妹を抱きしめた夜、姉は決意した――あの子を守るためなら何でもする
冷たい風がふたりの間を静かに抜けていった。
涙を落としたあと、ユウはそっと顔を上げる。
目の前には――穏やかで澄んだ、シュリの茶色の瞳。
幼い頃から、どんなときも寄り添ってくれた乳母子。
父を失った日も、母を失った日も、
そして今、妹が傷ついて戻ってきた悔しさの中でも――
救ってくれたのは、いつもこの眼差しだった。
ただ、昔と違うのは。
ーー私もシュリも、もう“子ども”のままではいられないということ。
見つめ合えば胸が熱くなる。
頬に血がのぼる。
こんな悲しい時こそ、
シュリに甘えて、抱きしめられたいと願ってしまう自分がいる。
その気持ちが怖かった。
ユウはそっとシュリから身を離した。
「・・・ごめんね」
気持ちが透けてしまいそうで、顔を見られなかった。
「いえ・・・大丈夫です」
掠れた声で返すシュリ。
その声が痛いほど優しくて――余計に胸が締めつけられる。
ユウは自分の涙を指でぬぐい、静かに息を整えた。
「・・・レイのところに行かなくては」
そう言って立ち上がったユウの背中は、
さっきより少しだけ強く、まっすぐだった。
◇
自室へ戻る頃には、怒りは鎮まり、代わりに深い沈黙だけが表情に残っていた。
ヨシノがそっと扉を開ける。
部屋では、レイが椅子に座ったまま憔悴しきっており、
その隣でウイが寄り添うように肩を抱いていた。
ウイが振り返り、安堵と不安が混じった顔でユウを見つめる。
傷ついた妹にどう対応して良いのかわからない。
救いを求めるように、ウイはユウを見つめた。
ユウは何も言わず歩み寄り、
レイの足元に静かにしゃがみ込んだ。
「姉上・・・」
レイの震えた声がこぼれる。
ユウはそっとレイの頬を包んだ。
その瞳にはただ妹を思う強い光だけが宿っていた。
「レイ。あなたを・・・守れなくて、ごめんね」
かすかに震える声。
レイはぶんぶんと首を振る。
「そんな・・・! 姉上は、何も悪くありません・・・」
「レイ。・・・そして、ウイも」
ユウは振り向き、隣のウイの手までもそっと握った。
ウイの瞳が揺れる。
「次は必ず――私があなたたちを守るわ。何があっても。絶対に」
その言葉は決意ではなく、誓いだった。
ユウは二人の妹をそっと抱き寄せた。
三姉妹は互いの肩を寄せ合い、しばし静かに抱きあった。
日が落ちた外では風が鳴り、中庭の木が揺れていた。
この瞬間だけは、
どんな政治も、領地も、戦も、すべてが遠く消えていった。
三姉妹はただ、互いの温もりだけでつながっていた。
カチッ。
扉の小窓が開き、ヨシノが慌てて扉を引いた。
次の瞬間――ミミが静かに姿を現した。
◇
「ミミ様!」
ユウが弾かれたように立ち上がり、レイもウイも思わず背筋を伸ばす。
だがミミの視線は、彼女たちより先に“部屋そのもの”をゆっくり見渡した。
その眼差しには、驚きとも困惑ともつかぬ色が浮かんでいた。
この部屋は異様だった。
庇護を受ける姫の私室としては、あまりに過剰すぎた。
壁は無駄に分厚く、外へ一切の声を漏らさぬよう造られている。
広さも、他の姫部屋の三倍はある。
少女が使うには不釣り合いなほど、広大だった。
寝室に占めるのは、成人した妃が使うような巨大な天蓋付き寝台。
奥には、浴室さえ造り付けられている。
まるで “少女ユウを妃として囲うために設えた部屋” のように。
ミミの瞳が、わずかに揺れる。
そして――その揺れは、確かな“理解”へと変わった。
ーーキヨが、この子のために造らせた部屋なのね。
その空気に、シュリがいち早く気づき、背筋を伸ばす。
ーーまずい。
ミミは部屋をぐるりと見回し、最後にユウの姿へ視線を戻した。
その眼差しは優しさを湛えながらも、底のどこかが震えていた。
ユウは思わず背筋を伸ばす。
ーーこの部屋は自ら望んで入ったものではない。
けれど、この異様な造りを見たミミ様なら、きっと気づいたはず。
あの男が、何を考えてこの部屋を“与えた”のかを。
ミミはまぶたを閉じ、開き、ゆっくりと口を開く。
「・・・レイ様」
優しく名前を呼ぶ声の奥に、深い痛みが潜んでいた。
ミミは三姉妹のそばに歩み寄り、静かに腰を折った。
「夫の代わりに、お詫び申し上げます。この度は・・・本当に、辛かったですね」
その声も、表情も、まるごと包み込むような優しさだった。
それこそが、多くの妾たちがミミを慕う理由でもある。
「いえ・・・仕方のないことです」
レイは静かに頭を下げる。
その大人びた姿を見た瞬間、ユウはハッとする。
「ミミ様・・・どうか、お席へ」
慌てて椅子を勧めると、乳母たちも気を利かせてお茶の支度を始める。
三姉妹が席についたあと、ミミは穏やかに、しかし核心を突く声で問いかけた。
「レイ様、お子を宿してはいませんか?」
その一言が部屋を静まり返らせた。
ウイは目を丸くし、ヨシノは息を呑んで立ち尽くす。
ユウは心臓が跳ねる。
ーー本当は自分が聞かなければならなかったのに。
でも聞けなかった。怖くて。
答えが怖くて。
レイは黒い瞳を落とし、静かに言った。
