着飾るのは、許せない男に立ち向かうため
夜明け前。
まだ誰も動かぬはずの廊下に、ユウの足音が静かに響いた。
息を潜めながら、彼女はゆっくりと歩みを進める。
気をつけても、木の床がギシギシと音が鳴る。
その背後から、穏やかな声がした。
「おはようございます」
振り向くと、そこにはシュリがいた。
薄明の光の中、彼の髪がかすかに揺れる。
「シュリ……! なぜここに」
ユウの青い瞳が驚きに見開かれる。
けれど、その先の言葉は続かなかった。
「ずっと、ユウ様にお仕えしていますから。何かされるだろうと、思っていました」
――止められないことも。
ユウがただ命じられたまま従う人間でないことを、シュリはよく知っていた。
ユウは短く息を吐いた。
――やはり、読まれていた。
「争いの前です。兵たちは皆、昂っています」
シュリは静かに言葉を継いだ。
「お供いたします」
その声音には、諦めでも叱責でもなく、穏やかな覚悟があった。
ユウはしばらく黙っていたが、やがて短くうなずいた。
「……それなら、ついてきて」
二人は廊下を進む。
窓の外には、夜と朝の境目のような淡い青が広がっていた。
「どこへ行かれるのですか」
シュリが小さく尋ねる。
「ノアに逢いたいのよ」
「ノア様……ですか?」
シュリは思わず足を止めた。
ワスト領の重臣ノア。
半年前までは、義父ゴロクが治めていたシズル領の副官だった。
だが、戦の渦中でキヨ側につくという決断を下した。
その裏切りが、シズル領の敗北、そしてシリの死を決定づけた。
以降、ノアは城内でも三姉妹の前では言葉少なになり、
彼の誠実さを知る者ほど、その沈黙に痛みを覚えていた。
「ノアに、お願いしたいことがあるの」
ユウの声は静かだった。
「お願いですか?」
ユウは答えず、ただ前を向いたまま歩き出した。
その横顔に、シュリは一瞬言葉を失う。
怒りでも憎しみでもない。
そこにあったのは――“祈り”に似た決意だった。
「わかりました」
シュリは短く答える。
それ以上、何も聞かなかった。
二人の足音だけが、夜明け前の静寂に響いていた。
空が、少しずつ白み始めていく。
その光が、ユウの髪を淡く照らしていた。
城の本館へ向かう回廊を抜けると、
冷えた空気の中に、かすかな金属音が混じりはじめた。
鎧を着る音、馬の鼻を鳴らす声、兵士の短い掛け声――
夜が明けきらぬうちから、出陣の準備が始まっている。
松明の灯がいくつも揺れ、青白い空の下に人の影が動く。
鉄の匂いと、火の焦げる匂いがわずかに鼻を刺した。
「戦の朝ね」
ユウの唇がかすかに動いた。
シュリは隣で黙って頷く。
やがて、奥の馬屋の方から、落ち着いた低い声が聞こえた。
「――部隊の配置は変えず、補給だけ前へ」
ユウの肩がびくりと動く。
声の主を知っていた。
彼は背を向けたまま、数人の兵に指示を与えていた。
整った背筋、無駄のない動き。
その姿は、昔、義父の隣で誇らしげに地図を広げていたあの頃と変わらない。
けれど今、その背は――キヨの陣営の将。
ユウは胸の奥で、ひとつ呼吸を整えた。
封じていた想いが、喉の奥で痛みに変わる。
「ユウ様……」
シュリが小さく名を呼ぶ。
ユウはそれに答えず、静かに階段を降りた。
裾が石段を擦る。
冬の朝の空気が肌を刺すように冷たい。
ノアが振り返ったのは、そのすぐ後だった。
驚いたように目を見開き、次の瞬間、すぐに膝を折り、頭を垂れる。
「おはようございます。……こんな時間に、いかがなさいました」
その声には、深い罪の色が混じっていた。
ユウはしばらく何も言わず、ただ彼を見下ろした。
目の前にいるのは、半年前まで義父と母を支えた重臣。
その二人を裏切った男。
けれど、その瞳には悔恨と誠実が、同居しているように見えた。
「ノア。お願いがあって来ました」
ユウは静かに言った。
その瞬間、ノアの肩がわずかに震える。
湖から吹き抜ける風が、二人の間をかすめた。
薄明の空が、少しずつ色を変えていく。
「あなたは出陣すると聞いています」
ユウの声はかすかに震えていた。
「はっ」
短い返答のあと、ノアは静かに頭を下げた。
