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好きだった ーあの日、信頼が崩れ落ちたー

ユウとシュリが部屋を出たあと、執務室には嘘のような静寂が落ちた。


ミミは唇を震わせ、俯いたまま動かない。

キヨは小さくため息をつき、ぽつりと独り言のように漏らした。


「また、ユウ様に嫌われてしまった」


レイへの哀れみなど、一つもない。

むしろ彼の胸にあったのは別の感情だった。


ーー新しい駒が戻った。さて、どの領主に嫁がせるか。


「イーライ、これから帳簿書きの準備をするぞ」

サムの声が静寂を破る。


「はっ」

イーライは深く頭を下げた。



戦が終わると、イーライの仕事は増える。


その前に、サムを中心に数人の家臣が集まり、消耗の確認を行う。


執務室の隣室に広げられる無数の帳簿。


矢は何束失われたか。

兵糧はどれだけ減ったか。

馬は何頭潰れたか。


各隊の報告を照らし合わせ、争い後に数字に誤差があれば即座に正す。


イーライのペンは常に迷いなく、正確で、冷静だった。


その緻密さに、戦士たちは苦い顔をする。


キヨが彼を重宝する理由は、誰よりも数字に忠実だからだった。


だが今日は違った。


ペンの先は何度も止まり、簡単な計算でさえミスが出る。


紙の上の数字が、にじんで見える。


サムはそっとイーライの肩に手を置いた。


「イーライ。少し休め。働きすぎだ」


「・・・いえ」

長いまつ毛を伏せたまま、イーライは首を横に振る。


もう一度ペンを取り、帳簿へ向き直った。


サムはその姿を見つめ、静かに言った。


「・・・お前は、よくやった」


それだけで、何を指しているのか分かった。


レイへの手紙。


嘘をついてまで守ろうとした判断。


「・・・ありがとうございます」


イーライは小さく、絞るように答えた。


「・・・」


しばらく沈黙が落ちる。


そして。


「・・・私は・・・ユウ様に、嫌われてしまいました」


その言葉が自分の口からこぼれ落ちた瞬間、

イーライ自身が一番驚いた。


ーー弱音など吐くつもりはなかったのに。


それなのに。


ユウが見せた、あの怒りに満ちた眼差し。


決してこちらを見ようとしない横顔。


思い出すだけで、胸がじくじくと痛んだ。


サムは、父のような眼差しでイーライの背を支えた。


「・・・イーライ。ユウ様は、お前を嫌ったわけではない」


イーライは返事をしなかった。


ただ、静かにペンを握りしめた。


震える指先を、帳簿の数字が淡く照らしていた。


「・・・私は・・・もう、これからユウ様にお茶に呼ばれることはないのでしょう」


ぽつりと落ちたその言葉に、サムは息を呑んだ。


イーライは震える指先で帳簿を押さえ、視線を落としたまま続ける。


ーー好きだった。


あの方のためにお茶を淹れる時間が。


湯気の向こうで、ユウ様が微笑まれるのを見るのが。


声がかすかに震えた。


「『美味しい』と・・・あの方が、ほんの少しだけ緩む顔が・・・」

唇をきゅっと結び、イーライは目を閉じた。


「信頼していただいていた、と・・・錯覚でも、思っていたのです」


自分でも気づいていなかった感情が、

ひび割れた器の底から溢れ出すように言葉になっていく。


「・・・でも失いました」


今にも崩れ落ちそうな肩が、細かく震えている。


サムは無言でその背に大きな手を置いた。


まるで折れそうな枝をそっと支えるように。


責めも叱りもせず、ただ、そばに立つ。


「・・・イーライ。ユウ様は、お前の心を見ておられるはずだ」


そう告げるサムの声は、父のように温かかった。


その言葉にイーライは、唇を噛み締めた。


押し寄せてきた喪失感に飲み込まれそうになりながらも、

かろうじて座った姿勢を保っていた。




回廊を、ユウは怒りと悲しみを背に滲ませながら足早に歩いていた。


足音が石床に響くたび、胸の奥に渦巻く感情もざわつく。


その背中を、シュリは黙って見つめていた。


このまま部屋へ戻れば――レイ様がいる。


ユウの肩が強く揺れた瞬間、

後ろを歩いていたシュリは静かに決断した。


「ユウ様」

小さく名前を呼ぶ。


ユウは歩みを止めず、ただ視線だけを前に向けたまま。


シュリはそっと歩調を合わせ、柔らかな声で続ける。


「少し・・・こちらでお話ししませんか」


その提案と同時に、

回廊の横に広がる中庭から、やわらかな風が吹き込んだ。


白い石畳の向こう、緑の芝が広がる静かな庭――

そして、そこにひっそり置かれた木製のベンチ。


回廊の柱越しに、そのベンチは半ば影に包まれ、

人目から離れた小さな避難場所のように佇んでいた。