「・・・そういう営みは、ありませんでした」
その答えを聞いた瞬間、ユウは身体から力が抜けた。
ーー良かった。
ミミはゆっくりと頷いた。
「そう・・・なのですね」
そして――その次のレイの言葉が、ユウの胸を鷲掴みにする。
「・・・でも、私は・・・セージ様と、結ばれたかったです」
その声は震えていたが、真っ直ぐだった。
ユウは幼い妹の横顔をじっと見つめた。
ーーいつの間に。
いつの間に、レイはこんなにも大人になってしまったのだろう。
自分より小さかった背中。
泣き虫だった幼い声。
助けを求めて手を握りしめてきた温もり。
そのすべてが、今のレイの言葉に押し流されていく。
ユウの胸は、痛みと、どうしようもない切なさでいっぱいになった。
レイの告白に、ユウは言葉を失ったまま動けなかった。
だが――ミミは違った。
レイの震える声を真正面から受け止め、静かに優しく頷いた。
「・・・そうですよね。ご結婚なさったのなら、結ばれたいと思うのは、あたりまえのことですよ」
その声には、責める色は一切なかった。
ミミはそっと椅子を立ち、レイのそばへ歩み寄る。
そして、細い肩をそっと抱きしめた。
温かく、ささやくように。
「レイ様。つらかったでしょうね」
レイは小さく震え、ミミの胸元に顔を寄せた。
その光景を見つめながら、ユウの胸に、言葉にできない感情が渦巻く。
ーー敵わない。
自分にはできなかった。
結婚も知らず、男と結ばれた経験もない。
そんな自分が、妹の痛みをどう慰めればいいのかすらわからない。
けれどミミは、それを分かった上でここに来てくれた。
レイが最も求めていた“年長の女性としての温かさ”を与えに。
ユウは胸を押さえる。
嫌い抜いている男――キヨの妻。
そのはずなのに。
ミミという人は、どうしてこんなにも優しいのだろう。
その優しさは、救いであると同時に、
ーー逃れられない鎖のようでもあった。
自分の心を縛る鎖。
キヨという男と、決して切り離せない存在。
ユウは、切なさを飲み込みながら、静かに視線を落とした。
◇
ミミが去ったあと、部屋に静けさが戻った。
レイはまだ目元を赤くしていたが、
さっきまでの張りつめた緊張は薄れ、表情がいくらか明るくなっていた。
「・・・姉上。この部屋、すごく豪華だね」
ぽつりとこぼした言葉に、レイがやっと周囲を見る余裕を取り戻したことが分かる。
ユウが答えようとしたが、先にウイが口を開いた。
「レイ、後で私たちの部屋も案内するわ。この部屋の半分どころか、三分の一くらいよ」
「私だって、こんな部屋望んでないわよ」
ユウがむすっと呟く。
その言い方がおかしかったのか、レイの口元に小さな笑みが落ちた。
「・・・今日は、姉上と一緒に寝る」
そう言うレイの顔は、嫁ぐ前の幼い妹の表情に戻っていた。
「私も!」
ウイが勢いよく手をあげる。
「三人で寝たら・・・狭くない?」
レイが不思議そうに首を傾げると、
「姉上の寝台、やたら広いのよ!三人でも余裕で寝られる!」
ウイが声を弾ませながら答えた。
言い終えると、ウイはそっとユウの顔色をうかがうようにちらりと見上げた。
「姉上、いい?」
ユウは柔らかく微笑んだ。
「もちろんよ」
その瞬間――レイもウイも、一気に表情がほどけた。
ーーまるで昔に戻ったみたい。
また、三姉妹で同じ夜を過ごせるなんて。
「レイ、じゃあ支度をしましょう!」
「はい!」
二人は勢いよく立ち上がり、まるで子供に戻ったかのように部屋を飛び出していった。
二人が部屋を出ていったあと、ユウはヨシノにそっと声をかけた。
「寝台を整えてくれる?」
「もちろんです」
ヨシノはほっとしたように微笑み、寝室へ向かった。
部屋に残ったのは、ユウとシュリだけ。
シュリが静かに口を開く。
「レイ様、少し落ち着かれたようで。良かったですね」
「そう・・・ね」
ユウは短く答えると、ゆっくりと立ち上がり、テラスに続く窓へ歩いた。
冷たい風が、すっと室内に流れ込む。
冬の庭は、影だけが落ちていて、
その先に広がる静寂を見つめながら、ユウはぽつりと呟いた。
「・・・あの子たちを守るためなら・・・私は、なんでもする」
その一言を聞いた瞬間、シュリの背筋を、説明のつかない悪寒が走った。
体調のせいでも、風の冷たさのせいでもない。
もっと曖昧で、もっと胸の奥をひきつらせる“予感”だった。
ーーユウ様は、妹たちのためなら、自分を犠牲にしてしまう。
その未来が、薄く見えた気がした。
「・・・冷えますよ」
かすかに上ずった声でそう告げ、シュリはそっと窓を閉めた。
外では、細く凍るような三日月が雲の影に飲まれていく。
長く、重く、混乱に満ちた一日がようやく終わろうとしていた。
レイが戻った夜は、こうして静かに幕を閉じた。
メリークリスマス。イブの夜にテンプレ外の小説を読んでくれるあなたに感謝。
次回ーー明日の9時20分
稽古場で剣を振るシュリに、
リチャードの軽い言葉が突き刺さる。
見透かされ、揺さぶられ、誤魔化すしかない想い。
だがその不器用な本気が、
やがてユウの心を大きく揺らすことになる――




