1942年2月16日 大統領執務室
大統領執務室には重苦しい空気が漂っていた。
窓の外は灰色の曇り空で、午後だというのに室内は薄暗かった。
ルーズベルトは机の前に座り、目の前に積まれた書類を見つめていた。
議会からの書簡、新聞の切り抜き、世論調査の報告書。
そのどれもが、同じことを告げていた。
秘書がノックした。
「皆様がお揃いです」
「通してくれ」
スティムソン、ノックス、ハル、スターク、マーシャル。
五人が入室し、いつもの席についた。
誰も口を開かなかった。
ルーズベルトは書類の山から一枚を取り上げた。
「今朝の世論調査だ。『フィリピン救援のために艦隊を派遣すべき』が六十八パーセント。先月より十二ポイント上昇している」
ノックスが言った。
「報道の影響です。毎日のようにフィリピンの記事が出ている。飢えた兵士の話、届かない補給、見捨てられた若者たち。国民は感情的になっています」
「感情的か」
ルーズベルトは書類を置いた。
「議会も同じようだな」
ハルが答えた。
「両党から圧力が強まっています。民主党内でも、救援艦隊の即時派遣を求める声が大きくなっている。共和党は言うまでもありません」
「反対意見はないのか」
「あるにはあります。しかし、公に言えない。艦隊を出せば負ける可能性がある、とは主張しにくい状況です」
ルーズベルトは眉をひそめた。
「なぜだ」
スティムソンが口を開いた。
「対日感情の問題です。長年、日本を見下してきた。その日本に対して、我々の艦隊が負けるかもしれないとは、誰も認めたくない。認めれば、弱腰だと批判される。結果として、救援強硬派に対抗する論理が組み立てられない」
「つまり、反対派は沈黙し、強硬派だけが声を上げていると」
「そういうことです。世論が一方向に流れている」
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは煙草に火をつけた。
「欧州の状況はどうだ」
マーシャルが答えた。
「芳しくありません。ソ連のモスクワ防衛は成功しましたが、反攻作戦は頓挫しました。一月下旬に攻勢を開始しましたが、進展がない」
「原因は」
「戦力不足です。日本が満州に兵力を戻したことで、ソ連は極東の戦力を西部戦線に抽出しにくくなっています。スターリンは、日本が北進する可能性を完全には排除できないと見ているようです」
ハルが補足した。
「実際に北進するかどうかは分かりません。しかし、その可能性を示すだけで、ソ連を牽制できている。兵力を動かさずに、効果を得ている」
ルーズベルトは煙を吐いた。
「英国はどうだ」
「動き始めています」
ハルの声には苦いものが混じっていた。
「アジアに置いていた戦力を、徐々に欧州に戻している。シンガポールの兵力を減らし、地中海方面に回しているようです」
「日本との関係は」
「調整中、という言い方が適切でしょう。チャーチルは、我々の政権が不安定化していることを見ている。同時に、日本との戦争に巻き込まれることも避けたい。当面、日本を刺激しない方向で動いているようです」
ノックスが声を上げた。
「我々の同盟国が、日本に配慮していると言うのか」
「配慮というより、現実的な判断でしょう。英国にとって、優先順位は欧州です。アジアで日本と戦端を開く余裕はない。我々がフィリピンで手一杯になっている間に、欧州での態勢を固めようとしている」
「見捨てられているということか」
「見捨てているのではありません。順序をつけているのです。我々も同じことをするでしょう、立場が逆なら」
沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
ルーズベルトはスティムソンを見た。
「マッカーサーからの報告は」
スティムソンは封筒から書類を取り出した。
「二通来ています。一通は通常の状況報告です。持久体制の構築を進めている。可能な範囲で開墾を行い、食糧の自給を試みている。しかし、成果が出るには時間がかかる。根本的な解決にはならないと」
「もう一通は」
スティムソンは一瞬言葉を切った。
「問題のある報告です」
「読んでくれ」
「マッカーサー将軍は、中立国領域で日本側と接触を試みたようです。降伏の可能性について、予備的な打診を行った」
