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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第3章 潮騒の婚礼 ――そして戦が始まる
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忘れていたはずの人

翌朝、ユウとウイは部屋で身支度を整えていた。


ユウは鏡の前に座り、ヨシノに髪を梳かしてもらっている。


鏡越しに映るヨシノの瞳は、シュリによく似ていた。

優しくて、澄んだ茶色の瞳。


そのシュリと――昨日、口づけをした。


自分からーーお願いをした。


『口づけをしてほしい』と。


あのとき、シュリが戸惑いながら。


でも、瞳の奥に熱を秘めたままーー自分の頬に触れた指のぬくもりが、まだ消えない。


思い出すたび、胸の奥が熱くなる。


幸福と戸惑いが混じり合い、ユウはそっと息をついた。


「姉上、どうしたの?」

鏡越しにウイが覗き込む。


「・・・何でもないわ」

ユウは微笑みでごまかした。


ウイはまだあどけない顔で首を傾げる。


「モナカはどうしたのかしら? いつもなら、もう来ているのに」


「そうね。今日は遅いわね」

ユウがそう答えた瞬間、扉の向こうから軽やかな足音が近づいた。


「遅くなりました」

息を切らしたモナカが、いつもの調子で勢いよく入ってきた。


その声に、ヨシノは手を止め、わずかに眉をひそめる。


「モナカ、遅いわよ。ウイ様の髪を結って」

静かな叱責。


「す、すみません。女中たちと話し込んでしまって・・・」

モナカは慌ててブラシを手に取り、ウイの髪を梳かし始めた。


「何の話?」

ウイはのんびりとした口調で尋ねる。


モナカは一瞬、ブラシの手を止めて、ちらりとヨシノの顔をうかがう。


「・・・えっと、あの、その・・・ちょっとした“噂”でして」

「噂?」

ユウが鏡越しに目を細めた。


「い、いえっ! 大したことじゃありません! ほんの世間話で・・・!」

モナカは慌てて笑いながら、再び髪を梳く。


だが、頬がわずかに紅潮している。


――言いたくて仕方がないのだ。


ヨシノはその様子を見て、静かに言った。


「モナカ。姫様達に噂話を聞かせるのは良くないわ」


その声に、モナカは小さく肩をすくめた。


「・・・はい。肝に銘じます」


けれど、その唇の端には、まだ“続きを言いたい”熱が残っていた。


「ねえ、どんな噂?」

ウイが無邪気に尋ねた。


噂好きのモナカとウイ――いつもこんな調子だ。


ユウは鏡越しに二人を見ながら、ふっと口元を緩めた。


モナカはブラシを片手に、待ってましたとばかりに話し始める。


「夜明け前の稽古場でね、女中のマリアが振られたらしいんですよ」


ウイが目を丸くした。


「振られた? 誰に?」


「相手は・・・シュリで」


空気が凍りついた。


ヨシノにとっては――それは息子の話だった。


そして、鈍いウイですら分かっている。


姉・ユウは決して口にはしないけれど、シュリを想っていることを。


ウイはそっと、姉の顔をうかがった。


ユウの表情は、見たことのないほど硬い。


モナカは気づかない。


むしろ、得意げに続けた。


「“好いた女性がいる”ってシュリは断ったそうですよ。

しかもね、マリアと話すと、その人が嫉妬するらしいんです。

付き合ってもないのに・・・嫉妬深い方ですよね」


その言葉に、ユウの瞳がかすかに見開かれる。


ヨシノは気まずそうに、櫛を動かす手を止めた。


ウイは隣にいる二人の顔を見つめるだけで精一杯だった。


モナカは止まらない。


「そんなこと、稽古場で言うなんて、女中たちはもう、“誰のことか”って噂してて・・・」


張り詰めた空気。


その中で、ウイが小さく声を上げた。


「・・・モナカ、もうやめて」


次の瞬間、扉がノックされた。


その音に、四人は文字どおり飛び上がりそうになった。


「おはようございます」


ゆっくりと扉が開き、シュリが入ってきた。


いつもの穏やかな声。


いつもの礼儀正しい所作。


けれど――このタイミングだけは、まるで神のいたずらのようだった。


朝の光を背にしたシュリの頬は、稽古の後で赤く染まっている。


その健康的な赤みが、部屋の空気をさらにざわつかせた。


モナカが息を飲み、ウイは慌てて視線を泳がせる。


ヨシノは咳払いをして、手を止めた。


そして――ユウ。


彼女は、そっと鏡越しにシュリを見た。


目が合った瞬間、どちらともなく頬が紅潮する。


ユウはすぐに目を伏せた。


けれど、その赤みは朝日のせいではなかった。


鏡の中には、いつもと同じはずの朝が映っている。


けれど、その空気だけが――ほんの少し違っていた。


ユウは、シュリに抱く想いを消すことなどできなかった。


けれど、自分が“姫”という立場にあることを、誰よりも理解していた。


何度も、忘れよう、捨てようと思った。


それでも、目の前にいるシュリを見るたび、心は揺れてしまう。


抑えることだけで、精一杯だった。


そして、シュリもまた――同じ葛藤を抱えていた。


想いを抑えながら過ごす日々。


それでも、二人の冬は静かに、雪のように滑らかに過ぎていった。


ユウが気づかぬうちに、春は再びワスト領へと巡ってきていた。


雪解けとともに街道が開き、遠くから、キヨの手紙がいくつも届いた。


「・・・ユウ様、どうかお読みください」


イーライの低い声が、春の光を遮るように響いた。


封書を見つめるユウの指先が、かすかに震えた。


ーーあの男のことなど、とっくに忘れていたはずなのに。


ユウは、胸の奥に冷たい痛みを覚え、そっとため息をついた。


その吐息が、窓辺の氷を曇らせた。


次回ーー明日の20時20分


春の光の下、山のように積まれた封書。

忘れたはずの男の名を見た瞬間、ユウの胸に冷たい痛みが走る。


届き続けるキヨの手紙。


「――燃やして」


同じ頃、遠いセーヴ城ではレイもまた、姉を想っていた。


春は、三姉妹それぞれの心を静かに揺らしていた。

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