前へ進むために――イーライを呼ぶ
「兵たちが戻ってきたみたいね」
開け放たれた窓の向こうから、
多くの兵の話し声と足音、鎧が触れ合う金属音が押し寄せてきた。
ユウは振り返り、沈んだ表情のレイを見つめる。
セーヴ攻めから戻った兵たち。
それは、夫を領から退けた兵たちなのだ。
レイの胸中が複雑なのは、言葉にしなくても分かった。
ユウはそっと窓を閉めた。
分厚い壁が音を呑み込み、部屋は一瞬で静寂に包まれる。
「・・・この部屋、静かだね」
レイがぽつりと呟く。
城に戻って二日。
レイにも、だんだんと状況が見えてきた。
自分やウイの部屋とは比べ物にならない広さの姉の部屋。
異常なほどの防音。
妃のためのような寝台と浴室。
――キヨは、ゆっくりと確実に、姉を妾にしようとしている。
淡々と昼食をとるユウを見ながら、レイは心の奥底で思った。
ーー姉上を救いたい。でも、どうしたらいいのだろう。
◇
昼食後、ユウの部屋に来客が訪れた。
ヨシノが扉を開ける。
その向こうに立っていたのは――ノア。
ヨシノが動揺を隠すように視線をユウへ送る。
「部屋に入れて」
ユウが頷き、ノアは静かに部屋へ招かれた。
ウイもレイも息を呑む。
かつて、義父と母を裏切り、キヨに与した家臣。
ノアの裏切りがなければ、城は落ちず、母は死なずに済んだ――。
ウイは唇を噛み、俯く。
レイは、複雑な感情を宿した瞳をノアに向けた。
ノアはその視線を受け止め、深く項垂れた。
「ウイ、レイ。落ち着いて」
ユウが静かに告げる。
「落ち着くなんて・・・」
ウイの声が震える。
レイは黙って頷くだけだった。
「ノアは、セージ様を救ってくれたのよ」
ユウが少し声を強めた。
「・・・そうだったわね」
ウイは硬い表情て頷く。
「私が頼んだの。戦場で命を救うように、と。
ノアは守ってくれた。・・・出世の機会を逃してまでも」
「セージ様からも聞きました。命を救ってくれた、と」
レイが小さく呟く。
ノアは跪いたまま口を開いた。
「今回、私はセージ様の交渉役を務めました」
レイが立ち上がる。
「セージ様は・・・」
「ご無事です」
ノアが顔を上げて告げる。
「ノア、座って」
ユウの指示にあわせ、シュリが椅子を引いた。
ノアは居心地悪そうに腰を下ろす。
レイはノアをじっと見つめる。
ノアはその視線の意味を汲み取り、静かに語り始めた。
「セージ様と家臣団は当初、争う構えでした。
しかし、勝ち目のない戦でセージ様が倒れれば・・・レイ様が悲しまれる。
私は必死に説得しました」
部屋がシンと静まる。
「そして、セージ様は無血開城を受け入れました」
「ノア・・・ありがとう」
ユウは静かに頭を下げた。
「セージ様は・・・今どこに?」
レイの声は震えていた。
「これは推測ですが」
ノアは丁寧に言葉を選ぶ。
「西領のジュン様へ、庇護を受けに向かわれたと思われます」
「ジュン様のところに・・・?」
「ええ。争いの折、セージ様はジュン様と同盟を結ばれました。
そして私も、ジュン様に庇護を求めるよう書状を書き・・・お渡ししました。
その後、速やかに城の抜け穴に向かいました」
シュリは胸が熱くなった。
ノアは、キヨの重臣として仕えながら、ユウの願いも背負い、二重の任務を果たした。
その難しさを思うと胸が締めつけられる。
ユウもそれを分かっていた。
「本来なら、セージ様はキヨを裏切った領主。
ジュン様のもとに行かなければ、ずっと監視され、・・・いずれ殺されたわ」
ユウの静かな言葉に、ウイが目を見開く。
「おっしゃるとおりです」
ノアは深く頷く。
「・・・ありがとう」
レイは黒い瞳を潤ませ、ゆっくり頭を下げた。
