第三章・灼土の国で目覚める
眩しい白光が瞼の裏側まで入り込み、紗世は寝返りを打とうとして、布団の感触がないことに気づいた。
薄く目を開けると、最初に飛び込んできたのは、金色の縁取りを持つ天蓋だった。細かな文様が縫い込まれ、布の中央には獣の横顔を象った刺繍がある。
(……うちの天井は、こんなんじゃなかった)
ぼんやりした頭に、いつもの六畳の自室の天井が浮かぶ。くすんだ灰色の塗装、電球の跡、薄いシミ。そこには当然、こんな豪奢な布は垂れ下がっていない。
頬を撫でたのは、冷房の風ではなかった。
乾いた熱を含んだ風が肌を撫で、砂を細かく砕いたようなざらつきが残る。
紗世はゆっくりと上体を起こした。
視界が開ける。
そこは見知らぬ客間だった。
四隅には丸い柱が立ち、その表面には炎と獣を象った彫りが走っている。壁には赤と金を基調とした布がかけられ、幾何学模様と獣の紋章が織り込まれていた。窓辺には分厚い帳が束ねられ、紐には金属の飾りが下がっている。
床は石張りだ。
淡い黄土色の石が隙間なく敷き詰められ、昼の熱をたっぷりと抱え込んでいる。素足を下ろした途端、刺すような熱が足裏から這い上がり、紗世は思わず足を引いた。
「……熱っ」
思わず漏れた声が、広い部屋の中で頼りなく消える。
エアコンのリモコンを探そうとして、そんな物がどこにもないと気づくのに時間は要らなかった。見回しても、見慣れた家電は一つもない。
シーツに手をつき、そっと立ち上がる。
白い寝具は日本のホテルのものと似ているが、刺繍の入った縁取りや、布を留める金の留め具が見知らぬ文化を主張している。
(ここは……どこ?)
喉の奥に問いが引っかかったまま、紗世は窓の方に歩いた。
足音が石の上で乾いた音を立てる。その響きさえ、自室のフローリングとは質が違う。
束ねられた帳の隙間から、強い光が差し込んでいる。
指先で布をつまみ、外側へ押しやる。
その瞬間、世界の色が一変した。
窓の外には、灼けた大地が広がっていた。
高い城壁の向こうに、黄土色の建物が何段にも重なり、屋根には鮮やかな布や旗が翻っている。石造りの道の上を、褐色の肌をした人々が行き交っていた。
彼らの身に纏っているのは、露出の多い軽やかな衣だ。
赤、金、瑠璃色の布が腰や肩で結ばれ、歩くたびにはためく。腕や首には金属の飾りが光り、太陽の色をそのまま身に帯びているように見えた。
通りには、大声で笑い合う人々の声が満ちている。
遠方からは太鼓と弦楽器の音が重なって届き、一定の拍子が地面を通して胸に響いた。地そのものが歌っているような、不思議な高まり方だ。
廊下の方角から、濃密な匂いが流れ込んでくる。
いくつもの香辛料が混ざり合った鋭い刺激。焼いた肉の脂が焦げる香り。
日本の台所で嗅ぐ匂いとは明らかに質が違い、その濃度だけで頭が冴えていく。
紗世は半歩、窓辺へ踏み出した。
熱気が一気に押し寄せ、肌にまとわりつく。
見渡せば、城壁の外には大草原が広がっていた。
地平線のあたりで陽炎が立ち上がり、空気の層が波打つ。
青空は濃い藍に近く、雲は一片も見えない。灼けた大地から立ち上る息づかいが、そのまま空を染めているかのようだ。
「……ここは、どこなの?」
自分の声が、自分のものではないように頼りなく聞こえた。
アパートの薄い壁、家の前を通り過ぎる車のエンジン音、コンビニの明かり。
そんな日常の断片が脳裏に浮かび、同時にすうっと遠ざかっていく。
床の熱が、場違いな場所に入り込んでしまった事実を、否応なく突きつけた。
紗世は自身の掌を見下ろす。形も色もいつもと変わらないのに、そこに続いているはずの日常は、この世界から完全に切り離されている気がして、胸の奥が縮む。
その時、窓の下の広い通りで砂煙が上がった。
黄金の飾りをまとった獣が十数頭、一斉に駆け抜けていく。
