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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第三章・掌に宿る支え

 回廊を抜ける風が衣の裾をさらい、紗世は胸の奥でまとわりつく不安を抱えたまま歩いていた。

 足元だけを見ていると、磨かれた石床に自分の影が細く伸びていく。陽光を受けた柱の赤と金が、その影の端を切り取っていた。

(私は、本当にここにいてもいいのだろうか?)

 この国に来てから、何度胸の中で同じ問いを転がしただろう。

 この国にとって〝なにかの鍵になる〟と告げられても、なにをどうすればいいのか分からない。

 言葉も慣習も違う城の中で、自分だけ輪郭が薄いまま浮いているような心地がする。

 そんな時だった。

「紗世様」

 背へ穏やかな声が届き、紗世ははっとして振り返った。

 回廊の柱の影から現れたのは、侍従長マーリスだった。皺の刻まれた深みを感じる老年の男性。

 年輪を刻んだ顔に深い皺が刻まれ、その目元には長年主に仕えてきた者だけが持つ覚悟が漂っている。それでいて、鋭さよりも包み込むような柔らかさのほうが先に伝わってくる表情だった。

「お困りごとはございませんか?」

 問いかけは責める響きを一切含まず、ただそこに立つ紗世の心の重さを量ろうとするだけの声音だった。

 張り詰めていたなにかが、音を立てずにほどけていく。

「……私……」

 言葉を作ろうとした瞬間、喉が詰まり、胸の奥からせり上がったものが目元へ集まる。堪えようと瞬きを繰り返しても、視界がにじみ、頬を伝う筋を止めることができなかった。

 マーリスは咎める素振りなど一切見せず、むしろ当たり前のことのように衣の内側へ手を差し入れた。

 そして、使い込まれた白布を取り出す。

「どうぞお使いください」

 差し出された手は大きく、指先には硬い節が浮かんでいる。長年剣を握り、王家の雑務を支えてきた者の手。

 それにもかかわらず、その動きは驚くほど静かで、紗世を急かさない余白を含んでいた。

 紗世はそっと布を受け取り、両手で包み込むように握る。

 目元を拭う前に、しばらくその感触を確かめてしまう。

(大きい手なのに……怖くない)

 この世界で他人と接触したのは、レオンに抱き上げられた時のあの一瞬だけだ。

 彼の腕に宿っていたのは、炎のような力と鋭い責任感だった。

 目の前の侍従長の掌には、別の重さがある。王城を支える土台のような、揺るがない堅さ。

「……ありがとうございます」

 ようやく絞り出した声は小さかったが、マーリスは深く頷いた。

 そして、去り際にひとつだけ言葉を置いていく。

「この城には、あなたを案じる者が多くおります」

 その一言が、紗世の胸の内側で反響した。

 誰も自分を必要としていないと思っていた日々と、今この場所を照らして比べてみる。うまく信じ切れないのに、否定することもできなかった。

 マーリスの背中が柱の向こうへと消えていく。

 彼の足音が遠ざかるにつれ、紗世は手元の白布を見つめた。

(案じる者が多くいる、か……)

 まだ現実味は薄い。

 それでも、完全に否定してしまうには、その掌がくれた重みが温かすぎた。

 深く息を吸い、紗世は歩みを再開した。

 回廊の角を曲がろうとしたところで、柔らかな足音が近づいてくる。

 薄紅の衣をまとった侍女が、慌てた様子で立ち止まった。

 紗世の姿を目にした途端、その黒い睫毛が震え、目元がふくらむ。

「……あっ……失礼いたしました」

 侍女は胸元で手を合わせ、頭を下げた。

「いえ、私こそ……」

 紗世がとっさに言葉を返すと、侍女は唇を噛みしめるようにして、微かな声を継いだ。

「申し訳ございません。つい、姫様を思い出してしまって……」

 その瞬間、空気が変わる。

 紗世の胸の奥に、ひやりとした影が差した。

「……姫様?」

 思わず問い返した紗世の声に、侍女は顔を上げた。

 瞳の底には、悲しみと敬愛の名残が入り混じっている。

「はい。リアナ王妹殿下です。私は、姫様付きの侍女をしておりました。ミレイアと申します」

 丁寧に名乗り頭を下げる仕草だけで、彼女がこの城で過ごした年月が伝わってくる。

 紗世は思わず胸の前で白布を握りしめた。

(やっぱり、私は代わりに見えるのかもしれない)

