1942年5月1日 太平洋艦隊司令部
真珠湾の空は抜けるように青かった。
つい数時間前まで、この港は艦艇で埋め尽くされていた。
戦艦十四隻、空母六隻、重巡洋艦十二隻、軽巡洋艦十五隻、駆逐艦五十隻以上。
そして、三万一千名の将兵を収容するための輸送船団。
合衆国がかき集めた、ありったけの海軍力だった。
今、港は静まり返っていた。
残っているのは、修理中の艦艇と、補助艦艇だけだった。
主力は全て、西へ向かった。
太平洋艦隊司令部の会議室で、ルーズベルトは窓の外を見つめていた。
水平線の彼方に、艦隊の煙はもう見えなかった。
「大統領」
スティムソンの声で、ルーズベルトは振り返った。
会議室には、スティムソン、ノックス、ハル、スターク、マーシャルが揃っていた。
長いテーブルの上には、太平洋の大きな海図が広げられていた。
「始めよう」
ルーズベルトは車椅子をテーブルに近づけた。
◇ ◇ ◇
スタークが立ち上がり、海図の前に歩いた。
「救援艦隊は本日一一〇〇、真珠湾を出港しました。キンメル大将が直率しています。編成は以下の通りです」
スタークは海図上のハワイを指した。
「戦艦十四隻。太平洋艦隊からノースカロライナ、コロラド級三隻、テネシー級二隻、ペンシルベニア級二隻、ネバダ級二隻。大西洋艦隊からニューメキシコ級三隻とノースカロライナ級のワシントン」
「……」
「空母六隻。レキシントン、サラトガ、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウン、そして大西洋から回航したワスプ」
「……」
「重巡十二隻、軽巡十五隻、駆逐艦五十八隻。高速輸送船二十九隻。給油艦、補給艦、修理艦を含む補助艦艇多数」
ノックスが言った。
「我が国の海軍力の大半だな」
「そうです。大西洋には最低限の戦力しか残していません。もしこの艦隊を失えば、両洋で同時に作戦を遂行する能力は数年間失われます」
ルーズベルトは煙草に火をつけた。
「航路は」
スタークは海図上に指を走らせた。
「艦隊はまず南西に向かいます。ギルバート諸島の哨戒圏を避けるため、大きく南に迂回します。その後、ソロモン海に入り、ビスマルク海を通過」
「……」
「ニューギニア北岸を西進し、セレベス海からスールー海に入り、マニラを目指します」
「距離は」
「約七千海里。一万三千キロメートル以上です。輸送船団を伴う速度では、三十日から三十五日の航程になります」
マーシャルが言った。
「到着予定は六月上旬か」
「そうなります。フィリピンの持久限界が五月末と見積もられていましたから、ぎりぎりです。マッカーサー将軍には、あと一ヶ月の持久を指示しています」
◇ ◇ ◇
ハルが聞いた。
「日本側の動きは」
「出港は察知されているはずです。これだけの規模の艦隊が動けば、隠しようがありません。ハワイ周辺には日本の潜水艦が哨戒しています。既に発見されていると見てよいでしょう」
ルーズベルトは煙を吐いた。
「日本はどう動くと見ている」
「二つの可能性があります」
スタークは海図を指した。
「一つは、我々の航路を予測して先回りする。マーシャル諸島、カロリン諸島、パラオ。この線に沿って兵力を展開し、我々を待ち受ける」
「……」
「もう一つは、フィリピン周辺で待ち構える。封鎖艦隊を強化し、我々がマニラに到達する直前で決戦を挑む」
「どちらが可能性が高い」
「分かりません。日本の機動部隊の動きが鍵になります。我々の偵察網では、日本の空母が本土を離れたという情報はまだありません。しかし、それは単に我々が捕捉できていないだけかもしれません」
スティムソンが言った。
「つまり、どこで迎撃されるか分からないまま進むということか」
「そうです。我々は長い航路を進む間、常に奇襲の危険にさらされています。潜水艦、基地航空隊、そして機動部隊。いつ、どこから攻撃が来るか、予測できない」
沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
ノックスが口を開いた。
「キンメルには何と指示した」
「作戦目標はフィリピンの将兵の救出。マニラに到達し、輸送船団で将兵を収容し、帰還する」
「……」
「日本艦隊との決戦は避けられないが、目的はあくまで救出であって、敵艦隊の撃滅ではない。可能な限り輸送船の損害を抑えつつ、任務を達成せよと」
「キンメルは何と言っていた」
スタークは少し間を置いた。
「全力を尽くす、と」
「……」
「ただ、三万一千名を収容するには時間がかかる。マニラ湾で輸送船団が停泊している間、艦隊は日本軍の攻撃にさらされ続ける。その間に決戦を強いられる可能性が高いと」
ルーズベルトは煙草を灰皿で揉み消した。
「勝てると思っているか」
「勝てると信じています。しかし、どれだけの損害を受けるかは分からない、とも言っていました。最善を尽くすが、結果は約束できない、と」
ハルが言った。
「正直な男だ」
「軍人としては当然のことを言っているだけです。戦争に確実な勝利などありません。特に、これほど長い航路を、これほど大きな艦隊で進む作戦は、我が国の歴史でも前例がない」
ルーズベルトは窓の外を見た。
青い空と青い海。
その向こうに、艦隊は進んでいる。
◇ ◇ ◇
「国内の状況はどうだ」
ハルが答えた。
「支持率は急上昇しています。救援艦隊の派遣を発表してから、大統領の支持率は三十五ポイント上昇しました。『我が軍の兵士を見捨てない』というメッセージが、国民に響いています」
「議会は」
「好意的です。野党も、この段階では批判を控えています。救援艦隊を送るという決断自体は、国民の圧倒的多数が支持していますから、反対する理由がない」
ノックスが言った。
「今のところは、な」
「その通りです。今は支持されています。しかし、それは艦隊が出発したばかりだからです。一ヶ月後、艦隊がどうなっているかで、全てが変わる」
スティムソンが続けた。
「成功すれば、大統領は英雄になります。三万一千名の若者を救った指導者として、歴史に名を残す。中間選挙も圧勝できるでしょう」
「失敗すれば」
「その逆です。艦隊を失い、将兵も救えなかった。国民を欺いて、勝てない戦いに若者たちを送り込んだ。そう言われます。支持率の急上昇は、そのまま急落の落差になる」
ルーズベルトは苦笑した。
「爆弾を抱えているようなものだな。しかし、やらねば国家統治の正統性自体を吹き飛ばしていた」
「その通りです。やらねば国民の、合衆国への信頼は失墜していた。たとえ政権が変わっても、政府や軍へのイメージを変えることは難しかったでしょう」
「……」
「本作戦は確かに爆弾を抱えて進む博打のようなものです。しかし、たとえ負けても、合衆国への信頼自体は守ることができます」
「数万の将兵、何十隻もの艦艇の犠牲の上に、か」
沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは窓際に移動した。
青い海が広がっていた。
その向こうに、艦隊は進んでいる。
キンメルと、数万の将兵たちを乗せて。
「諸君」
ルーズベルトは背中を向けたまま言った。
「我々にできることは、もうない。あとは、彼らを信じて待つだけだ」
誰も答えなかった。
窓の外では、太陽が海面を照らしていた。
艦隊は西へ向かっている。
その行く手に、何が待っているのか。
誰にも分からなかった。