「夫を――」
この時、初めてレイはセージを「夫」と呼んだ。
「夫の命を救ってくれて・・・ありがとう」
ノアは深く、深く頭を垂れた。
「姫様たちの望みなら・・・私は何でもいたします」
その声には、嘘偽りのない覚悟が宿っていた。
ユウは真っ直ぐにノアを見る。
「ノア。あなたがいてくれて本当に良かった」
後ろでウイが、涙をこらえながら強く頷いた。
「暖かいお言葉・・・励みになります」
ノアの声は震えていた。
部屋の空気が、ゆっくりと和らいでいった。
◇
ノアが部屋を出ていったあと、
レイは小刻みに肩を震わせ、ウイは複雑な表情で唇を噛みしめていた。
ユウはそっとレイの身体を抱き寄せた。
「争いは・・・何があるかわからないわ」
努めて気丈に響く声。
だが、その語尾に小さな震えがあることを、シュリだけはすぐに気づいた。
ユウはレイの黒髪を指でそっと梳きながら続ける。
「たとえノアが裏切らなくても・・・私たちは争いに敗れていたかもしれない」
「でも・・・っ!」
ウイが堪えきれず顔をあげる。
どうしても納得できない、そんな目をしていた。
ユウは静かに首を振る。
「『でも』『もしかすると』・・・そんな言葉ばかり考えていたら、前へ進めないわ」
青い瞳はうっすらと潤んでいた。
「・・・あの男は、とても強かった。戦は、始まる前に終わっていたのよ。
母上は・・・殺された訳ではない。自ら、死に向かったの」
その言葉を口にした瞬間、ユウの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「・・・はい・・・」
レイもウイも、頬を伝う涙を止められなかった。
ユウはゆっくりと目を閉じ、もう一度、ふたりを抱き寄せる。
「もし生き残っていたら・・・母上は、あの男の妾にされていたはず。
私も母上の立場なら・・・同じ選択をするわ」
その声は強く、確固としていた。
レイは黙って頷いた。
しかし胸の奥に、黒い影のような懸念が残る。
ーー母上にそっくりの姉上を・・・あの男は、今まさに妾にしようとしている。
その事実だけが、レイの心に重く沈んでいた。
「許せないと言えば・・・」
ウイが、震える声でぽつりとこぼした。
「私は・・・イーライが許せません。姉上を病気だと偽って、レイを呼び出した。 ひどい!ひどすぎます」
群青色の瞳は、悲しみと悔しさで揺れていた。
レイもまた、唇を結んで静かに頷く。
ユウは複雑な表情で、ふたりを抱く腕にそっと力を込めた。
「・・・確かに、許せない部分はあるわね。偽りの手紙を書いたのだから」
その声は冷静であろうとしていたが、奥には傷の跡があった。
ーーあの日以来、イーライはユウの部屋に一度も来ていない。
気まずいのだろう。
それとも、あの時の自分の怒りが怖かったのか。
ユウは小さく息を吐いた。
「・・・でも、イーライにも言い分はあるはずよ」
レイとウイの視線がユウに向く。
ユウは立ち上がり、振り返りもせずにシュリへ声を向けた。
「シュリ。イーライを、この部屋に呼んでくれる?」
その声は静かなのに、強く、揺らぎがなかった。
シュリは驚いたように瞬きしたが、すぐに深く頭を下げた。
「かしこまりました」
ユウの青い瞳には、怒りでも悲しみでもなく、ーー“向き合う覚悟”だけが宿っていた。
次回ーー明日の20時20分
戦後の混乱を、冷たい数字で切り分けるイーライ。
そのもとに届いた呼び出し――ユウ。
再び向き合う姫と家臣。
静かな対峙の中で、ついに明かされる真実。
「あの手紙を進言したのは――私です」
張りつめた沈黙の中、
三姉妹の前で、イーライは“覚悟”を口にする。