部屋の空気が凍りついた。
ノックスが身を乗り出した。
「降伏交渉だと」
「極秘裏に行われたものです。将軍は、状況が好転する見込みがないと判断し、現場の判断として打診を試みたようです。しかし」
「しかし?」
「日本側は拒絶しました」
ルーズベルトが聞いた。
「拒絶? 降伏を受け入れないということか」
「そうです。日本側の回答は、およそ以下の通りだったそうです」
スティムソンは続けた。
「一、我々は一兵もフィリピンに上陸していない。その状況で米軍の降伏を受け入れることはできない」
「……」
「二、降伏を受け入れれば、三万人以上の捕虜の給養を保証しなければならないが、その準備がない」
「……」
「三、フィリピン地域の降伏は、米本国との講和によってのみ成立する。現地司令官との交渉では受け入れられない」
沈黙が部屋を満たした。
ノックスが呟いた。
「降伏すら受け入れてもらえないのか」
ハルが言った。
「これも計算のうちでしょう」
「どういう意味だ」
「日本は、フィリピンの我が軍を降伏させたいわけではない。降伏させれば、三万人の捕虜を養わなければならない。それよりも、封鎖を続けて我々を追い詰める方が効果的だと判断している」
スティムソンが続けた。
「しかも、降伏を拒絶した理由が明快です。『一兵も上陸していない』『給養を保証できない』『講和によってのみ成立する』。論理としては筋が通っている。少なくとも国際法上は。我々としては反論しにくい」
スタークが口を開いた。
「ただし、赤十字の展開や、中立国船によるフィリピン民間人の国外退避については、協力する用意があるとも伝えてきたようです」
ノックスが苦笑した。
「民間人の退避には協力するが、軍の降伏は受け入れない。どこまでも計算高い」
ルーズベルトは煙草を灰皿に押しつけた。
「つまり、我々は降伏という選択肢すら奪われたということか」
「そういうことです。日本は、我々に降伏させたくない。餓死するまで封鎖を続けるか、救援に来て艦隊を消耗するか。そのどちらかを選ばせたい」
◇ ◇ ◇
スタークが言った。
「もう一つ、問題があります」
「何だ」
「日本側は、この降伏打診の試みを外部に漏らし始めているようです」
ルーズベルトの目が細くなった。
「リークか」
「中立国の報道機関に、それとなく情報が流れています。『フィリピンの米軍司令官が、日本側に降伏を打診した』『しかし日本は受け入れなかった』。まだ断片的ですが、いずれまとまった記事になるでしょう」
ノックスが声を荒げた。
「それが広まれば、どうなる」
「世論は沸騰します。フィリピンの窮状がここまで深刻だったのか。なぜ政府は救援しないのか。戦わずして降伏させようとしていたのか。責任はどこにあるのか」
ハルが言った。
「マッカーサー将軍は、なぜこの打診を行ったのですか。リスクを認識していなかったのか」
スティムソンが首を振った。
「将軍は、純粋に軍事的な必要性から行動したようです。降伏が選択肢として検討されていることは、ワシントンから伝えられていた。しかし、本国の世論状況がどれほど過熱しているかは、十分に周知されていなかった。情報戦に利用されるリスクを軽視していた」
「つまり、我々の伝達不足か」
「そうなります」
ルーズベルトは立ち上がり、窓際に歩いた。
外は相変わらずの曇り空だった。
「まとめてくれ。我々の選択肢は何だ」
スタークが答えた。
「四つあります」
「……」
「一つ目、救援艦隊を派遣する。二つ目、派遣せず、フィリピンの持久を続けさせる。三つ目、フィリピンの降伏を命じる。四つ目、日本との講和に応じる」
「講和か」
ルーズベルトは呟いた。
ハルが首を振った。
「現実的ではありません。日本の講和条件は、満州国の承認、中国への支援停止、封鎖の解除。これを呑めば、我々はほぼ一戦も交えずに日本の要求に屈したことになる」
「……」
「世論が救援を求めて沸騰している今、それは政治的自殺です。大統領だけでなく、民主党そのものが葬られる」
「つまり、四つ目は取れないと」
「取れません。三つ目も、日本が降伏受け入れを拒否している以上、実行不可能です」
「残るは二つか」
スタークが頷いた。
「救援に行くか、行かないか」
◇ ◇ ◇
「行かない場合、どうなる」
