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十日後、あなたを迎えに行く

◇ セーヴ領 レイの部屋


「・・・やっぱり嫌だわ」


レイは小さな手でカップを包み込み、

ほんのり香るカモミールティーを見つめながらつぶやいた。


窓の向こうでは、海風が白いカーテンを揺らしている。


「レイ様・・・そうは言われましても」

乳母のサキは困ったように眉を寄せたまま、

そっと膝を折ってレイに寄り添う。


「秘密にできないの? 誰にも言わないでほしいの。・・・恥ずかしいわ」


レイの黒い瞳が、陰った灯りのように揺れる。


「お気持ちは、よくわかります。ですが――秘密にはできません」


「どうして? 姉上も、姉様も・・・

月のものが来たときは、母上と静かにお祝いしただけよ」

レイは唇を尖らせる。


ユウやウイは、自分で言わなければ誰も知らないままだったのに――

その不公平さが胸をひどくざわつかせた。


サキは、小さなため息を落とし、言いにくそうに口を開く。


「レイ様・・・ユウ様もウイ様も、まだ嫁いでおりません。

ですが――レイ様は、セージ様の お側 に嫁いでおられるのです」


そこでサキは、少し声を落とした。


「嫁いだ女性は、初めて“月のもの”が訪れたら・・・

必ず領主様にご報告せねばなりません」


「・・・いや」

レイはカップを置き、両手で胸元を押さえるように俯いた。


自分の身体の変化を――

この城の者たちに知られ、夫であるセージにも伝えられる。


その現実が、恥ずかしさと恐怖で、胸をぎゅっと締めつけた。


「そんなの・・・考えたくもないわ・・・」


部屋の静けさの中で、レイの小さなつぶやきだけが

海の音と混ざってゆっくりと溶けていった。


嫁いだ姫に“月のもの”が訪れる――


それは、この国では 政治的に『夫婦関係を結べる状態になった』という合図 として扱われる。


単なる身体の変化ではなく、

一族と領地の未来に関わる、大きな意味を持つ出来事。


「・・・レイ様。もう報告はセージ様のお耳に届いていると思います」


サキは言いにくそうに視線を落とした。


レイの喉が、きゅっと詰まる。


「そんな・・・早すぎるわ・・・」


「領主家では、“月のもの”の報告は、政治に直結いたします。

今頃は――セージ様の重臣方が集められ、

『セージ様がレイ様を迎えるか否か』が話し合われているはずです」


レイの胸がどくんと跳ねた。


“迎えるか否か”。


たったそれだけの言葉なのに、

自分が誰のものになるのか、

自分の身体がどう扱われるのか。


全てを他人たちが決めるという現実が、鋭い刃のように胸に刺さる。


サキは、静かに言葉を継いだ。


「・・・領主様といえど、妃を勝手に抱けるわけではありません。血統、家同士の均衡、領土の利・・・

 すべての裏付けを整えねば、“夫婦”にはなれないのです」


レイは目を伏せた。


胸の奥が、じん、と熱く痛む。


「・・・そんな・・・勝手に」


自分の身体に起きたことが、

自分だけの出来事ではなくなる。


レイは震える声でつぶやいた。


「・・・どうして、私の“恥ずかしいこと”が・・・

皆に知られなくてはならないの」


その小さな嘆きだけが、

海の音に紛れるように消えていった。


その日の昼過ぎ。


海風が少し強くなり、レイの部屋の薄いカーテンが揺れていた。


ようやく落ち着いてきた胸の鼓動が――


コン、コン。


扉を叩く音で、また跳ね上がる。


サキがはっと顔を上げた。


「レイ様。どなたかが」


「で、出なくていいわ・・・」


声がかすれる。


ノックは、もう一度。


先ほどよりも、強く。


――これは、ただの侍女の訪れではない。


直感がそう告げた。


サキが観念したように扉へ向かい、そっと開く。


そこに立っていたのは、セージ本人だった。


思いがけない相手に、レイの肩がびくりと震える。


セージは部屋の奥のレイへと歩み寄り、

そのまままっすぐに彼女の顔を見つめた。


その視線に、レイは耐えられなくなり、思わず視線を落とす。


「・・・邪魔をする」


低く落ち着いた声でそう告げると、サキが慌てて頭を下げる。


「もちろんです。セージ様」


レイも慌てて立ち上がった。

裾がゆれ、指先がかすかに震える。


サキが素早く茶の準備をし始めるなか、

セージはレイの正面に静かに座った。


「レイ。話は聞いた」


短い言葉だったが、

その声にはいつになく柔らかい響きがあった。


「身体は・・・大丈夫か」


ひどく自然に、

しかしどこか探るような眼差しでレイの瞳を覗き込んでくる。


「え・・・はい・・・大丈夫です」


かろうじてそう答えたものの、

レイはまた視線を落とした。


胸が高鳴って苦しいほどなのに、

「大丈夫」と言うしかなかった。


――何が大丈夫なのだろう。


