風に吹かれて、あなたを想う
◇ ワスト領 ユウとウイの部屋
「今日はいい天気ですね」
ヨシノが窓を開けると、湿った春の香りが部屋に流れ込んだ。
「春ね・・・」
ウイが目を細める。
陽光が彼女の髪を淡く照らした。
「レイは元気かしら」
レイが嫁いで、もう半年。
ウイは彼女が座っていた椅子を見つめた。
「私は、姉上がいるから平気。でも・・・レイは寂しいでしょうね」
ウイはソファのクッションを抱きしめる。
「でも、姉上も嫁いだら、私もこの城で一人になるわ」
「・・・それが順番よ」
ユウが静かに答える。
「大人になりたくないわ」
ウイの声は小さく震えた。
そのとき、扉がノックされた。
「ユウ様にお手紙が届いております」
「私に?」
ユウは立ち上がり、宛名に目を落とした。
――“ノア”。
思わず息を呑み、指先が震えた。
急いで封を切る。
ウイが待ちきれず、背後から覗き込む。
手紙には、一行だけ書かれていた。
『任務は無事完了』
「・・・これは?」
ウイが首をかしげる。
ユウはそっと手紙を胸に抱いた。
その仕草は、どこか祈るようだった。
「ノアは・・・私の願いを聞いてくれたのよ」
「願い・・・?」
ウイが目を見開く。
ユウは小さく頷いた。
「セージ様を守るように、ノアに託したの」
「えっ・・・」
ウイの瞳が揺れる。
ユウは静かに窓の外を見つめた。
風がカーテンを揺らし、陽の光が差し込む。
「ノア・・・ありがとう」
その声は春の風に溶け、
遠く、戦場の方角へと流れていった。
ユウは机の上に置いた手紙を見つめ、深く息をついた。
そして、ふっと微笑む。
「・・・こんなに良い天気だもの。今日は乗馬がしたいわ」
「えっ、乗馬ですか?」
ウイが驚いたように顔を上げる。
「今頃、りんごの花は見頃だわ」
ユウは軽やかに言い、鏡の前で髪を整え始めた。
ヨシノが慌てて声を上げる。
「ユウ様、今日は外は少し風が強うございます」
「それでもいいの。風に吹かれてみたいの」
そう言って、ユウは振り返り、シュリを見つめた。
シュリは頷き、部屋を出た。
ミミに外出の許可をもらい、今度は執務室の扉を叩く。
中から、低い声が聞こえた。
「入れ」
扉を開けると、地図と戦況図を前に、サムとイーライが向かい合っていた。
机の上には、キヨ軍への物資の伝令書が山のように積まれている。
「シュリ、どうした」
白髪混じりの髪を束ねたサムが顔を上げる。
「任務中に失礼いたします。ユウ様が遠出を希望されており、報告に参りました」
シュリが頭を下げた。
「ユウ様が・・・乗馬か?」
イーライが目を見開く。
「はい。『りんごの花が咲いているのを見たい』と」
シュリの声は落ち着いていた。
「あぁ・・・あそこは今が満開だろうな」
サムが穏やかに微笑む。
「戦況が不安定な折に・・・」
イーライは小さく眉を寄せた。
「イーライ、それは戦場の話だ。ここは平和だ」
サムが短く笑い、肩を竦める。
「はっ」
イーライがわずかに頭を下げる。
「お忙しいようでしたら、他の兵を同行させます」
シュリが言うと、イーライの瞳が一瞬だけ揺れた。
その奥に、かすかな嫉妬が滲む。
――ユウ様とシュリが乗馬。
それを口に出すことはないが、表情の端に滲んでいた。
サムはその心を見透かしたように、静かに笑った。
「イーライ、私は城に残る。お前がユウ様の護衛につけ」
「しかし・・・」
イーライは戦況図に視線を落とす。
紙の上では、矢印が入り乱れ、次の搬送計画がびっしりと書き込まれていた。
「お前が細かく準備を整えた。あとは私がやる」
サムの声は短く、だが温かかった。
