第三章・盤上に立つ者たち
客間へ戻る道のりは、さっきまでよりもずっと長く感じられた。
回廊の赤い柱が等間隔に並び、金の装飾が陽を受けて鈍く輝く。床の白い石には、複数の足音が重なっていた。
紗世の左右には、無言の兵たち。前方には、レオンの補佐官ラガンが歩いている。
薄い金髪を後ろでひとつに束ね、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、迷いのない歩みで先導していた。肩の線には無駄がなく、歩幅も一定だ。
(こういう状況を逃げ場を塞がれている、って言うのかな……)
そんな言葉が頭を過り、紗世は自分で打ち消した。
誰も武器を抜いているわけではない。城の規律に従って、ただ彼らなりの警護をしているだけだ。
それでも、囲まれていると意識するだけで、胸の内側から冷えが這い上がってくる。
そこで、ラガンがふいに足を止めた。
紗世もつられて立ち止まり、顔を上げる。
振り返ったラガンの目と正面から向き合った瞬間、背筋に細い緊張が走った。
彼の眼差しは澄んでいて、怒りや軽蔑といった色は浮かんでいない。
「人間に、殿下を預けるわけにはいかない」
淡々とした声が落ちる。
抑揚は乏しいのに、言葉そのものが鋭い輪郭を持って胸に突き刺さった。
「……預ける?」
意味をうまく飲み込めず、紗世は思わず問い返した。
自分でも情けないほど頼りない声だったが、ラガンは表情を変えない。
「番の候補である以上、殿下はあなたを守る立場になります」
きっちりとした言葉遣いのまま、彼は続ける。
「その対象が人間となれば、宮廷は混乱する。王位を狙う者、預言を都合よく解釈する者、外から揺さぶりをかける者。あらゆる思惑が動くでしょう」
なぜ反対なのか、筋道を整えて説明しているのだと分かる。
嫌悪をぶつけているのではなく、国を守る者として当然の懸念を口にしているだけ。
それがかえって、紗世の胸をざわつかせた。
(この人は、私が嫌いだから言ってるわけじゃない)
自分がここに存在しているだけで、誰かにとっては、国を乱す要因となる。
そんな立場に置かれているのだと改めて突きつけられ、足元の石が硬く冷たく感じられた。
言葉を返せずにいると、ラガンはほんの少しだけ顎を引いた。
「誤解なきよう申し上げますが、個人としてあなたを責めているわけではありません。番として迎えるかどうかは、陛下と王家の決断。私が案じているのは、あくまで殿下の立場です」
正論だと分かる。
反論できる言葉を探しても、なにひとつ出てこない。
「……私は」
紗世は喉の奥に引っかかった声を、どうにか押し出した。
「王太子殿下に、守ってもらうためにここに来たわけじゃありません」
そう告げることが精一杯だった。
それでも、自分の意思だけは、せめてどこかに残しておきたかった。
ラガンの目が、わずかに細くなる。
「その言葉が本心であるなら、なおさら覚悟が必要です」
警告のような響きが、回廊に低く落ちた。
「あなたがここにいる限り、殿下は動かされる。番であるか否かに関わらず、です」
立ち位置が、一歩分近づいた気がした。
味方ではない。だが、敵と呼ぶにも違和感がある。
(この人は、ただ盤を守ろうとしているだけなんだ)
そんな推測が、頭の片隅に浮かぶ。
国という盤上で、主が倒れないように。
人間である自分は、その上に突然置かれた、形の読めない駒。
胸の奥が沈みかけた、その時だった。
「やれやれ、ラガン。顔色を見るという役目は、私のほうが向いていると思うのだがな」
乾いた笑い声と共に、別の足音が近づいてくる。
回廊の柱の影から現れたのは、灰色のたてがみを持つ老獅子だった。
背丈は高くない。だが、纏う空気が歴戦の兵そのもので、歩幅はゆったりとしているのに、一歩ごとに周囲の空気が整えられていく。
「ガルシュ将軍」
ラガンが短く名を呼び、敬意を込めて頭を下げた。
紗世も慌ててそれに倣う。
ガルシュは手を軽く振り、紗世へと歩み寄った。
金の瞳が細まり、その視線が全面的に彼女の体調を測っているのが分かる。
「紗世殿、顔色が優れませんな」
年輪を重ねた低い声が、正面から届いた。
