第二章・古き龍の声
白い帳がわずかに波打ち、ひやりとした薬草の匂いが漂った。
宮廷医務室の一角。淡い布の向こうには、整然と並んだ薬棚と銅製の器具が沈んでいる。
簡素な寝台の上で、紗世はまだ意識を取り戻していなかった。
異国の布で仕立てられた服は、砂と煤に汚れ、袖口には細かな擦り傷が残っている。細い指はシーツの上で力なく開かれ、胸元で上下する呼吸だけが、彼女が生きている証だった。
宮廷医は椅子に腰を下ろし、紗世の手首へ指を添えた。
皺の刻まれた指先が、脈の流れを丹念に追う。
しばらく沈黙が落ちたのち、彼は脈から指を離し、そのまま掌を少女の腹部、胸元、額へと移していく。霊脈に反応する特殊な術式を用いて、内側に潜む気配を探るためだ。
やがて、宮廷医は眉間に深い皺を刻んだ。
瞳の奥に、驚愕と困惑が重なる。
「この娘は……純度の高い人間の血を持っています」
張り詰めた空気の中、その声だけが異様なほど鮮明に響いた。
「獣人の要素は、一切感じられません」
帳の内側に控えていた文官たちの表情が、一斉に強張る。
耳を伏せた狼族の補佐官が、懐に抱えた書板を握り直した。
「人間のみの血……? この大陸では、とうに絶えたと記録されているはずだ」
「辺境に混血の噂が立つことはあっても、純血など……」
畳みかけるような小声が、狭い室内でぶつかり合う。
人間界との条約で、互いの領域へ勝手に干渉してはならないと定められてから、長い年月が過ぎていた。
その人間の娘が、よりにもよって王宮の中庭へ落ちてきたのだ。偶然で片づけるには、あまりに出来過ぎている。
ざわめきの最中、帳の外で足音が早まった。
「失礼いたします!」
息を弾ませながら、若い側近が駆け込んでくる。
その腕には、龍革で巻かれた古びた箱が抱えられていた。暗い褐色の革には古代文字が刻まれ、鍵金具には細かな龍の紋様が浮かんでいる。
「宰相閣下のご指示で、王家に伝わる古文書を」
箱を開くと、乾いた音を立てて巻物が現れた。
龍の鱗を模した留め金を外し、慎重に広げると、羊皮紙の上に細い字が連なっていく。
文官のひとりが前に出て、喉を鳴らした。
指先に汗が滲むのを自覚しながらも、声の調子を整える。
「ここです……龍の預言の一節。古文書に記されていた部分と一致します」
彼は震えを押し殺しつつ、声に出して読み上げた。
『人間の血を持つ番を娶れば、王家の災厄は収まる』
その瞬間、医務室の空気が目に見えぬ壁にぶつかったように止まった。
誰もが息を詰まらせ、言葉を失う。
妹を喪ったあの日から、王家の加護は明らかに乱れ始めていた。
城下を流れる霊脈は濁り、朱雀宮の炎は、かつてのような勢いを保てなくなっている。
神殿の祈祷師たちは夜を徹して供儀を行い、巫女の数を増やしてもなお、火は痩せるばかりだった。
民の間には、不穏な噂がじわじわと広がっている。
『王家は天に見放されたのではないか』
『龍の加護は絶たれたのだ』
誰も口にこそ出さないが、同じ不安が心の底に沈んでいた。
重臣のひとりが、沈黙に耐えきれず声を発した。
「……つまり、この娘は救いとなり得るのか?」
問いは、預言そのものに向けられたものでもあった。
古い龍の声を、どこまで信じるのか。
国を預かる立場の者ほど、迷信では片づけられない。
宮廷医は一度目を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「確定とは申し上げられません。預言にどこまで実効性があるかも分からない」
そこで一拍置き、彼はゆっくりと顔を上げた。
「ですが――条件には合致しています。人間の血を持つ者が王宮へ到来した事実。それ自体が、なんらかの理の働きと見るべきでしょう」
静まり返った医務室で、龍革の擦れる音だけが細く響いた。
沈黙の中で、自然と皆の目がひとりへと集まっていく。
視線を浴びても、レオンの表情は動かなかった。
王太子として、彼はこの場で決断を示さねばならない。
