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暁の獣恋譚  作者: 白川桜蓮


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第二章・赤火の裂け目

 閉館時刻のアナウンスが終わってから、どれくらい経っただろう。

 書庫に残っている靴音は、紗世のものだけになっていた。

 職員用の扉はすでに施錠され、閲覧スペースの明かりも落とされている。

 情報センターの奥にあるこの書庫は、昼間でも人が少ない場所だ。閉館後ともなれば、冷房の風さえ届きづらく、紙と埃とインクの匂いだけが空気を満たしている。

 今日の紗世は、古書コーナーの点検表と向き合っていた。

 背の高いスチール棚に、古い製本の背表紙が隙間なく並ぶ。剥げかけた題字を一つずつ照らし合わせ、番号とタイトルを照合し、チェック欄を埋めていく業務だ。派手さはないが、この作業が正確でなければ資料検索は成り立たない。

 蛍光灯が、天井で短く鳴った。

 白い灯りが不安定に明滅する。施設の老朽化で、最近しばしば起こる現象だ。普段なら、管理室に連絡しておこう、と頭の片隅にメモを置いて終わる。

 だが今夜の灯りは、いつもと違う気配を帯びていた。

 棚のいちばん下に押し込まれていた古書の背表紙を確認しようと、紗世は膝を折る。

 床に片手をつき、屈み込んだその瞬間。

 頭上の蛍光灯が、赤を含んだ。

 夕焼けとも非常灯とも違う色。

 直後、空調とは別の熱が押し寄せる。季節外れの暖気ではない。皮膚の表面を焼くような熱波が、肩から腕へと触れていく。

 紗世は反射的に棚に手をつき、首を上げた。

 天井を走る蛍光灯の管のあいだから、赤い閃光が走る。

 金属の軋みと電流の唸りが重なり、灯りが不規則に震えた。

 書庫の空気が軋む。

 紙の擦れる柔らかな音とは異なる、鋭い断裂音が混じりはじめる。

 誰かが遠くで布を引き裂いているような、乾いた音。

 胸の奥で、良くない予感した。

 ここは現実の職場で、災害訓練の予定もない。ならば、この音はなにが生んでいるのか。

 その答えは、すぐ背後で姿を現した。

 棚と棚のわずかな隙間。そこに、細い線が走ったのだ。

 ひび割れのような、ぴしりとした筋。

 最初は壁の傷かと思った。だが、その奥に見える色が、書庫の壁ではなかった。

 灰色のコンクリートのはずの場所に、濃い青が貼りついている。

 夜空とも海とも言い切れない、深い色合いが脈動していた。

 書庫の狭さとは釣り合わない、広がりを持った景色。

 ひやりとした風が隙間から吹き込んだ。

 冷たい山風のような流れが足元を撫で、古書の背表紙に挟まれていた紙片を舞いあげる。

 紗世は反射的に、抱えていた古書を胸に引き寄せた。

(なんで、ここに空が?)

 現実と呼び慣れたものの枠が、一瞬で薄くなる。

 それでも身体は、生存本能に従って動いた。

 一歩、ここから離れなければ。

 紗世は後ろへ下がろうとした。

 しかし、足に力を入れた途端、床が生き物のように盛り上がる。

 木材が軋む音が連続し、床板が緩やかな波を描いた。

 地震とも違う。揺さぶられるのではなく、足元そのものが別の形へ組み替えられていく感覚。

 次の瞬間、盛り上がった波がふっと消え、支えが抜けた。

 沈み込む、という言葉では足りない。

 下へ落ちるのではなく、下方に口を開けたなにかが、あらゆるものを吸い込もうとする。

 書庫という箱に、突然、重力とは別種の引力が存在し始めたようだった。

 紗世の身体が、ふっと浮く。

 胸に抱えた古書も一緒に持ち上げられ、その重みすら自分のものではないように感じられる。

 けれど、本を離したくないという想いだけが、腕に力を残していた。

 視界の下の方で、床の板が薄く透けていく。

 木目の模様が色を失い、その向こうに、先ほど棚の裂け目から覗いた濃青が広がっていた。

 夜空とも海とも違うその色が、ゆっくりと、しかし確実に渦を巻いている。

「待って……」

 喉から出た声は震えてはいなかった。

 恐怖が追いつくよりも先に、状況を理解しようとする癖が動いたからだ。

 どこへ落ちるのかも分からないまま、呼吸だけが浅く速くなる。

 視界の端で、スチール棚が傾いだ。

 収納しきれないほどの冊子が、一気に溢れ出す。

 書物が、まるで流星群のように濃青の渦へ吸い込まれていく。

 床と渦の境界線が、完全に消えた。

 書庫という空間そのものが、ゆっくりと別の場所へ飲み込まれていく。

 紗世の指先が空を掴むが、触れられる場所はどこにもない。

 ふわりと、身体が反転した。

 天井に並んだ蛍光灯が、逆さまに視界へ飛び込み、その赤が遠ざかっていく。

 最後に見えたのは、灯りが一斉に弾ける瞬間だった。

 ぱん、と幾つもの光源が破裂し、その破片が星のように散る。

 その光を背に受けながら、紗世は深い裂け目へと引き寄せられていく。

 胸に抱えた古書の頁が風を受けてばらけ、紙片が白い軌跡を描きながら渦へ溶けた。

 行間に刻まれていた文字が、風にさらわれた墨の粒になって、濃青の中へ散っていく。

 上下の感覚が消え、耳に届く音も変わった。

 空調の微かな唸りも、遠くの車道のざわめきも消え、代わりに、世界そのものが倒れ込んでいくような低い響きだけが続く。

 数秒後。

 図書館の奥まった書庫には、静まった棚と、割れた蛍光灯の残骸と、宙を舞う紙片の名残だけが残された。

 たった今まで人がいた気配は、床に落ちた点検表の紙束と、開いたままの出入口だけが伝えている。

 そこに紗世の姿はない。

 赤火の裂け目は役目を終えたように閉じ、書庫は元の形を取り戻した。

 ただひとつ違うのは、この夜から先、この部屋が二つの世界の境界に触れた場所として、見えない印を刻まれたことだけだった。


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