要なのか、自分では判断がつかない。

 マーリスは紗世の動揺をそっと受け止めるように言葉を重ねる。

「この国には、多くの思惑が交差します。あなたに向けられた言葉の中には、厳しいものもあったでしょう。しかし、立場が違えば見える景色も違うものです。どうか、ひとつの言葉に縛られませんよう」

 その声音の奥に、長い年月を過ごしてきた者だけが持つ重みがあった。

「……はい」

 紗世の返事は自然に溢れた。

 マーリスは退出する前に、最後にひと言添えた。

「あなたがこの城でどこに立つかは、あなた自身が決められることです」

 扉が閉じたあとも、その言葉が部屋に残った。

(どこに立つか)

 自分が置かれた状況に翻弄されるばかりで、位置を選ぶという発想すら持っていなかった。

 だが確かに、マーリスの言う通りだ。

 この国での立ち位置――

 番の候補として受け入れられるのか、

 人間として排除されるのか、

 あるいは、誰の側にも寄らずに生きる道を見つけるのか。

(選べるのかな……私にも)

 心細さは消えない。

 それでも、胸の奥の灯は少しだけ大きくなっていた。

 紗世は寝台へ身を横たえ、天蓋を見上げた。赤い布越しに、炎の国の夜気がゆっくりと流れ込んでくる。

 今日だけで、多くの人物と出会った。

 誰が味方で、誰が敵なのか、まだ分からない。

 ただひとつ確かなのは――

(私は、この世界の盤上に置かれた)

 強制でも、偶然でもなく。

 ここからどう動くかは、わたし自身の選択で変わる。

 胸にそう刻みながら、紗世は目を閉じた。

 熱を帯びた風が、部屋の奥まで流れ込んでいく音がした。


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