好きだった ーあの日、信頼が崩れ落ちたー
ユウとシュリが部屋を出たあと、執務室には嘘のような静寂が落ちた。
ミミは唇を震わせ、俯いたまま動かない。
キヨは小さくため息をつき、ぽつりと独り言のように漏らした。
「また、ユウ様に嫌われてしまった」
レイへの哀れみなど、一つもない。
むしろ彼の胸にあったのは別の感情だった。
ーー新しい駒が戻った。さて、どの領主に嫁がせるか。
「イーライ、これから帳簿書きの準備をするぞ」
サムの声が静寂を破る。
「はっ」
イーライは深く頭を下げた。
◆
戦が終わると、イーライの仕事は増える。
その前に、サムを中心に数人の家臣が集まり、消耗の確認を行う。
執務室の隣室に広げられる無数の帳簿。
矢は何束失われたか。
兵糧はどれだけ減ったか。
馬は何頭潰れたか。
各隊の報告を照らし合わせ、争い後に数字に誤差があれば即座に正す。
イーライのペンは常に迷いなく、正確で、冷静だった。
その緻密さに、戦士たちは苦い顔をする。
キヨが彼を重宝する理由は、誰よりも数字に忠実だからだった。
だが今日は違った。
ペンの先は何度も止まり、簡単な計算でさえミスが出る。
紙の上の数字が、にじんで見える。
サムはそっとイーライの肩に手を置いた。
「イーライ。少し休め。働きすぎだ」
「・・・いえ」
長いまつ毛を伏せたまま、イーライは首を横に振る。
もう一度ペンを取り、帳簿へ向き直った。
サムはその姿を見つめ、静かに言った。
「・・・お前は、よくやった」
それだけで、何を指しているのか分かった。
レイへの手紙。
嘘をついてまで守ろうとした判断。
「・・・ありがとうございます」
イーライは小さく、絞るように答えた。
「・・・」
しばらく沈黙が落ちる。
そして。
「・・・私は・・・ユウ様に、嫌われてしまいました」
その言葉が自分の口からこぼれ落ちた瞬間、
イーライ自身が一番驚いた。
ーー弱音など吐くつもりはなかったのに。
それなのに。
ユウが見せた、あの怒りに満ちた眼差し。
決してこちらを見ようとしない横顔。
思い出すだけで、胸がじくじくと痛んだ。
サムは、父のような眼差しでイーライの背を支えた。
「・・・イーライ。ユウ様は、お前を嫌ったわけではない」
イーライは返事をしなかった。
ただ、静かにペンを握りしめた。
震える指先を、帳簿の数字が淡く照らしていた。
「・・・私は・・・もう、これからユウ様にお茶に呼ばれることはないのでしょう」
ぽつりと落ちたその言葉に、サムは息を呑んだ。
イーライは震える指先で帳簿を押さえ、視線を落としたまま続ける。
ーー好きだった。
あの方のためにお茶を淹れる時間が。
湯気の向こうで、ユウ様が微笑まれるのを見るのが。
声がかすかに震えた。
「『美味しい』と・・・あの方が、ほんの少しだけ緩む顔が・・・」
唇をきゅっと結び、イーライは目を閉じた。
「信頼していただいていた、と・・・錯覚でも、思っていたのです」
自分でも気づいていなかった感情が、
ひび割れた器の底から溢れ出すように言葉になっていく。
「・・・でも失いました」
今にも崩れ落ちそうな肩が、細かく震えている。
サムは無言でその背に大きな手を置いた。
まるで折れそうな枝をそっと支えるように。
責めも叱りもせず、ただ、そばに立つ。
「・・・イーライ。ユウ様は、お前の心を見ておられるはずだ」
そう告げるサムの声は、父のように温かかった。
その言葉にイーライは、唇を噛み締めた。
押し寄せてきた喪失感に飲み込まれそうになりながらも、
かろうじて座った姿勢を保っていた。
◇
回廊を、ユウは怒りと悲しみを背に滲ませながら足早に歩いていた。
足音が石床に響くたび、胸の奥に渦巻く感情もざわつく。
その背中を、シュリは黙って見つめていた。
このまま部屋へ戻れば――レイ様がいる。
ユウの肩が強く揺れた瞬間、
後ろを歩いていたシュリは静かに決断した。
「ユウ様」
小さく名前を呼ぶ。
ユウは歩みを止めず、ただ視線だけを前に向けたまま。
シュリはそっと歩調を合わせ、柔らかな声で続ける。
「少し・・・こちらでお話ししませんか」
その提案と同時に、
回廊の横に広がる中庭から、やわらかな風が吹き込んだ。
白い石畳の向こう、緑の芝が広がる静かな庭――
そして、そこにひっそり置かれた木製のベンチ。
回廊の柱越しに、そのベンチは半ば影に包まれ、
人目から離れた小さな避難場所のように佇んでいた。
