近づく唇、迫る影――ほかの男に近づかないで
ユウが一歩近づけば、イーライの息が止まった。
だがその甘い気配の裏で、
レイの未来を揺るがす軍勢が静かに迫っていた。
◇ サカイ城 ユウの部屋
ユウの部屋には、冬の薄い光が静かに差し込んでいた。
「今回の出陣は・・・兵が多いのね」
湯気の立つカップを眺めながら、ユウがぽつりと呟く。
「はい」
イーライは相変わらず整った顔を崩さず、淡々と答えた。
お茶の準備で手元は忙しいのに、声には一切揺れがない。
ただ――目線だけは、ユウからそっと逸らしていた。
そのわずかな違和に、ユウの青い瞳が細くなる。
「・・・あの男は? 出陣しないの?」
ユウの口調は自然だったが、
イーライの手が一瞬だけ止まったことを、シュリは見逃さなかった。
「しません。
キヨ様が出陣するほどの争いではないためです。・・・西領周辺の残党狩りが主ですので」
答えには隙がない。
だが目線だけが一度もユウに戻ってこない。
ユウはゆっくりと立ち上がった。
その気配に、シュリの背筋がぴんと伸びる。
ーーユウ様?
イーライの前に歩み寄ったユウは、
茶器の並ぶ机のすぐ横へぴたりと立った。
イーライが顔を上げるより早く、
ユウの白い指先が、彼の脇の机へそっと触れた。
その距離――指一本分。
イーライは息を止める。
次の瞬間、ユウが顔を寄せた。
ふわり、と柔らかな香りが触れる。
「イーライ。私に何か隠していることはないの?」
青い瞳がすぐ目の前にあった。
イーライは、喉がひくりと鳴るのがわかった。
ーーち、近い・・・ッ!
逃げようとしても、背には壁。
視界いっぱいにユウの顔が迫り――彼の冷静さは、一瞬で吹き飛んだ。
「え・・・あ・・・っ・・・」
声が出ない。
頬が熱い。
呼吸も忘れそうだ。
ひくっと赤く染まった耳を、ユウは不思議そうに眺める。
追い討ちのように、ユウはさらに半歩、近づいた。
唇が触れそうな距離――
「イーライ。どうなの?」
その瞬間。
「・・・ユウ様。距離が近いです」
静かだが、わずかに震えを含んだ声が背後から響いた。
シュリだった。
ーーやめてください。そんなに他の男に近づかないで。
そう叫びたかった。
けれど、それは言えない。
だから――“任務としての注意” に姿を変えた。
ユウは、不思議そうに瞬きをしてから振り返る。
「距離? ・・・あっ」
そして、ゆっくりとイーライに視線を戻す。
至近距離の黒い瞳。
ーーほんとに近かったのね。
数秒の沈黙。
ユウは静かにその場を離れた。
「イーライ。驚かせてごめんね」
「い、いえ・・・とんでもございません」
イーライの頬は、まだ赤く燃えていた。
茶器の湯気かと思うほどに。
イーライは、未だ落ち着かぬ心臓を必死に抑えながら
ユウの茶をそっと差し出した。
ーー落ち着け。隠し事があると気づかれてしまう。
頬がまだ熱いままだという事実が彼の罪悪感を、さらに強くする。
「今日は・・・ユウ様が喜ぶかと思って用意しました」
イーライが差し出した皿には、
冬の光を透かすような琥珀色の杏のコンポートが揺れていた。
「杏だわ!」
ユウの瞳が少しだけ優しくなる。
一口含むと、酸味と甘さが静かに広がり、ユウの強張っていた肩がふわりとほどけた。
「美味しいわ」
そう呟き、ユウはふんわりと微笑んだ。
――その無自覚な色気は、部屋にいる二人の男の胸を、さらにかき乱す。
イーライは、ほてった頬を隠すようにそっと目線を落としながら、静かに茶器を片付け始めた。
だがその指先が――いつになく、かすかに震えている。
ーー気をつけろ。ユウ様に“気取られて”しまう。
胸の奥に重く沈むものを、必死に押し隠しながら。
ーー兵たちは進んでいる。“あの城”へ。
ユウの妹が嫁いだ城――レイがいるセーヴ領へ向かって。
だがイーライは、その事実を言えない。
言ってはならない。
出陣先は緘口令。
知ってしまえば、ユウが壊れてしまう。
「イーライ、どうしたの?」
ユウの青い瞳が、自分をまっすぐに射抜く。
イーライは一瞬、呼吸が止まった。
「いえ・・・何も」
かろうじて声を絞り出す。
その瞳は揺れていた。
ユウ様には――まだ伝えられない。
兵たちは、レイがいる城に向かっていることを。
そしてその「出陣」が、レイの運命を大きく変えてしまうことを。
冬の光が静かに部屋を照らし、
イーライの横顔に深い影を落とした。
◆ サカイ軍 山道手前の分岐点
エルが率いるトミ軍は、セーヴ領へ向かう街道の分岐で足を止めていた。
前方には大道、横には細い山道が続いている。
部隊を率いるエルとノアは、馬上から前方を見つめていた。
「本道には進まない」
エルの一言に、重臣たちがざわつく。
「エル様、奇襲の好機を・・・・」
「奇襲など不要だ。あの城は、攻めずとも落ちる」
エルの声は静かで揺らがない。
ノアが続けて言った。
「このまま進めば、レイ様とすれ違います。レイ様が気づく頃は避けたい」
ノアの声音には、はっきりとした想いが宿っていた。
かつて自分が裏切った主君から託された願い。
三姉妹を守ること。
それが後悔で苦しむノアの掲げた想いだった。
しかし、エルは違うものを見ている。
エルは、ノアの言葉を受けながら、別の視線で前方を見つめた。
ーーこのままセーヴ城の前でユウ様の妹を刺激すれば、
ユウ様と兄者の間に“諍い”が起きる。
ユウと兄キヨの衝突。
これはトミ家にとって最大の災厄だ。
ユウを大事に思うから、ではない。
ユウが女に弱い兄キヨを責めれば、国の中枢そのものが揺らぐ。
家臣たちが割れ、家が乱れる。
エルはそれを恐れていた。
つまり――
ノアは、三姉妹を守るために軍を止めたい。
エルは、“トミ家の安定” を守るために軍を止めたい。
目的はまったく違うのに、選ぶ行動は同じだった。
ノアの理由は“情”。
エルの理由は“政治”。
同じ判断でも、その根はまったく違う。
エルは命じた。
「我らは山道へ入る。レイ様の馬車が通り過ぎるまで、山中で待機する」
兵たちの表情が引き締まる。
ノアも短く頷いた。
「それが一番かと」
エルは横目でノアを見る。
ーーノアは本当にセン家の三姉妹のことで頭がいっぱいだ。
そしてエルは、心の中で静かに言葉を続けた。
だが――家を守るには、それでいい。
風が二人の間を吹き抜け、軍勢は山道へと進路を変えていった。
次回ーー明日の20時20分
セーヴ城で、レイは夫セージの優しさに戸惑いながらも、
静かな幸福を噛みしめていた。
――そのとき届いた、一通の手紙。
差出人は、トミ家の家臣イーライ。
「姉が危篤」
その言葉に、レイの心は揺れ動く。
レイがサカイへ向かう一方で、
山中では、彼女の知らぬ軍が動き出していた。