一瞬の沈黙ののち、イーライは静かに頷いた。
「・・・承知しました。三十分後に、馬場でお迎えいたします」
シュリとイーライの視線が交わる。
その間に、言葉にはできないわずかな緊張が走った。
イーライが出ていくと、執務室に春風が吹き込み、地図の端がふわりと浮いた。
「戦の合間にも・・・春は来るのだな」
サムが独りごとのように呟く。
陽光の下、彼の白髪がやわらかく光っていた。
◇ ロク城 中庭の馬場
ーーそしてイーライは、胸に抑えきれぬ想いを抱いたまま、馬場へ向かっていた。
彼の視線の先には――すでに、馬上のユウがいた。
乗馬服を纏ったユウの周辺に、春風がふわりと吹き抜けた。
遠くで小鳥がさえずり、兵舎の屋根に柔らかな陽光が落ちている。
「・・・春ね」
ユウは小さなため息をついた。
水色の外套に、髪を緩くまとめている。
その姿は、まるで春の光そのもののようだった。
シュリはその姿を黙って見つめていた。
そこへ、イーライが現れた。
黒い外套の下、鞍の脇には革張りの小箱が括りつけられている。
箱の中で、銀器がかすかに触れ合う音がした。
「ご準備は整っております。お供いたします」
いつもの冷静な声。
だがその瞳の奥には、言葉にならぬ複雑な光が揺れていた。
ユウが馬首を返したとき、彼の鞍から「チリン」と澄んだ音が鳴った。
「何かしら?」
「紅茶の道具です。茶筒とカップを軽いものを選びました・・・遠出の途中で、一服をと思いまして」
「馬に乗ってまで?」
ユウが少し笑う。
イーライは淡く口角を上げた。
「はい。美味しい茶を淹れてみせます」
春風が彼の外套を揺らし、革箱の中でまた小さな音がした。
走り出した馬の背を見送りながら、
イーライは鞍の脇に括りつけた小箱に視線を落とした。
風が吹くたび、箱の中で銀器がかすかに触れ合い、澄んだ音が鳴る。
それは彼の弾んだ心を象徴するようなものだった。
ーーいつからだろう。
その音を聞くたびに、胸の奥が静かに熱を帯びるようになった。
彼女の声も、髪を撫でる風の仕草も、強い眼差しに惹かれるようになったのは。
想いを一生懸命に蓋をしても、ユウを見るたびに再び浮上する。
それを抑え込む、また浮上して、その繰り返し。
こうして城を離れると、その気持ちは抑えきれなくなる。
それは忠誠でも職務でもない、
ただ一人の女性を想うーー愚かで切ない想いだった。
イーライは小箱の留め具に指をかけ、そっと閉じた。
銀の音が、遠くで消えた。
けれど胸の奥では、その余韻が、まだ静かに鳴り続けていた。
自分より少し前を走るシュリも、ユウを見つめていた。
春風が髪を揺らし、光がその横顔を照らす。
その眼差しには、自分と同じ熱が宿っていた。
その光景に、イーライはほんの一瞬――息を飲んだ。
その胸の痛みの名を、彼はすでに知っていた。
けれど、それを口にすることだけはできなかった。
揺れる想いを抱えたまま、三人は春の日差しの中を走り続けた。
次回ーー明日の20時20分
りんごの花が咲く丘で、
ユウの髪にひとひらの花びらが落ちた。
それを摘もうとした、シュリとイーライの指がふれ合う。
――同じ姫を想う者同士。
春風の中で揺れる金色の髪を、
二人はただ黙って見つめていた。
禁じられた想いは、
この日、静かに動き始める。
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ありがとうございます。励みになります。
この小説は、口当たりが悪く、「読んでると疲れる系」の小説だと自覚しています。
その小説を読み続けてくれる読者様に感謝しています。