ユウは足を止め、ほんのわずかに息を吐く。
シュリは、その沈黙を“了承”と受け取り、先に歩み出す。
「ここなら・・・ユウ様のお気持ちを、少し落ち着けていただけると思います」
中庭からの風が、ユウの金の髪を揺らした。
その揺れは微かに震えていて、
シュリは胸の奥がちくりと痛んだ。
ユウは、ベンチの端にそっと腰を下ろした。
「・・・シュリ、隣に」
視線はまっすぐ前。
声だけが、かすかに震えていた。
「はい」
控えめに、けれど迷いなく、シュリはユウの隣へ腰を下ろした。
中庭から吹き込む冷たい風が、二人の間を通り抜けていく。
しばらく、ただ沈黙。
その静けさの中で――
ユウはようやく、押し殺していた言葉をこぼした。
「・・・悔しいわ」
その声は壊れそうに細く、けれど、その奥には凛とした痛みがあった。
シュリはすぐに言葉を返せなかった。
今のユウには、浅い慰めなど、どれほど無力かを知っていたから。
ユウは膝の上で握った手を、ほんの少し震わせた。
「どうして・・・女は、思う通りに生きられないの」
風が、ユウの金髪を揺らした。
その横顔には涙はない。
ただ、深い怒りと悲しみと、
どうしようもない悔しさが、薄く滲んでいた。
シュリはゆっくりと息を吸い込む。
「ユウ様が悔しいと感じるのは、その道が、間違っていない証だと・・・私は思います」
それが慰めではなく、ただの“真実”として届くように。
「・・・誰よりも守りたかったのに。母上に託されたのに」
ユウの声は細く震え、その震えの奥に押し殺した涙がにじんでいた。
ーー泣いている。
すぐ横に座るシュリには、それが痛いほどわかった。
けれどユウは、まっすぐ前を見つめたまま、決して視線を落とさない。
泣いている顔を見られる――
それがユウが最も嫌うことだと、シュリは知っていた。
だからこそ、静かに、そっと言葉だけを寄り添わせる。
「ユウ様のお気持ちは、私が・・・誰よりも知っています」
そう告げた瞬間だった。
ふいに、ユウが横に身体を寄せ、シュリの肩に顔を埋めた。
「・・・ユウ、様・・・?」
ーー近い。
一瞬、呼吸が止まった。
目の前には、ユウの金の髪。
一本一本が光を帯びて揺れ、そこからふわりと、淡い甘い香りが立ちのぼる。
その香りに、思わず心臓が強く跳ねた。
ーー抱きしめたい。
胸の奥から、衝動がゆっくりせり上がる。
けれど、同時に理性が鋭く警鐘を鳴らす。
ーー落ち着け。ここは城の中だ。
兵は多くが出陣しているとはいえ、誰が見ているか分からない。
姫と乳母子が抱き合っていたら・・・それだけで一大事。
シュリは、自らの腕がユウを抱こうと動く前に、その衝動を必死に押しとどめた。
代わりに――そっと、左手だけをユウの背に添える。
震える背中に、ただ手のひらを置くだけ。
これが、姫と乳母子として許される“ぎりぎりの境界線”だった。
ユウはその背に触れた手に、わずかに体重を預けた。
すすり泣く音はしない。
ただ、肩がほんの少し震えていた。
シュリは静かに息を整えながら、その震えを自分ひとりで受け止め続けた。
ひとときの静寂が流れる。
その光景は、回廊の壁に並ぶ窓のひとつから――静かに見られていた。
◆
重い足音を殺して歩いていたリチャードは、
ふと外に視線を向け、そこで足を止めた。
「・・・ほう」
中庭のベンチ。
寄り添うふたりの影、重なりそうで重ならない距離。
手を伸ばせば抱きしめてしまいそうな、ぎりぎりのライン。
ユウの金の髪がシュリの肩に触れ、
その背を支えるシュリの指は、今にも震え出しそうなほど慎ましかった。
その一瞬一瞬が、
誰かに知られてはならない種類の光景だった。
リチャードは、窓辺に寄りかかり、喉の奥で小さく笑った。
「・・・なるほどねぇ」
低く、含みを持った声。
唇の端をわずかに上げた。
「・・・面白い」
そして、ゆっくりとその場を離れる。
彼の足取りは軽く――しかし目の奥は、鋭く光っていた。
彼が見たのは、
“誰にも見せてはいけない絆の形”だった。
その秘密を、リチャードだけがひっそりと手にした。
次回ーー明日の20時20分
「あの子たちを守るためなら、私はなんでもする」
三姉妹が寄り添った夜、
ユウの胸に芽生えたのは“守る”という誓いだった。
けれどその言葉は、
シュリの胸に拭えぬ予感を落とす。
――その覚悟は、
いずれユウ自身を犠牲にするものではないのか。
静かな夜の底で、
運命はすでに、次の一手を選び始めていた。




