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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第二章・濃青の墜落

 紗世の身体は、なんの支えもない空間へ放り出された。

 足下から床が消えた瞬間に遅れて、腹の奥がきゅっと縮む。風を切り裂く鋭い感覚が全身を駆け抜け、呼吸の間隔が乱れた。

 上へ引き上げられているのか、下へ落ちているのか。

 感覚としては落下なのに、上下という基準そのものが頼りにならない。重力だけが揺らがず、見えない手のように紗世をどこかへ引いていく。

 眼前いっぱいに広がっているのは、見慣れた空とは質の違う色。

 薄明や夕焼けのグラデーションとは無縁の、濃い青。深海の底を裏返して空に貼りつけたような色合いで、目の奥に刺さる。

 肌に触れる空気は乾ききっていて、細かな針の粒になって頬や指先を突いた。吸い込むたび、胸の内側を紙ヤスリで撫でられているような痛みが走る。

 耳を打つ音も、風だけではない。

 吹きすさぶ気流の中に、巨大な獣が喉の奥を鳴らしているような低音が混じっていた。その下で、どこか離れた場所でなにかが爆ぜる気配が連鎖している。雷に似ながらも稲光の気配はなく、世界そのものが軋んでいるような不穏さだけが音になっていた。

(こんな落ち方なんて知らない)

 紗世は胸に抱えた古書を握りしめた。

 腕の中の重さは現実そのもののはずなのに、自分の身体ごと空間から切り離されていくようで、指に込めた力だけが拠り所になる。

 唇が乾き、無意識に舌で湿らせる。

 怖い、と言葉にできれば少しは楽になるのかもしれない。

 それでも声を出すことができないのは、叫んだ瞬間になにかが決定してしまいそうな予感があったからだ。

 おそるおそる顔を下へ向ける。

 濃青の下層に、黄金の面が現れた。

 巨大な広場のような空間だ。石畳一つひとつが陽の色を閉じ込めたように光を跳ね返し、その周囲を、鎧のような輪郭を持つ建物がぐるりと囲んでいる。

 石畳の上には、大勢の影が集まっていた。

 人の形に近い身体に、獣の耳や尾を持つ者。

 分厚い甲冑をまとい、槍や剣を構えた兵の列。

 肩や背から翼のようなものを覗かせる異形の姿。

 その群れの中心だけがぽっかりと空白になっている。

 そこへ、自分が落ちていく。

 それを理解した瞬間、喉の奥がきゅっと強張った。

(どこ……ここ、どこ……)

 腕を伸ばしても、掴めるものはなにひとつない。

 指はただ硬い空気を引っかくだけで、落下の速度は逆に増していく。

 広場を塗りつぶしていた黄金の色彩が急速に近づき、目に刺さる光量を帯びて視界を満たした。

 それでも身体は止まらない。

 呼吸の仕方さえ分からなくなり、肺の中が空っぽになる。

 胸の奥で何かが跳ねる感覚はあるのに、声は喉の手前で固まって音にならなかった。

 加速する景色の中で、ふと上空へ意識が引き戻される。

 書庫と濃青の空を繋いでいた裂け目が、頭上で細くしぼんでいくのが見えた。

 白い蛍光灯と書棚の影を縫い合わせていた亀裂は、誰かが外側から布を縫い寄せるような動きで縮まり、その周囲から赤い火花が迸る。

 火花は粉々になった光の粒のように散り、暗い空間でいくつもの軌跡を描いた。

 そのひとつが、紗世の頬をかすめる。

 熱い、と感じる前に、薄く光る線が肌の上に刻まれていた。

 焼けたような痛みではない。印を押されるときの、皮膚の奥がじんと震えるような感覚だけが残る。

 その一瞬だけ、底知れぬ恐怖から意識が外れ、頬に触れた異物感へと気持ちが引き寄せられた。

(……今のはなに?)

 問いが形になる前に、火花はすべて霧散する。

 頭上の裂け目も、最後の一針を縫い終えたように完全に閉じた。

 蛍光灯の白も、書庫の棚も、もうどこにも見えない。

 紗世は濃青だけの空に取り残され、ただひとつ、下方に広がる世界へ向かって真っ逆さまに落ち続けていた。

 息を吸うことも忘れ、喉が強張る。

 胸の内側で心臓が荒々しく打ち鳴らされるのに、その音は耳まで届かない。

 自分の身体がまだここにあるのかどうかさえ確かめられず、意識だけが薄い皮膜の上に追い出されたような心許なさが広がる。

 黄金の石畳が目前まで迫ってきた。

 先ほどまで抽象的な模様に見えていた地面は、ひとつひとつの石がくっきりとした輪郭を持ち、その継ぎ目に刻まれた紋章までもが目に飛び込んでくる。

 石畳の周囲で、獣人たちがざわめいる。

 耳を立てる者、尾を逆立てる者、武器を構え直す兵士。

 驚愕の声を上げる者と、咄嗟に盾を前に出す者。

 なにが起きているのか理解できずに空を仰ぐだけの顔もあれば、事態を読み取ろうとして眉を寄せている者もいる。

 その視線の集まる先に、自分がいる。

 地上の誰もが、この空から降ってくる光の筋を見上げていた。

(……やだ、死ぬ……)

 ようやく、その言葉が胸の内側に浮かんだ。

 遅れてやってきた現実が、ひどく生々しい。

 これが現実であってほしくないという願いと、もう逃げ場はないという諦めが、同じ場所でぶつかり合う。

 身体が引き裂かれそうな速度の中、紗世はただ目を見開いたまま、迫りくる世界を受け止めるしかなかった。

 黄金の石畳が、今にも指先に触れそうな距離へ迫る。

 獣人たちのざわめきがひときわ大きく膨らみ、誰かの武器が空を切る音が混ざる。

 次の瞬間、紗世の身体は光の軌跡を引きながら、その広場の中心へと落ちていった。

 

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