ユウは息を呑み、言葉を探す。
――これから口にすることは、重臣としても、騎士としても許されない。
けれど、レイを守るために、どうしても伝えねばならなかった。
「セージ様を――殺さないで」
ノアが顔を上げた。
驚きがその瞳に浮かぶ。
敵である領主を助けよというその願いは、あまりにも常識外れだった。
しかも、セーヴ領はワスト側を裏切った領。
「セージ様は、レイの夫なの」
ユウの瞳が潤む。
唇はかすかに震え、最後の言葉は祈りのようだった。
「……お願い」
しばしの沈黙。
ホールの奥に、冬の淡い朝の光が静かに差し込む。
白い息がひとつ、ふたつ、間に漂った。
長い沈黙の果てに、ノアがゆっくりと口を開く。
「……承知しました」
その一言に、ユウは目を見張った。
ーーお願いはするが、受け入れられないと思っていた。
「ノア、どうして?」
「私は――ゴロク様と約束をしたのです」
ノアの声は低く、だが確かな響きを持っていた。
ゴロク。
かつてのシズル領主であり、ユウにとっては短い期間とはいえ義の父でもあった。
「裏切った私に、ゴロク様は言われました。『シリと姫たちを、どうか守ってくれ』と」
その言葉に、ユウとシュリは目を見開いた。
「そんなことがあったのですね」
シュリの声が静かに漏れる。
ノアは小さく頷いた。
「残念ながら……シリ様はお救いできなかった」
声がわずかに震える。
「けれど、姫様方はお守りします。セージ様の件も――承知いたしました」
そう言って、ノアは深く頭を下げた。
淡い光がその肩を照らし、静寂の中で白い息がほどけていった。
西の棟へ向かうユウとシュリの足取りは、先ほどとは違い、しっかりと地を踏みしめていた。
「良かったですね」
シュリが控えめに声をかける。
――戦場でセージ様だけを殺すなというのは、あまりに難しい願いだった。
それをユウも、そしてシュリも分かっている。
それでも、伝えることに意味があったのだ。
ユウは無言で頷いた。
廊下を抜けかけたところで、シュリがそっと足をとめる。
「ユウ様、ご立派な振る舞いでした」
背を向けたままのユウに、静かに言葉を投げた。
本来のユウであれば、ノアを裏切り者として責めてもおかしくなかった。
けれど彼女は、レイの夫であるセージの命を救ってほしいと願い出た。
「……立派ではないの」
ユウの声は小さく震えていた。
「今でも思うの。――どうして裏切ったの?と」
「ノア様も……悩まれていたのだと思います」
シュリの返事に、ユウは静かに頷いた。
「争いは、何が起きるかわからない。人を憎んでも……自分の心が疲れるだけ」
「はい」
ユウはふいに振り返る。
「憎しみ続けるより……許す方が、きっと強いわ」
その顔は、泣きそうに歪んでいたが、微笑んでもいた。
「はい」
朝日の中で、シュリは力強く答え、そっとユウの背に手を添える。
「けれど――」
ユウの声が低くなった。
「あの男だけは、許せない」
彼女は胸元に手を当てる。
そこには、母から託された淡いピンク色の小袋があった。
「今日の見送りは……逃げるためではなく、立ち向かうため」
その瞳は、朝の光を受けて鮮やかな青に輝いていた。
「あの男に立ち向かうため――着飾るの」
――逃げるためではなく、戦うために。
ユウは顎を上げ、朝の光をまっすぐに受けた。
その横顔に、夜明けの冷たい風が流れ、青い瞳がいっそう澄んで見えた。
シュリは黙ってその横顔を見つめた。
本日、エッセイを書きました。
ストック34話で震える作家の実情をつづっています。
よかったら覗いてください。
「34話しかないの。助けてーストックに取り憑かれた底辺作家の日常」
https://ncode.syosetu.com/N2523KL/
気軽に読める内容なので、休憩のお供にどうぞ。
次回ーー明日の20時20分
出陣の朝。
キヨは浮かれ、ユウは静かに覚悟を纏い――
主従の想いが交錯する中、ついに三者が控え室で対面する。
水色のドレスを纏ったユウ。
その姿が、戦の始まりを告げる朝に、確かな予兆を落としていく――。
「静かなる戦の始まり」




