あなたを迎えに行くはずだったのに
レイの馬車が城を出て、数時間後。
セーヴ城には、これまでにない緊張が漂い始めていた。
家臣のひとりが、息を切らしながら廊下を駆けてくる。
「せ、セージ様!!」
執務室で軍議の準備をしていたセージは、
ただならぬ空気に顔を上げた。
「どうした?」
家臣は膝をつき、荒い呼吸のまま報告する。
「ト、トミ家の軍勢が!セーヴ城の周囲を――取り囲んでおります!!」
空気が一瞬にして凍りつく。
「何だと?」
信じがたい、というようにセージの青い瞳が大きく揺れた。
「その数、数百・・・いえ、それ以上。山側の道にも、西の街道にも兵が!」
「馬鹿な・・・レイは今サカイへ向かっている。なぜ、この時に!」
家臣は震える声で首を振った。
「わかりません・・・!」
廊下の外では家臣たちのざわめきが広がり、急ぎ足で走る音が重なっていく。
「セージ様、城門はどういたしますか!?」
「閉ざせ!城の兵を全員、内郭へ下げるんだ!」
「はっ!」
家臣たちが散り、再び廊下に沈黙が落ちた。
セージは拳を握りしめ、窓の外の山並みに視線を向ける。
ーーレイ、本当に無事でいるのか。
胸の奥に重い不安が渦巻いた。
そのとき――コツ、コツ、と静かな足音が響いた。
家臣が扉をそっと開く。
「セージ様・・・お客人が」
「誰だ?」
ほんの一拍の沈黙。
「トミ家の・・・ノア様という方がおひとりで、“面会を求めて” 城門にお立ちです」
ノア――その名は忘れようがない。
先の戦で、殺せる機会がありながら剣を下ろした――あの男。
ーーその男が、今度は“交渉人”として現れたのか。
セージはゆっくりと立ち上がり、外套を羽織った。
「・・・通せ」
低く、静かで、揺るがない声。
「ノア殿と話す」
セージが応接間に向かう廊下に入ると、家臣たちは緊張に押しつぶされそうな表情で道を開けた。
「交渉人はひとりなのか?」
立ち止まって確認すると、家臣はこくりと頷く。
「はい。ノア様は――ただ一人、城門前に立っておられました。
周囲にも兵影は見当たりませんでした」
セージは重く息を吐き、ゆっくりと応接間の扉に手をかけた。
◆
扉を押し開けると、静まり返った部屋の中央にひとりの男が腰掛けていた。
落ち着いた佇まいに、深い緑色の瞳。
その男――ノアは、セージが入った瞬間、すっと立って深く頭を下げた。
「トミ家家臣、ノアと申します」
「・・・セージ・ロスだ」
名乗り合った瞬間、空気がぴん、と張り詰める。
セージは一歩近づき、静かに言葉を落とした。
「この前のことは・・・感謝している」
戦場で、自分の命を奪うこともできたはずの男。
それでもノアは手を止めた。
その恩義は、セージも忘れていなかった。
ノアはわずかに目を伏せる。
「当然のことをしたまでです」
短い沈黙が流れる。
やがて、ノアが静かに口を開いた。
「レイ様は無事、サカイへ向かわれました」
セージの肩がわずかに揺れる。
「本当に、無事なんだな?」
「ええ。レイ様が我らを“見ずに済むように”――今回の出陣は、そう動いております」
ノアの瞳には、偽りの影が一つもなかった。
その言葉が真実だと、セージにも直感でわかった。
ノアは外套の内側から、一通の書状を丁寧に取り出した。
封蝋には、トミ家――キヨの紋章。
ノアは静かに息を整え、まるで自分の胸を刺すように痛む手つきで書状を開いた。
「・・・我が主、キヨ様からの書状です」
セージも家臣も、固唾を飲んでノアを見つめる。
ノアは一文字一文字噛みしめるように読み上げた。
『セージ・ロスの所領、ことごとく没収とする。
加えて、妃レイは実家へ返す。
異議を申し立てること、固く禁ずる』
淡々とした声だったのに、室内の空気は一瞬で凍りついた。
背後で家臣たちがざわめく。
セージの青い瞳が大きく揺れる。
「・・・領地、没収・・・?」
かすれた声だった。
ノアの緑の瞳は、切なげに沈んでいた。
これを伝えるために、どれほどの苦しみを飲み込んできたか――
その痛みが、見る者すべてに伝わるほどだった。
セージは唇を噛みしめる。
「我らがジュン殿に従ったから、か」
その呟きに、家臣たちが一斉に顔を上げる。
「セージ様!」
ひとりが駆け寄り、声を潜めて耳打ちした。
「ここで挫けてはなりません。戦いましょう!」
振り返ると、ほかの家臣たちも思いつめた顔で深く頷いていた。
“戦の覚悟” を宿した目だった。
セージの胸の奥に、熱いものが込み上げる。
彼らは、命を投げ出す覚悟でいる。
ノアが、そっと口を開いた。
声は静かだが、痛いほどの誠意がこもっていた。
「・・・私は、あなたと戦いたくない」
セージが顔を上げると、ノアの瞳がまっすぐ自分を捉えていた。
「この城の周囲には、すでに多くの兵が取り囲んでいます。
勝ち目は・・・ない」
事実だけを告げる声なのに、それは処刑宣告のように重かった。
ノアは続けた。
「セージ様がこの城を立ち退けば・・・家臣たちの命は守られます」
沈黙。
セージの拳が、白くなるほど握りしめられる。
「・・・城を、明け渡せと言うのか」
「はい」
ノアの答えはあまりにも静かだった。
そして――セージの背後から、震える声が響いた。
「私たちは最後まで・・・セージ様を守るために戦います!」