スティムソンが答えた。
「フィリピンの将兵は持久を続けますが、限界は五月末です。それまでに餓死者が出始める」
「それだけではない」
マーシャルが口を開いた。
「大統領、この選択の意味を明確にしておくべきです」
「聞こう」
「救援艦隊を派遣しないということは、我々が自ら戦地に送り込んだ三万一千名の若者を、救援の努力もせずに見捨てるということです」
「……」
「彼らはこの国の命令でフィリピンに赴いた。国家への奉仕として、危険な任務を引き受けた。その彼らを、我々は見殺しにする。飢えて死んでいくのを、何もせずに傍観する」
部屋が静まり返った。
マーシャルは続けた。
「これは単に政権が持つか持たないかという問題ではありません。合衆国という国家の、国民との約束の問題です」
「……」
「合衆国は、国民に奉仕を求める代わりに、その生命を守る責任を負う。その約束を破れば、政府の統治の正当性そのものが揺らぐ。建国以来、我々が拠って立ってきた理念が問われることになります」
ノックスが言った。
「国民は二度と政府と軍を信用しなくなる。徴兵に応じる者もいなくなるかもしれない。『フィリピンの若者たちのように見捨てられるのではないか』と」
ハルが続けた。
「国際的にも影響が出ます。同盟国は、我々が自国民すら守れないのかと疑う。敵対国は、我々の意思の弱さを見透かす。この戦争だけでなく、今後何十年という外交関係全体に傷が残る」
ルーズベルトは黙って聞いていた。
スティムソンが言った。
「つまり、救援しないという選択は、艦隊を温存できるかもしれない。しかし、それ以外の全てを失う可能性がある」
「……」
「国家としての信頼、国民との絆、統治の正当性。艦隊を守って国を失うことになりかねません」
沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは窓から振り返った。
「救援に行った場合はどうなる」
スタークが答えた。
「漸減邀撃を受けます。フィリピンに近づく過程で航空攻撃、潜水艦、夜間雷撃。艦隊は消耗します。突破できるかもしれないし、壊滅するかもしれない。賭けになります」
ノックスが言った。
「賭けに負ければ、ハワイも危うくなる」
「そうです。太平洋艦隊を失えば、西海岸への脅威すら生じる。本土防衛に穴が開く」
ルーズベルトは煙草を灰皿で揉み消した。
「つまり、どちらを選んでも、我々は何かを失う」
「そうです」
スタークが答えた。
「救援に行けば、艦隊を失うかもしれない。行かなければ、それ以上のものを失うかもしれない。問題は、どちらの損失が致命的か、です」
「勝てる見込みは」
スタークは正直に答えた。
「分かりません。日本の漸減邀撃をどこまで凌げるか。輸送船がどれほどの損害を受けるか。変数が多すぎる」
「……」
沈黙が落ちた。
スティムソンが口を開いた。
「大統領、時間の問題があります」
「分かっている」
「艦隊編成、輸送船の集結に少なくとも一ヶ月。真珠湾からフィリピンまでの航行に、輸送船団を伴えばルートにもよりますが三週間から一ヶ月。五月末が限界なら、三月頭には動き始めなければ間に合いません」
「今日は二月十七日だ」
「あと十日です。それまでに決断しなければならない」
ハルが言った。
「先延ばしは、もうできません。決断を遅らせれば、それ自体が『救援しない』という決断になります」
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは窓から離れ、机に戻った。
全員を見回した。
「意見を聞かせてくれ。救援艦隊を出すべきか」
沈黙が続いた。
スティムソンが最初に口を開いた。
「軍事的には、リスクが高すぎます。艦隊を失えば、取り返しがつかない。しかし、政治的には、出さないという選択肢はもはや取れない。世論が許さない。降伏打診の件が広まれば、なおさらです」
ノックスが続けた。
「私も同意見です。艦隊を出したくはない。しかし、出さなければ政権が持たない」
「……」
「いや、政権だけの問題ではない。先ほどマーシャルが言った通り、国家の根幹が揺らぐ。我々は艦隊を守るために国を失うわけにはいかない」
ハルが言った。
