口づけはしたのか?
翌朝、シュリは稽古場である馬場へ向かった。
ーーもうすぐ二月なのに。ここの土地は雪が降らないな。
外套の襟を立て、木剣を握り直す。
素振りを繰り返すうちに身体が熱くなり、外套を脱いだ。
「シュリ、今朝も熱心だな」
のんびりとした声が馬場に響く。
振り返ると、赤い髪を風に揺らすリチャードが、思わせぶりな笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます、リチャード様」
シュリは深々と頭を下げた。
「リチャードでいい」
リチャードは手をひらひら振る。
「セーヴ城攻めに参加されていないのですね」
城の兵の大半がセーヴ城攻めに出ている。
腕の立つリチャードが参戦していないのは不思議だった。
「あぁ。俺は戦に出るほど信用されてない。最近、鞍替えした領主の次男だからな」
リチャードは軽く笑いながら言う。
シュリは返す言葉が見つからず、わずかに俯いた。
「兵たちは今日帰ってくる。城はしばらく騒がしいぞ」
リチャードは肩をすくめた。
シュリは一礼し、再び素振りを始めた。
「おい、シュリ。見たぞ」
含み笑いの声に、シュリの手がピタリと止まった。
「・・・何が、でしょうか」
ーー嫌な予感。
以前も厩でのやり取りを見られた。
「甘酸っぱいな。背中に手を添えるだけなんて」
リチャードは顎をさすりながらニヤついている。
ーーまたしても見られた!!
「な、あれは・・・! 嫁がれたレイ様が戻って来られたので、慰めようと!」
顔を真っ赤にしてどもるシュリ。
「俺はただ、甘酸っぱいと言っただけだが?」
ひやかすような声に返事ができず、シュリは黙り込んだ。
「ほら、一戦やろう」
リチャードは木剣をポンポンと叩き、挑発するように笑う。
シュリは息を整え、「承知しました」と答えた。
木剣と木剣がぶつかるたび、鋭い音が朝の空気を裂く。
互いの間合いが一歩も詰まらず、押しても引いても均衡が崩れない。
ーー隙がない。
組み合いながら、リチャードは内心舌を巻いた。
ーーこんな男が乳母子だと?
戦に出られぬのは理不尽だ。
少し揺さぶってみるか。
「ところで、シュリよ」
木剣を振りながら、わざと軽い口調で問いかける。
「もう、口づけはしたのか?」
その瞬間。
シュリの全ての動きが止まった。
リチャードは止まった胸元を、軽く木剣でつつく。
「隙だらけだぞ、シュリ」
ニヤッと笑うリチャード。
慌ててシュリが足元へ斬りかかろうとした瞬間。
「唇は柔らかかったか?」
リチャードが追い打ちをかける。
みるみるうちに、シュリの木剣の勢いが落ちていった。
顔が真っ赤になり、手元は震え、呼吸まで乱れ始める。
ーーやめてください!
声に出せない悲鳴が、喉の奥でかすかに震えた。
「見た目より大胆だな、シュリは」
リチャードはニヤニヤと笑いながら、
闇雲に打ち込むシュリの突きを軽い身のこなしでかわした。
「・・・私は、何も」
シュリにしては珍しく、息が乱れている。
木剣を握る手も、ほんのわずかに震えていた。
「あぁ、もちろんだ。そういうことは、何も知らないに限る」
リチャードはわざとらしく無邪気な声で言った。
その“無邪気さ”は、完全に計算されたものだ。
ーー見透かされている。自分の気持ちを。
胸の奥がズクリと痛んだ。
そんなに自分は分かりやすいのか。
動揺をごまかすために、シュリはふっと息を吐いて木剣を下げた。
「唇を重ねただけか?」
リチャードは、わざと距離を詰めて――耳元に低く囁いた。
「え・・・?」
シュリは息を止める。
声が耳の奥で弾け、胸が妙にざわついた。
リチャードは目を細める。
「そうか。・・・舌を入れたんだな?」
大胆すぎる質問に、シュリの呼吸が止まった。
「っ・・・!」
表情が固まるのを見て、リチャードはゆっくり口角を上げた。
「・・・本当にわかりやすいな、お前は」
挑発というより、観察者のような冷静さで笑う。
シュリは黙って俯くことにした。
これ以上口を開けば、どこかが綻びてしまう。
ーー知らぬ、存ぜぬで通す。
それが今の自分にできる唯一の防御。
