また、守れないのか
開かれたドアから、涼やかな風が廊下を渡ってゆく。
バルコニーに並ぶのは、長身の若い男女。
少年期と少女期を、ようやく脱したばかりの年頃だ。
ユウはその肩をシュリに預け、シュリは銅像のように微動だにせず受け止めている。
廊下の隅に立つイーライは、その二人を凝視していた。
――姫と乳母子。
身分が隔たっているにも関わらず、互いを結ぶ何かは固く強靭に見える。
妹たちの前では精一杯背筋を伸ばしていた背中が、今は甘えるようにしなだれている。
あの二人には、決して自分が踏み込めぬ領域がある。
胸の奥に、じくじくと苛立ちが募った。
姫に男の乳母子――そんなもの、聞いたこともない。あり得ない。
それなのに、亡き妃は確かにミミ様に託している。
銅像のように硬直するシュリの背を見つめながら、ふと願ってしまった。
――もし自分も、あのような存在になれたなら。
思わぬ衝動に、イーライは自らの心に戦慄する。
肩をぽんと叩かれ、イーライは飛び上がるように振り返った。
重臣サムが立っている。
「サ、サム様! 失礼しました」
「イーライ、お前が気付かないとは珍しいな」
サムは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「はっ・・・いえ、その・・・」
慌てて言い繕うが、声が裏返る。
視線は思わず窓辺へ。
サムもそちらに目を向け、わずかに瞳が揺らいだ。
「・・・母君を失ったばかりだ。ユウ様には、シュリが必要なのだろう」
「・・・はい」
イーライは伏し目がちに応じる。
胸の奥のざわめきを必死に抑え込みながら。
サムは、しばらく黙ってイーライを見つめた。
その目には、言葉にはしない理解の色が宿っていた。
イーライは気づかない――いや、気づこうとしなかった。
その視線は鋭さよりも、むしろどこか温かいものを帯びている。
「・・・若い心には、どうしようもない時もある」
小さくそう呟いて、サムはそれ以上何も言わなかった。
イーライは顔を上げられないまま、ただ深く頭を下げる。
胸の奥を見透かされている気がして、息が詰まりそうだった。
――気づいている。
自分がユウ様に向ける想いを。
隠していたはずなのに・・・伝わるなんて。
そんなに、わかりやすかったのか?
それとも、サム様が鋭すぎるのか。
どちらにせよ、己の心が外に漏れ出していたことに、イーライは戦慄した。
「二日後に、キヨ様がこの城に戻る」
サムの言葉に、イーライの瞳が大きく見開かれた。
「そんなに・・・早く戦場から戻られるのですか?」
イーライの顔を見て、サムは苦しそうに「あぁ」と呟いた。
「なぜ・・・まだ戦後処理もあるはずなのに・・・」
「それはノア殿が受け持つだろう。キヨ様は――早く戻りたいのだろう」
サムの視線は、バルコニーに立つユウの後ろ姿へと向けられていた。
「・・・それは」
イーライの表情が強張る。
胸の奥がざわめき、言葉にならない。
サムは短く息を吐き、静かに告げた。
「・・・この件は、私が伝える」
サムはわざと足音を響かせながら廊下を進んだ。
その音に気づいたのだろう、ユウは慌ててシュリから身を離れ、振り向く。
金色の髪、青い瞳――その深い色に、サムは思わず目を細めた。
ーーやはり、シリ様にそっくりだ。
「ここにおられましたか」
穏やかな声に、ユウは頷き、シュリはうつむいたまま。
「・・・ここにいると・・・落ち着くの」
小さく漏らしたユウの言葉に、サムの表情はやわらかくほどけた。
彼は古びた扉に手を添え、木目をなぞりながら口を開く。
「・・・そうでしょう。この城の木材は、レーク城のものですから」
「えっ」
ユウは驚いて顔を上げる。
「レーク城を解体して、この城を建てたのです。シリ様は・・・あの城が、とてもお好きでした」
サムの声には懐かしさと、慈しみが滲んでいた。
それは主君の妃に仕えた者としての記憶であり、
今、目の前にいる少女を守りたいと願う者の祈りでもあった。
「この扉は・・・かつて執務室の前にある倉庫の扉でした。
シリ様とグユウ様は、よくこの影に立たれて・・・。
本人たちは隠しているつもりでも、周囲には想いが伝わっておりました」
サムは扉にそっと手を当て、懐かしむように微笑んだ。
「・・・不思議なものです。愛おしい人のそばに立つと、隠そうとしても、誰の目にもわかるのですね」
ユウは思わず息をのんだ。
その言葉が、自分に向けられたもののように胸に響いた。
「母上にも・・・そんな一面があったのですね」
ユウは小さくつぶやいた。
自分の記憶にある母は、父を失い、悲しみを堪えて、それでも強く前を向いていた母だった。
だからこそ、甘えた表情で父に寄り添う姿の話は、新鮮で胸に沁みる。
――母上も、誰かに支えられていたのだ。
その思いが、ユウの胸を温かく満たす。