いつも冷静でいなければと思っていたのに、

自分でも驚くほど心が乱れている。


セージはそんなレイをじっと見つめていた。


レイの細い肩がわずかに揺れるたび、

彼の瞳の奥の色が変わる。


「ならば、よかった」


静かにそう言うと、

その声には誰にも見せないはずの“安堵”が滲んだ。


レイの胸はさらに締めつけられた。


羞恥、恐れ、不安――

それに、言葉にできないもう一つの感情。


全部が混ざって、呼吸が浅くなる。


「レイ、十日後の夜・・・寝室に来てくれないか」


カップを持つ手が震え、レイは息を呑んだ。


――言わなくてはいけない。


『はい、喜んで』と。


それが“姫”の定義。


領主に嫁ぎ、子を産み育て、領の繁栄に努める存在。


そう頭では分かっているのに――

胸がきゅっと締めつけられる。


レイの黒い瞳が、スッとセージを捉えた。


「それは、会議の結果で、決まったことなのですか」


姫としては決して聞いてはいけない質問だった。


サキは持っていたカップを落としそうになる。


だが、セージは一切動じなかった。


「そうだ」


短く、しかし誠実な声だった。


セージはレイの震える眼差しを見つめ返す。


幼い妻。


けれど――

自分が納得できなければ前に進まない、芯の強さを秘めた娘。


セージはソファにもたれ、静かに続ける。


「俺は二十歳だ。子供の一人、二人いてもおかしくない年齢だ。

重臣たちは後継を求めている。

レイの身体が整ったのなら、なおさらだ」


「・・・そうですね」


レイは伏せた視線のまま答えた。


領主も姫も、感情で動いてはいけない。

全ては領のため、民のため。


分かっている。

頭では分かっているのに――


“身体は大人になった”と言われても、

自分自身はまだ何ひとつ変わっていない気がする。


心が追いつかない。


「セージ様は・・・その・・・無理をして私と・・・」


口に出した瞬間、レイは息を詰め、手で口を覆った。


サキは注いでいた茶を思わずこぼす。


だがセージはすぐに否定した。


「いや。俺は無理をしていない」

率直で、迷いのない声だった。


「むしろ、逆だ」


レイは目を大きく見開いた。


“逆”?


呆然と見つめるレイに、セージは言葉を続けた。


「・・・ただ、レイに無理をさせるのが心配だ」


拳を握りしめる手は、若い領主ではなく、

ただ一人の女性を大切に思う“男”のものだった。


レイは恐る恐るセージの身体を見つめた。


自分も背は伸び、視線は以前より近い。


けれど――目の前の彼は逞しすぎる。


己とは別の世界に住む“大人の男”。


その後のことなど・・・想像すらできない。


不意に、セージがそっとレイの手を取った。


「痛い事はしないつもりだ」


その瞳はまっすぐで、真摯だった。


手をつなぐだけで、胸が熱くなる。


レイの心臓は、速く、苦しいほどに脈を打つ。


そして――


「レイ。俺と・・・夫婦になってくれ」


冬の光が彼の横顔を照らした。


その言葉は、

政治でも義務でもなく――

一人の男としての、精一杯の想いだった。


レイは一度、静かに目を閉じた。


胸の奥で揺れていた迷いを、そっと沈めるように。


そして、ゆっくりと瞳を開いた。


漆黒の瞳がまっすぐセージを捉える。


あまりの真っ直ぐさに、セージは息を呑む。


吸い寄せられそうな強さ――幼い姫ではなく、ひとりの“女”の目だった。


「わかりました。喜んで参ります」


レイは毅然と、はっきりと告げた。


その一言に、セージの胸の奥で何かが音を立てた。


安堵か、喜びか、それとも――抑えきれないほどの愛おしさか。


セージは思わずレイの手を包み込み、力を込めて握った。


その指先は確かに震えていたが、離す気配はなかった。


セージは、言葉を探すようにレイを見つめた。

気づけば、ふたりの距離はわずかに縮まっていた。


「レイ・・・」


そのまま――

唇が触れそうなほど近づき、けれど、ぎりぎりで止まった。


セージの喉が、かすかに震えた。


ーー触れてしまえば戻れない。


セージは、その一線を越えるのを自ら止めた。


「十日後、レイを迎えに行く」

低く落とされた声に、レイの胸が熱くなる。


離れた時、ふたりのあいだの空気だけが

かすかに熱を残していた。


扉が閉まり、セージの足音が遠ざかっていく。

その音を聞きながら、レイは胸の奥の熱をそっと押さえた。


この十日が、永遠の始まりになる――そう信じて疑わなかった。

次回ーー本日の20時20分


ユウが一歩近づいただけで、

イーライの理性は、静かに崩れかけた。


けれどその背後で――

彼女には知らされぬまま、兵は進んでいる。


妹レイが暮らす、セーヴ領へ。


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