 この国で、自分には「特別な役目がある」とだけ告げられている。

 詳しいことは教えてもらえないまま、それが誰かの喪失と結びついているらしいことだけが、断片のように胸に刺さっていた。

 リアナの代わり。

 誰かの穴を埋めるための駒。

 そんな言葉が、喉の奥に苦い影を落とす。

 だが、ミレイアがそっと紗世の手に触れてきた瞬間、その考えは一度息を止めた。

 布越しに添えられた指は、震えてもいなければ、過去に縋りつく力でもなかった。

 まるで、今ここに立つ紗世に「あなたを見ています」と伝えるためだけの、慎重な触れ方だった。

「あなたが無事で、よかったと……そう思っただけです」

 ミレイアの声はか細いが、芯は揺がない。

 姫を喪った侍女が、それでも他者の無事を祈る言葉を持っている。

 紗世は返す言葉を探しながら、胸のどこかがゆっくりと解けていくのを感じた。

「……ありがとうございます」

 短い礼しか出てこない。

 それでも、ミレイアは安堵したように口元を弛めた。

「私は、姫様の部屋にいた時間が長うございましたから。あなたのことを代わりだなんて、思えません」

 滲むような笑みと共に告げられたその一言に、紗世は目を瞬いた。

「姫様は、誰かの代わりでいらしたことなど一度もありませんでした。同じように、紗世様も紗世様なのです」

 胸の奥で固まっていた塊が、少しずつ形を変えていく。

 誰かの穴を埋める役目ではなく、〝紗世〟として見られているのだと、まだ信じきれないのに、心がそちらへ傾いていく。

 その時だった。

 乾いた靴音が回廊に響き、場の空気が一気に変わる。

「おっ? 君が例の空から落ちてきた娘?」

 軽やかな声と共に、栗色の髪を揺らした青年が角から姿を現した。

 日差しを受けて金の飾りがきらりと跳ねる。

 どこか無造作に着こなした宮廷の衣が、彼の性格をそのまま映しているようだった。

 青年――リアンは、面白い物を見つけた子どものように笑って紗世へ近づく。

「天から降ってきて王子の肩に飛び乗った、あの衝撃のやつだよね? あれは今、城中の噂になっているよ」

「……そんなつもりじゃなかったんです」

 顔が熱を帯びるのが自分でも分かり、紗世は慌てて否定した。

 あの時はただ、わけも分からないまま落ちていっただけだ。

 王太子の肩に着地するなど、誰が望んでできるものか。

 リアンは喉の奥で笑いを転がし、手をひらひらと振った。

「気を悪くしないで。俺は好きだよ、ああいう予想外。退屈しないからね」

 冗談めかした言い方なのに、そこにはからかうだけではない好意が混じっている。

 ミレイアが隣で小さく肩を落とし、呆れた表情を向けた。

「リアン様、紗世様をあまり困らせないでくださいませ」

「困らせてなんかないって。ね、紗世様?」

 突然話を振られ、紗世は目を丸くした。

 リアンの人懐こい笑みと、ミレイアのたしなめるような横顔。

 そのやり取りを少し離れた場所から見ていたマーリスは、小さく咳払いをして場を締める。

「リアン様。王太子殿下のご命令どおり、紗世様のお身体はまだ本調子ではありません。あまりお疲れの出ないよう、ご配慮をいただけますように」

「はいはい。分かってるよ」

 肩を竦めながらも、リアンは「ごめん」と言うように片目を細めて見せた。

 からっとした軽さの中に、「ここではひとりじゃない」と告げるような気安さがある。

「困ったことがあったら言ってね。俺、こう見えて動ける男だから。王子よりも足は速いしね」

 胸に手を当てて大げさに言い切るリアンに、ミレイアは「なにを競っていらっしゃるのですか」と小声で突っ込み、マーリスの口元がわずかに和らぐ。

 何気ないやり取りに、紗世の胸の底で小さな灯がともった。

 さっきまで心細さでいっぱいだった場所に、微量でも他者のぬくもりが流れ込んでくる。

(……本当にこの国には、私の味方って呼べる人たちがいるのかもしれない)

 そんな考えが過り、紗世は胸の前でそっと指を握った。

 掌の中には、マーリスが渡してくれた白布と、ミレイアの指先の記憶と、リアンの軽口が重なっている。

 異世界の城の中で、自分だけがなにも持っていないと思っていた。

 けれど、掌を開けばすでに、差し出された支えがいくつも宿り始めている。

 心細さに沈んでいた足元に、ようやく小さな地面が形を取った気がした。


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