馬に似ているが、首筋から肩にかけて硬いたてがみが立ち上がり、瞳は琥珀色に光っていた。四肢には革と金属の防具が装着され、蹄が石畳を叩くたび、乾いた音が連続して鳴る。
背には兵士たちが跨っていた。
全身を覆う鎧ではなく、動きやすさを優先した胸当てと腕当て。
陽ざしを受けて金の装飾がきらめき、腰には湾曲した刃を持つ剣が吊るされている。
兵の列が通り過ぎると、屋台の主人らしき男たちが声を張り上げた。
金属の皿の上には串刺しの肉や焼き菓子が山積みになり、大きな壺からは濃色の飲み物が注がれている。
行き交う人々の衣装もさまざまだ。
薄布を幾重にも巻きつけた女性、腰布一枚で荷物を担ぐ男、真紅の頭巾をかぶった子どもたち。耳の尖った者もいれば、猫のような尾を持つ者もいる。
紗世は、そこでようやく気づいた。
通りを歩く多くの者が、獣じみた耳や尾を持っている。
狼のような灰色の耳を頭上から覗かせる青年。
丸い虎斑模様の耳と、縞の入った尾を揺らす少女。
皮膚の色も、瞳の色も、人間として紗世が知っている範囲を軽く超えていた。
(……人間じゃない……)
胸の内側で言葉にならない震えが広がる。
さっきまで夢の延長だと思い込もうとしていた心が、ついにそれを止めた。
(夢じゃない。ここは、私の世界じゃない)
膝の力が抜け、窓枠に手をついて立つ。
石の感触は固く、熱を帯びている。
その確かな現実感が、逆に紗世を追い詰めた。
この国の言葉も、地名も、なにひとつ知らない。
ここが日本のどこかの観光地だと言い張るには、すべてが異質だった。
エレベーターも、電柱も、道路標識も見当たらない。
(私の仕事はどうなってるんだろう。今日が締め切りのリストもあったのに……)
頭の片隅に、ごく日常的な不安が浮かぶ。
それは滑稽なくらい現実的な心配だったが、同時に、その〝いつもの心配〟が通用しない場所へ来てしまったのだという事実を突きつけてもくる。
父と母は、帰ってこない娘をどう思うだろう。
勤務先には、ただの無断欠勤として扱われるのか。それとも、事件として扱われるのか。
考えれば考えるほど、胸の深いところで重い塊が膨らんでいった。
その時、ぎゅうっと空気が締め付けられるような感覚が走る。
城壁の内側、紗世がいる建物とは別の方向から、太鼓の音が一段と高くなった。
一定の拍子が速まり、短い合図のような打音が混じる。
それに続くように、角笛の音が乾いた空に伸びた。
なにかが始まる合図なのだと、聞いたこともないはずの音が教えてくる。
紗世は、窓辺から身を引いた。
ここでいつまでも景色に見入っていることが危ういと、本能が告げていた。
ベッド脇の小さな机には、陶器の水差しと杯、果実の盛られた皿が置かれている。
紗世は乾いた喉を意識しながらも、手を伸ばすことを躊躇った。
(勝手に触っていいのだろうか。それよりもここは、どこの誰の部屋なんだろう?)
自分が寝ていた寝台も、誰の厚意によるものか分からない。
考えようとすると、頭の奥で不安の糸が一気に絡み合った。
日本での生活は、ささやかで目立たないものだった。
誰かの名前に埋もれるような仕事でも、それなりに役に立っている実感はあった。
だが、この灼土の国では、自分が何者なのかさえ定まっていない。
窓の外から、また太鼓の響きが届く。
熱と音と匂いが渦になって押し寄せ、紗世の世界をじわじわと塗り替えていく。
(戻りたい。でも、戻り方が分からない)
心の中でそっとそう呟き、紗世は胸の前で両手を握りしめた。
汗に湿った掌同士が触れ合い、自分だけはまだ自分でいようとする最後の境界線のように感じられた。
灼けた国のリズムが、確かに鳴っている。
それでもまだ、彼女の耳には、遠い電車の走行音がかすかに残響している気がしていた。