「外交的にも、救援の姿勢を見せる必要があります。英国は我々の出方を見ている。ここで引けば、同盟関係に影響が出る。日本との関係調整に傾きビルマルートを閉鎖する可能性すらある」
マーシャルが口を開いた。
「陸軍としては、フィリピンの将兵を見捨てることはできません。彼らは我々の命令でそこにいる。救援が成功する保証はない。しかし、試みすらしなかったとは言えない。言ってはならない」
スタークが最後に言った。
「海軍としては、艦隊を危険にさらしたくない。しかし、艦隊は何のためにあるのか。国家と国民を守るためです」
「……」
「国民を見捨てて艦隊を守っても、意味がない。政治的な判断が軍事的な合理性を上回る局面があることは理解しています。決断は大統領のものです」
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは煙草を取り出した。
火をつけ、深く吸い込んだ。
「全員が、出したくないが出さざるを得ない、と言っている」
誰も否定しなかった。
「日本は、我々がそう決断することを見越していたのだろうな」
スティムソンが答えた。
「おそらく。我々の政治システム、世論の動き方、選挙の時期。全てを計算に入れている可能性があります」
「それでも出すしかない、と」
「そうです。罠だと分かっていても、踏み込まざるを得ない。それが今の状況です」
ルーズベルトは煙を吐いた。
長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「救援艦隊を編成する」
部屋の空気が張り詰めた。
「太平洋艦隊の戦艦、空母を主力とする。必要なら大西洋から戦艦を回せ。輸送船団を編成し、フィリピンの将兵を撤退させる」
「……」
「補給線の確立ではなく、撤退だ。一度だけ突入し、回収し、帰還する」
スタークが聞いた。
「作戦目標は撤退ですか」
「そうだ。フィリピンを維持するつもりはない。将兵を救出する。それだけだ」
「承知しました。編成に取りかかります」
「それと」
ルーズベルトは全員を見回した。
「この決定は、今の段階では公表しない。準備が整うまで、報道には従来通りの対応を続けろ。救援を検討中だと。準備が整った段階で発表する」
ハルが聞いた。
「マッカーサーには」
「伝えろ。救援艦隊を編成中である。到着予定は最短で五月中旬から下旬。それまで持久を続けよ、と」
「承知しました」
「それと、成功の保証はないと伝えろ。我々は賭けに出る。勝てるかどうかは分からない」
スティムソンが頷いた。
「承知しました」
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは煙草を灰皿で揉み消した。
「もう一つ。降伏打診の件が広まった場合の対応を準備しろ。マッカーサーの独断だったと説明できるようにしておけ。政権は関与していないと」
ハルが言った。
「将軍を切り捨てるのですか」
「切り捨てるわけではない。責任の所在を明確にするだけだ。将軍には後で説明する。今は、政権を守ることが優先だ」
「承知しました」
会議は終わりに近づいていた。
ルーズベルトは立ち上がった。
「諸君、我々は罠に踏み込む。日本が待ち構えている場所に、自ら艦隊を送り込む。勝てるかどうか、分からない。長期戦なら必ず勝てる戦いで、あえて短期決戦を挑まねばならない」
誰も答えなかった。
「しかし、他に選択肢はない。救援しなければ将兵を失い、国民の信頼を失い、この国が立脚する理念を失う。艦隊を温存しても、国が崩れては意味がない」
「……」
「ならば、賭けに出るしかない」
スタークが言った。
「全力を尽くします」
「頼む。諸君の手腕に、三万一千名の命と、この国の未来がかかっている」
五人が立ち上がり、退室していった。
◇ ◇ ◇
ルーズベルトは一人で窓の外を見つめた。
決断を下した。
艦隊を送る。
正しい決断なのかどうか、分からなかった。
日本の思惑通りに動いているのかもしれない。
罠だと分かっていて、自ら飛び込んでいく。
しかし、他に道がなかった。
艦隊を守って国を失うか。
国を守って艦隊を失うか。
選択肢は、最初から一つしかなかったのかもしれない。
ルーズベルトは煙草に火をつけた。
煙が、天井に向かって静かに立ち昇った。