国の命運に関わる存在を前にして、曖昧な態度は許されない。
だが胸の内側では、まったく別種の波がうねっていた。
空から落ちてきた少女を抱きとめた瞬間の衝撃。
腕の中で軽く軋んだ骨の感触と、溢れ落ちてしまいそうな重み。
それらが、草原で妹リアナを抱き上げた時の感覚と重なり、過去の傷を容赦なく掻き回している。
喪った妹の体温は、今も肌に残っている気がする。
黄金の炎と共にあがった叫び、世界に刻まれた黒い裂け目。
あの日から、レオンは「守れなかった」という事実とともに生きてきた。
(俺はあの時、守ることができなかった。二度と同じことは繰り返さないと誓ったはずだ)
その誓いが、今、目の前の少女へと向けられようとしている。
ただ落ちてきただけの者に、そんな感情を抱く理由はない。
それでも、腕の中で静かに息づく命を前にすると、胸のどこかが軋んだ。
「王太子殿下」
重臣の一人が、無言の問いを乗せて名を呼ぶ。
レオンは短く目を伏せ、迷いを呑み込んでから口を開いた。
「価値はある。保護しろ」
その声は驚くほど平坦だった。
感情の起伏を丁寧に削ぎ落とした、王家の人間としての声音。
けれど、その内側では別の言葉が形になりかけては砕けている。
(……また、奪われるのか)
胸の奥を掠めた問いを、レオン自身が驚きとともに受け止める。
まだなにも知らない娘に、そんな予感を向けるのは理不尽だと分かっている。
だが、今や災厄と預言とが、彼女の存在に絡みついているのも事実だった。
視線を落とせば、紗世の顔がある。
異国の娘の顔立ちは、この大陸のどの種族とも違っていた。
瞼は滑らかな弧を描き、睫毛は扇のように影を落としている。
頬には落下の際についたと思しき薄い擦り傷が走り、その下で脈が規則正しく打っていた。
彼女は今、なにひとつ選べていない。
意志も知らぬまま、この世界へ連れ込まれたに等しい。
それにもかかわらず、王家の災厄を鎮める〝鍵〟として、既に多数の目に測られつつある。
(……守るべき対象か、それとも国を救う手札か)
そのどちらかひとつに決めること自体が、あまりにも残酷に思えた。
王太子としての思考と、ひとりの男としての本能が、胸の内で噛み合わない。
「……預言に従うとしても、急ぎ過ぎは禁物です」
宮廷医が、おずおずと付け加えた。
「この娘がここへ至った経路も、彼女自身の素性もなにも分かっておりません。霊脈の乱れに耐えられるかどうかも含め、時間をかけて見極める必要があるかと」
文官たちが小さく頷き、巻物を巻き戻す。
龍革が擦れる音が、古い龍の吐息のように耳に残った。
レオンは紗世から視線を外さないまま、短く命じる。
「当面は俺の許可なく手を出すな。監視と保護を同時に行う。容体が安定次第、この者から話を聞く」
それは王太子としての冷静な判断だった。
だが同時に、誰かに奪われぬよう、自分の手の届く場所へ留めておきたいという、言葉にならない衝動でもある。
(この娘をどう扱えばいい?)
胸の奥で問いが形を持ち、しかし答えは与えられない。
預言に従えば、彼女は王家の〝番〟となるべき存在だ。
だが、リアナを喪った時に閉じた心は、そうした段取りを受け入れるにはあまりに荒れている。
紗世の睫毛が、ほんのわずかに震えた。
目覚める気配はまだ遠く、唇も閉じられたままだ。
だが、彼の腕の中に確かに存在する命は、預言の文字よりも雄弁に、この出会いの重さを告げていた。
古き龍が残した言葉。
人間と獣人の血を巡る、歪んだ歴史。
それらすべてがひとつの点で交わり、新たな幕が音もなく上がろうとしている。
レオンは、なにも応えない少女を見下ろしながら、胸の奥で静かに誓いを新たにした。
(――今度こそ、守る。たとえこの選択が、新たな災厄を呼ぶとしても……)
医務室の白い帳の向こうで、龍の預言の記された巻物が、ゆっくりと箱に戻されていく。
古き龍の声はすでに紙片の中へ沈んでいたが、その余韻は確かに、この部屋の空気を揺らしていた。




