第二章・落下の軌道で触れたもの
獅子国の王宮中庭には、訓練の余熱がまだ残っていた。
踏み固められた砂地には、靴底と爪先で刻まれた線が幾重にも交差している。打ち合いを終えた木剣が束ねて立てかけられ、鉄の匂いと汗の気配が薄く漂っていた。
レオンは片手で額の汗を拭い、深く息を吸う。
剣を数度振り切った直後のしびれが、腕の内側に残っていた。肩から背にかけて筋肉が軋み、鎧の下で心音がノックする。
(まだ足りない。あれを超えなければ)
脳裏に蘇るのは、血に染まった草原と、腕の中で冷えていった妹の身体。
忘れようとしても消えず、忘れまいとするほど胸を締めつける光景だ。
力があれば守れたはずだと、何度思い返したか分からない。
訓練に身を投じるのは、王太子としての義務であり、同時に、自分を罰するための儀式でもあった。
鞘に剣を収め、レオンは首を反らせて空を仰ぐ。
青は澄み切っていて、雲ひとつない。
どこまでも突き抜ける色を見上げていると、胸の奥に冷たい風穴があいたような感覚が広がる。
その時だった。
青の一角で、光の層が震えた。
水面を内側から押し上げたように、色が膨らみ、薄く歪む。
まばゆい白が線になって走り、その中心から、輪郭の定まらない影が滑り落ちてきた。
空気の質が変わる。
訓練を見守っていた兵たちの間に、言葉にならない緊張が走った。
誰かが「なんだ?」と呟くより先に、レオンの身体は動き出していた。
考えるより速く地を蹴る。
砂が足元で散り、視界が一段低くなったあと、反動を利用して跳躍する。
風圧が頬を打つ感覚と同時に、落下してくる影が形を持った。
細い肢体。
こちらの衣とは違う仕立ての布。
両腕を力なく投げ出した少女が、崩れ落ちるように空から落ちてくる。
腕を伸ばし、その身体を抱きとめた瞬間、胸に衝撃が走った。
骨が折れそうなほどの重さではない。
それでも、心臓の奥が荒く波立つ。
草原で、血の気を失ったリアナを抱き上げた記憶が、一気に蘇った。
光と影の境目で、妹の名を呼び続けたあの日。
腕の中から消えていった体温と、喉を裂いても届かなかった祈り。
(リアナ──)
名前を呼ぶ声が、自分のものかどうかさえ判然としない。
白い輪郭が視界をかすめ、耳の奥に微かな声が残る。
呼び止めるような、あるいはなにかを託すような響き。
混ざり合う記憶のざわめきに、レオンは目を細めた。
腕の中の少女は、力を完全に手放している。
首は少し傾き、身体の重心を預けるように寄りかかってきた。
細い肩は震えてはいないのに、掌には折れてしまいそうな脆さが伝わる。
衣越しに感じる身体の熱は淡く、鼻先にかかる息づかいも、意識しなければ聞き逃してしまいそうだ。
「……人間だ!」
中庭を囲んでいた兵たちが、ざわついた。
耳や尾を持つ獣人の兵たちが、一斉に足を踏み出し、円を狭めてくる。
砂を踏む音と、鞘から半ば抜かれた刃の軋みが重なった。
人間は、この大陸では稀な存在だ。
隣国との古い条約で、互いの領域へ勝手に立ち入ることは禁じられている。
ましてや、王宮中庭の上空から落ちてくるなど、あり得ない。
兵たちの顔に、警戒と不信と好奇の色が交じる。
爪を伸ばしたまま少女を睨みつける者もいれば、地面に印を刻んで結界を張ろうとする術士もいた。
誰もが一歩近づき、武器を握り直す。
その背後で、靴音がひとつだけ響く。
深紅の衣をまとった男が、ゆるやかな歩調で現れた。
オルディス宰相。
獅子国の政務を預かる男であり、王の右腕と呼ばれる存在だ。
濃い赤の衣の裾には金糸の刺繍が走り、肩には薄い外套がかかっている。
感情の色をほとんど見せない黒い瞳が、レオンとその腕に抱かれた少女をじっと観察していた。
彼の表情には驚きも、嫌悪も浮かんでいない。
ただ、事実を測り、価値を量るために目を凝らす者の静かな熱だけがある。
オルディスは、周囲のざわめきに耳を貸すこともなく、唇をわずかに動かした。
「……使える」
掠れた呟きが、石畳に落ちる。
誰かに聞かせるつもりのない声量だったが、近くにいた兵の何人かは、その一語に身を固くした。
獅子国の宰相が「使える」と言ったものは、たいてい政治の駒になる。
レオンは少女の体勢を整え、しっかりと抱き上げ直す。
腕にある重みは、今の現実を確かなものにしてくる。
だが胸の奥では、説明のつかない痛みが、波紋のように広がっていた。
(この感覚は、なんだ?)
妹を喪った瞬間に刻まれた裂け目。
癒えぬ傷が、腕の中の存在に触れた途端、再び疼きだす。
目を閉じれば、血に濡れたリアナの横顔が蘇り、その輪郭が、今抱いている少女の面差しと半ば重なり、半ば押し返される。
彼女の顔には、幼さが残っていた。
頬はまだ丸みを帯び、長い睫毛は俯いた影を落としている。
異国の布で仕立てられた衣は、獣人の王宮では見ない形だ。
胸元には、落下の際に掠ったのか薄い擦り傷があり、頬には細い光の跡のようなものが走っている。
敵意の匂いはない。
戦場で何度も嗅いだ殺気とも違う。
ただ、どこから来たのか分からない異質さと、放り出された子どもの無防備さが混じっている。
不安の棘が心に刺さった。
この少女は、守るべき存在なのか。
それとも、災いの種なのか。
王太子としての思考と、一人の男としての本能が、胸の内で噛み合わず、ざらりと軋んだ。
兵のひとりが、一歩前へと歩み出る。
「王太子殿下、その者を拘束すべきかと──」
声には、恐れと職務の両方が滲んでいた。
レオンは短く息を吐き、言葉を切るよりも速く口を開く。
「下がれ。俺が運ぶ」
砂を踏む音が一斉に止まり、輪がわずかに広がった。
レオンは少女を胸元へ寄せ、落ちないよう腕に力をこめる。
黒髪が揺れ、衣の裾が風を孕んだ。
この世界のどこにも属さない匂いが、鎧の金具へとかすめる。
(おまえは……何者だ?)
問いは声にならない。
胸の底に沈んだまま、小さく渦を巻いている。
レオンは少女を抱いたまま、宰相の前を通り過ぎた。
中庭から医師と術士の待つ棟へ向かう、その一歩ごとに、肩へ乗せられる責任の重さが増していく。
王族として、この異邦の来訪者をどう扱うのか。
兄として、二度と腕の中で誰かを失わぬために、なにを選ぶのか。
深紅の衣をまとったオルディスは、その背中を刺すような眼差しで追った。
すでに彼の中では、理が乱れた原因と召喚の意味、この人間の少女をどこに据えれば国に利があるか──いくつもの計算が静かに動き始めていた。
落下の軌道で交差した二つの運命が、獅子国の歴史に新たな頁を開こうとしていることを、その場にいた誰ひとりとして、まだ知らなかった。