ユウは足を止め、ほんのわずかに息を吐く。


シュリは、その沈黙を“了承”と受け取り、先に歩み出す。


「ここなら・・・ユウ様のお気持ちを、少し落ち着けていただけると思います」


中庭からの風が、ユウの金の髪を揺らした。


その揺れは微かに震えていて、

シュリは胸の奥がちくりと痛んだ。


ユウは、ベンチの端にそっと腰を下ろした。


「・・・シュリ、隣に」


視線はまっすぐ前。

声だけが、かすかに震えていた。


「はい」


控えめに、けれど迷いなく、シュリはユウの隣へ腰を下ろした。


中庭から吹き込む冷たい風が、二人の間を通り抜けていく。


しばらく、ただ沈黙。


その静けさの中で――

ユウはようやく、押し殺していた言葉をこぼした。


「・・・悔しいわ」


その声は壊れそうに細く、けれど、その奥には凛とした痛みがあった。


シュリはすぐに言葉を返せなかった。


今のユウには、浅い慰めなど、どれほど無力かを知っていたから。


ユウは膝の上で握った手を、ほんの少し震わせた。


「どうして・・・女は、思う通りに生きられないの」


風が、ユウの金髪を揺らした。


その横顔には涙はない。

ただ、深い怒りと悲しみと、

どうしようもない悔しさが、薄く滲んでいた。


シュリはゆっくりと息を吸い込む。


「ユウ様が悔しいと感じるのは、その道が、間違っていない証だと・・・私は思います」


それが慰めではなく、ただの“真実”として届くように。


「・・・誰よりも守りたかったのに。母上に託されたのに」


ユウの声は細く震え、その震えの奥に押し殺した涙がにじんでいた。


ーー泣いている。


すぐ横に座るシュリには、それが痛いほどわかった。


けれどユウは、まっすぐ前を見つめたまま、決して視線を落とさない。


泣いている顔を見られる――

それがユウが最も嫌うことだと、シュリは知っていた。


だからこそ、静かに、そっと言葉だけを寄り添わせる。


「ユウ様のお気持ちは、私が・・・誰よりも知っています」


そう告げた瞬間だった。


ふいに、ユウが横に身体を寄せ、シュリの肩に顔を埋めた。


「・・・ユウ、様・・・?」


ーー近い。


一瞬、呼吸が止まった。


目の前には、ユウの金の髪。


一本一本が光を帯びて揺れ、そこからふわりと、淡い甘い香りが立ちのぼる。


その香りに、思わず心臓が強く跳ねた。


ーー抱きしめたい。


胸の奥から、衝動がゆっくりせり上がる。


けれど、同時に理性が鋭く警鐘を鳴らす。


ーー落ち着け。ここは城の中だ。

兵は多くが出陣しているとはいえ、誰が見ているか分からない。

姫と乳母子が抱き合っていたら・・・それだけで一大事。


シュリは、自らの腕がユウを抱こうと動く前に、その衝動を必死に押しとどめた。


代わりに――そっと、左手だけをユウの背に添える。


震える背中に、ただ手のひらを置くだけ。


これが、姫と乳母子として許される“ぎりぎりの境界線”だった。


ユウはその背に触れた手に、わずかに体重を預けた。


すすり泣く音はしない。

ただ、肩がほんの少し震えていた。


シュリは静かに息を整えながら、その震えを自分ひとりで受け止め続けた。


ひとときの静寂が流れる。


その光景は、回廊の壁に並ぶ窓のひとつから――静かに見られていた。



重い足音を殺して歩いていたリチャードは、

ふと外に視線を向け、そこで足を止めた。


「・・・ほう」


中庭のベンチ。


寄り添うふたりの影、重なりそうで重ならない距離。


手を伸ばせば抱きしめてしまいそうな、ぎりぎりのライン。


ユウの金の髪がシュリの肩に触れ、

その背を支えるシュリの指は、今にも震え出しそうなほど慎ましかった。


その一瞬一瞬が、

誰かに知られてはならない種類の光景だった。


リチャードは、窓辺に寄りかかり、喉の奥で小さく笑った。


「・・・なるほどねぇ」


低く、含みを持った声。


唇の端をわずかに上げた。


「・・・面白い」


そして、ゆっくりとその場を離れる。


彼の足取りは軽く――しかし目の奥は、鋭く光っていた。


彼が見たのは、

“誰にも見せてはいけない絆の形”だった。


その秘密を、リチャードだけがひっそりと手にした。


次回ーー明日の20時20分

「あの子たちを守るためなら、私はなんでもする」


三姉妹が寄り添った夜、

ユウの胸に芽生えたのは“守る”という誓いだった。


けれどその言葉は、

シュリの胸に拭えぬ予感を落とす。


――その覚悟は、

いずれユウ自身を犠牲にするものではないのか。


静かな夜の底で、

運命はすでに、次の一手を選び始めていた。

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