叱責の気配はどこにもない。むしろ、孫を見る祖父のような柔らかさが混じっている。
「ここでは、泣きたいと思ったときに泣いてもよいのですよ」
さらりと告げられたひと言が、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。
泣いてはいけない、と自分に言い聞かせてきた日々が、一瞬揺らいだ。
思わず両手を握りしめる。
『……泣いたら、弱いと思われるかもしれませんから』
心の中でだけ呟いた言葉は、唇には乗せない。
ガルシュはなにも聞いていないはずなのに、まるで応じるように口元を弛めた。
「戦場で泣く兵もおりましたぞ。恐怖だけで泣く者もいれば、無事に帰れた安堵で泣く者もいる。どちらも弱さとは違う」
穏やかな笑い皺が目元に刻まれる。
「泣くべき時に涙を堪え続ける者のほうが、よほど脆いこともあるのです」
その言葉は、遠い昔の経験から紡がれたものなのだろう。
胸の奥に張りつめていた膜が、ほんの少し緩む。
「……お気遣いありがとうございます」
紗世が頭を下げると、ガルシュは満足げに頷き、兵たちへ視線を移した。
「王宮に新たな客人がいる。余計な噂話より先に、守るべき命があることを忘れるな」
短い号令に、周囲の兵たちの背筋が揃う。
反発も不満も、今は飲み込まれていく。
そこへ、黒い影が静かに歩み出た。
黒豹族の文官ゼクスだ。
漆黒の髪をうなじで束ね、細身の身体に濃紺の衣をまとっている。手には記録用の板と筆。
「……人間か」
低くとぎれた声が、紗世の耳に届く。
「興味深い」
感情を抑えたその響きには、敵意も庇護も含まれていなかった。
ただ、未知の事象を前にした学者の関心だけが宿っている。
「ゼクス、記録は控える程度にしておけ」
ガルシュが苦笑しながら軽く釘を刺すと、ゼクスは短く頷いた。
「もちろんです。この王宮に人間が現れた事実は、後世のためにも残す価値がありますので」
さらりとした言い回しの中に、この世界の常識が滲む。
紗世は、自分が歴史の余白に書き込まれようとしていることを、あらためて突きつけられた。
(私は、この人にとっては記録すべき現象なんだ)
頼れる味方でもなく、今すぐ排除すべき脅威でもない。
ただ、国の記録に刻まれる一項目。
そんなふうに自分の位置づけを意識し始めたところで、さらに空気が変わった。
「そこまでにしておけ」
柔らかな声が回廊に満ち、兵も文官も一斉に道を開ける。
銀の髪が光を受け、滑らかに流れた。
一歩ごとの衣擦れの音まで計算されているかのような、完璧に整えられた足取り。
宰相オルディスが姿を現した。
「ご不安でしょう、紗世殿」
口元に穏やかな笑みを浮かべ、彼は紗世の前で立ち止まる。
その瞳には、表向きの敬意と気遣いだけが浮かんでいた。
「王宮は複雑な場です。力の流れも、感情の渦も、容易には読み解けません。慣れるまでは、我らが支えとなりましょう」
欠点を探そうとしても見つからないほど、丁重な物言いだった。
声の高さ、間の取り方、表情の角度にいたるまで、まるで模範解答のように整っている。
それなのに、胸のどこかが冷えていく。
(人間ごときが──そういう想いが消えきってない)
言葉には出さない本音が、眼差しの奥底に沈んでいることを、紗世は直感した。
オルディスは、過去に王家を揺るがした暗殺劇を成功と呼んだ男だと聞いた。
国を戦へ傾ける策を描き、その結果も冷静に受け止める者。
そんな人物にとって、紗世の存在は新たな一手なのだろう。
預言、番、王家の災厄。
あらゆる要素を盤上に並べ替え、最も自分に有利な形を探しているに違いない。
ラガンの懸念。
ガルシュの保護。
ゼクスの観察。
オルディスの企み。
四つの気配が重なり、紗世の周囲に見えない盤が広がっていく。
(この世界で……私は、どう動いていけばいいのだろう)
胸の奥が再び沈みかける。
それでも、紗世は小さく息を吸い込んだ。
(流されるだけの駒にはなりたくない)
怖さも不安も消えてはいない。
それでも、自分の意思だけは掌の中で握りしめておきたい。
王宮という盤上のほぼまんなかに、知らぬ間に立たされてしまった。
その事実だけは、もう否定のしようがなかった。