ふと、隣に立つシュリへと視線が吸い寄せられた。
言葉にはしないが、母が父に寄り添ったように。
自分も、この人に支えられているのだと、ユウは気づいてしまった。
「・・・お知らせがあります」
サムは小さく空咳をし、真剣な眼差しでユウを見つめた。
「二日後に、キヨ様がこの城に戻られます」
その言葉を聞いた瞬間、ユウの顔から血の気が引いた。
「・・・キヨが・・・ここに・・・」
「はい」
サムは言いにくそうに頷く。
ユウは唇をきつく噛み、短く答えた。
「・・・わかりました」
ちょうどそのとき、湖から冷たい風が吹き込む。
ユウの頬を撫で、衣を揺らし、沈黙を際立たせた。
「・・・教えてくださって、ありがとう」
かすかな声を残し、ユウは踵を返した。
その背は重く、妹たちの待つ部屋へと歩いてゆく。
サムはユウが部屋に入ったのを見届けると、廊下の奥に潜んでいたイーライが歩み出た。
「サム様、伝令ありがとうございます」
深く頭を下げるイーライに、サムは静かに微笑む。
「今日はこれから・・・屋敷に戻る」
「はっ」
「明け方には、また戻る」
短く告げ、サムは城を出た。
馬の鼻先を向けたのは、二ヶ月ぶりの自宅ではなく、反対の方角。
かつてレーク城があった近くの屋敷に到着した。
玄関の前に馬を止め、深呼吸してから呼び鈴を鳴らした。
戸口に現れたのは、かつての同僚カツイ。
「おお! サム! 戦から戻ってきたのか!」
屈託のない笑顔が迎える。
「カツイ・・・」
その顔を見た途端、サムの表情はくずれ落ちた。
「・・・どうした」
カツイの声に影が差す。
「すまない・・・」
サムは玄関の敷居に崩れ落ちた。
「サム!」
慌ててしゃがみ込むカツイの腕にすがりながら、サムは絞り出す。
「・・・シリ様を・・・お救いできなかった」
その一言に、カツイの顔が凍りついた。
「・・・止められなかった。・・・自ら・・・」
言葉は途切れ、サムの頬に一筋の涙が伝った。
「・・・部屋に入ってくれ」
カツイは涙をこらえながらサムを立たせ、椅子に座らせた。
「ロイや・・・チャーリーは?」
かつての同僚の名を口にする。
サムは小さく首を振った。
「まだ・・・戦場に残っている。・・・お前の子、オリバーも」
「なぜ・・・サムだけ・・・」
問いかけに、サムの肩が震えた。
「・・・シリ様と・・・グユウ様のお子を・・・ロク城へお連れした」
「・・・あの姫様たちは・・・ご無事なのか」
カツイは身を乗り出し、すがるように問い詰める。
「・・・ご無事だ。それが・・・シリ様の、望みだった。・・・セン家の血を・・・繋げと・・・」
サムの頬を、幾筋もの涙が流れ落ちる。
「・・・お前に・・・シリ様の手紙を、預かっている」
震える手で羊皮紙を差し出すと、カツイは慌てて開いた。
そこには、命を絶つことへの詫びと、これまでへの礼、
そして娘たちを託す言葉が、美しい筆致で綴られていた。
「・・・シリ様」
カツイは手紙を胸に抱き、声を殺して涙を流す。
――十年も前に仕えた家臣に、なお手紙を残す。
その優しさに、胸が締めつけられた。
「・・・私への手紙にも・・・姫様たちを守れと・・・書いてあった」
サムの声は震え、途切れ途切れになる。
「・・・あぁ・・・サム、頼む」
カツイの言葉は、涙に遮られ、宙に溶けた。
「・・・私は・・・また守れないかもしれない」
サムの声はかすかに震えていた。
「サム・・・?」
冷静沈着で、感情を乱すことのなかった男が、ここまで・・・。
カツイの目は大きく見開かれた。
「どうした・・・」
「・・・キヨ様は・・・ユウ様を、妾にしようとしている」
その一言に、カツイの顔色が凍りつく。
サムは言葉を絞り出すように続けた。
「・・・どうすれば・・・助けられる」
拳を握りしめ、テーブルに叩きつける。
乾いた音が部屋に響き、震える肩に押し殺した慟哭が滲んでいた。
「サム・・・」
カツイはただ名を呼び、そっとその肩に手を置いた。
力強くはない。
けれど、確かにそこに寄り添う温もりがあった。
サムはほんの一瞬だけ、孤独という闇の底に、小さな灯を見た気がした。
だが、ユウを守れるのか。
答えはまだ見えなかった。
次回ーー本日の12時20分
夜更け、三姉妹は寄り添いながら母を想って涙を流した。
けれどユウだけは眠れない。
――彼女の中には、叔父ゼンシの血が流れていた。
◇登場人物メモ(第7話時点)◇
※物語の進行に合わせて更新していきます。
・ユウ → 長女。母の面影を宿しながら、迫りくる運命に抗おうとする。
・シュリ → 乳母子の青年。ユウを守ることを誓うが、その想いは静かに熱を帯びていく。
・イーライ → 三姉妹の世話役。忠義と嫉妬の狭間で心を揺らす。
・サム → 元ワスト領の重臣。亡き主の遺志を継ぎ、ユウを守る覚悟を固める。
・カツイ → かつてシリに仕えていた家臣。今なお、主への忠義を胸に生きる。