その声に、ほかの家臣たちも一斉に叫ぶように続いた。
応接間は一瞬で戦の前夜のような熱を帯びる。
その中で、
ノアだけが静かに、痛ましいほど真っ直ぐにセージを見つめ続けていた。
“死なないでほしい”
“無駄な血を流さないでほしい”
言葉にはしないその願いが、セージの胸に突き刺さった。
「・・・なぜだ」
セージの声はかすれ、掠れた喉から絞り出されるようだった。
その問いに、ノアは迷いなく一歩、踏み出した。
緑の瞳が、真っ直ぐにセージを射抜く。
「セージ様が戦い――もし死んでしまえば、レイ様が悲しまれます。
それだけは・・・どうしても避けたいのです」
その声音には、武人の強さではなく、痛ましいほどの“祈り”が宿っていた。
ノアは外套の内側から、もう一通の手紙を取り出す。
封蝋も旗印もない。
ただ、一人の男が震える手で書いた文字が綴られた、私的な書状。
「これは・・・私が書いた、個人の書状です」
ノアはそっと差し出した。
「これをお持ちになり西領のジュン様へ、庇護を求めてください」
セージの眉がわずかに動く。
「ジュン様に・・・?」
「はい。私はジュン様と親しいわけではありません。
ですが、かつてシズル領の重臣として仕えていた時、幾度かお顔を合わせました」
ノアは一息吸い、続けた。
「この書状には、セージ様の庇護を願う旨を記しました。
レイ様の夫として、守られるべき方だと、私の名で伝えてあります」
差し出された手紙を見つめるセージの手が、かすかに震える。
「なぜ、そこまでしてくれる?」
その問いは、怒りでも拒絶でもなく、
“信じたくても信じられない” 混乱がにじむ声だった。
トミ家の家臣が、敵であるはずの自分を救おうとする。
そんなことが、あるはずがない。
しかしノアは、その矛盾に苦しむように目を伏せた。
そして――震える声で告げる。
「私は・・・かつて仕えていた主、ゴロク様に託されたのです」
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、忠義と悔恨が深く沈んでいた。
「“セン家の姫様方を、守れ”と」
セージが息を呑む。
「レイ様を――守ること。そして・・・レイ様を悲しませないこと。
そのために私は、あなたの命を守りたいのです」
ノアの声は震えていた。
しかし、その言葉だけは、誰よりも揺るぎなかった。
「どうか・・・生きてください。レイ様を・・・悲しませないために」
応接間の空気は、痛いほど静まり返っていた。
セージの胸に、初めて“逃げてほしい”と願う声が届く。
レイのために。
家臣たちのために。
そして、ノア自身の祈りのために――。
「わかった」
セージは静かに口を開いた。
セージの言葉が沈黙に落ちたあと、背後の家臣たちがさらにざわついた。
「セージ様!!逃げるなど・・・ありえません!」
「我らはここで散ってこそ、忠義を示せます!」
怒り、恐怖、忠義。
いくつもの感情が入り混じり、家臣たちの声は震え、張りつめていた。
セージはゆっくりと振り返った。
青い瞳が、ひとりひとりの顔を確かめるように見つめる。
「お前たち。俺のために死ぬつもりか」
誰もが迷わず頷いた。
涙を浮かべた者ですらいた。
その姿に、胸の奥がきしむほど痛んだ。
そして――セージは、ゆっくりと首を横に振った。
「俺は、生きる」
家臣たちが息を呑む。
「そして――お前たちにも“生きろ”と命じる」
怒号が、喉の奥で止まった。
セージは一歩踏み出し、家臣たちを見回しながら続けた。
「死ぬ覚悟があるのなら――その強さを、今は“生きるため”に使え」
セージの声音は震えていた。
でも、その瞳だけは揺らがない。
「俺を守りたいと言ってくれたなら――一緒に死ぬな。
この城で・・・民のために生きてくれ」
長い沈黙。
家臣たちの肩が、次々と震えて崩れ落ちていった。
「・・・セージ様・・・そんな・・・そんなことを言われては・・・」
「・・・命令だ」
セージは静かに言い切った。
「この城は引き渡す。だが――家臣の命は、ひとりも失わせない」
涙があふれた家臣もいた。
その姿を見て、ノアは静かに目を伏せた。
ーーやはり、この方はレイ様にふさわしい。
ノアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。それが・・・レイ様を一番、守る道です」
こうして、セーヴ城は無血開城へ向けて動き始めた。
ノアは静かに部屋を出た。
セージは机に手をついて深く息を吐く。
胸の奥が、ひどく痛い。
――三日後、レイを迎えに行くはずだった。
レイ。もう逢えないのか。
レイの黒い瞳が脳裏に浮かび、
彼女が最後に言った言葉が、もう一度胸を刺した。
『見舞いから戻ったら・・・夫婦になりましょう』
その未来は――音を立てて、崩れ始めていた。
次回ーー明日の9時20分
キヨから贈られた、六つの櫛。
その中からユウが選んだのは――“雪”。
それは、誰にも語られぬ記憶を呼び覚ます色だった。
穏やかな時間の裏で、
イーライは知ってしまう。
――ロス城、無血開城。
――セージは城を去り、
――レイは、まもなく戻る。
櫛が選ばれた、その同じ日に。
静かな城に、再び火種が運ばれてくる。