すると、リチャードが木剣を肩に担ぎ、軽く首を傾けた。
「そんな一本調子じゃ、相手は物足りなくなるぞ」
「・・・え?」
思わずシュリは顔を上げてしまった。
リチャードはわざと真面目な顔で続ける。
「ただ唇を重ねて、舌を入れるだけじゃ駄目だ。もっと“愛情”を伝えなくてはな」
「・・・あ、あいじょう?」
声が明らかに裏返る。
シュリの耳まで赤く染まっていくのを、リチャードは面白そうに眺めていた。
「あぁ、そうだ」
リチャードは木剣の先で軽く地面を突き、にやりと笑った。
「唇だけでは足りん。髪を撫でたり、頬や耳に口づけたり・・・」
わざと間を置き、声を低く落とす。
「首にも、だ。」
シュリは一瞬、動きを忘れた。
「・・・そんなところも、するのか・・・?」
自分でも驚くほど小さい声だった。
思ったことがそのまま漏れてしまう。
ーーそんなこと、考えたこともなかった。
リチャードは面白そうに眉を上げる。
「おや? 本当に知らんのだな」
わざとらしくため息をつきながら、木剣を肩に担いだ。
「女を知らぬ乳母子殿に、ナノ領当主の次男である俺が、アドバイスを授けてやったんだ」
妙に真面目な顔つきで言うものだから、余計にシュリは顔が熱くなった。
リチャードはその様子をしっかりと目に焼きつけるように笑った。
「どうだ、シュリ。休暇の日にでも一緒に花街へ行かないか。お前の顔なら、そりゃあチヤホヤされるぞ」
リチャードは気軽にシュリの肩へ手を置いた。
「・・・は?」
呆れと怒りと困惑が混ざった声が、馬場に響いた。
リチャードはさらに追い討ちをかけるように、口元をゆるく吊り上げる。
「手慣れた遊女もいる。そこで一から教わってこい。本番で困らないようにな」
「結構です!」
顔を真っ赤にしながら、シュリは木剣を納めた。
ーーもう、そろそろ持ち場に戻る時間だ。
立ち去ろうとすると、背中からため息混じりの声が落ちてきた。
「乳母子殿は、高潔にもほどがあるな。その調子じゃ・・・死ぬまで女を知らずに終わるぞ」
シュリはぴたりと足を止めた。
ゆっくり、深呼吸をして――振り向かない。
「・・・余計なお世話です」
短くそう返して歩き出すが、耳まで真っ赤なのは隠せなかった。
リチャードはその背中を見送りながら、勝ち誇ったようにニヤッと笑う。
「まぁ・・・うまく誤魔化して、上手にやることだな」
リチャードは木剣についた土を布で拭い落としながら、軽く呟いた。
その声音は軽いのに、言っている内容は妙に核心を突いている。
シュリは言葉を失い、わずかに目をそらす。
ーー誤魔化して、上手に。
そんな器用なことが、どうして自分にできるだろうか。
リチャードはふっと鼻で笑い、続けた。
「安心しろよ。俺は“外れ者”だ。人質で、信用なんて誰からもない。余計なことは、誰にも話さない」
その言葉に、シュリの喉がかすかに鳴る。
リチャードは木剣を肩に担ぎ、ほんの少しだけ真剣な瞳でシュリを見た。
「お前のことを言いふらして面白がるほど、俺は暇じゃないさ」
気取らない調子なのに、その言葉だけはどこか温度があった。
シュリは息をつめ、ほんの一言だけ搾り出した。
「・・・ありがとうございます」
それしか言えなかった。
リチャードは振り返らず、手をヒラリと振った。
「おう。今日のところはこれぐらいで勘弁してやる。
次は、ちゃんと剣に集中できるようになっとけよ?」
その背中を見送りながら、シュリはぎゅっと木剣を握りしめた。
ーー誤魔化せ、と言われても。
ユウ様の前では、そんなに器用に振る舞うことなどできない。
いつでも、本気で向き合うことしかできない。
そんな思いが胸の奥に熱くこもっていた。
だがシュリはまだ知らなかった。
その“本気で向き合おうとする不器用さ”こそが、
後にユウの心を大きく揺らすことになるなど――。
次回ーー本日の20時20分
兵の帰還とともに明かされる、
ノアが選んだ“裏切り”の真実。
そして、偽りの手紙を書いたイーライを
ユウはついに呼び出す。
逃げずに向き合う覚悟が、
新たな波紋を城に広げていく――。




