国を見る瞳
セーヴ領・レイの部屋。
この数日、城内は慌ただしかった。
多くの兵が行き交い、廊下の片隅には、運びきれない荷物があちこちに積まれている。
その光景を見つめながら、レイは小さくため息をついた。
――あぁ、戦が始まるのだ。
夫・セージの姿を見たのは、もう何日も前のこと。
会議と準備に追われているのだろう。
無理もない。
争いが近いのだから。
けれど――この緊迫した空気の中で、
何ひとつ説明がないことが、胸に重くのしかかっていた。
この状況になっても、セージからは何の説明もない。
本来、女は政に口を出すことを許されない。
妻が真実を知らされるのは、争いが“決定してから”だ。
その現実を、ようやく痛感していた。
――女だから。
そして、私が“幼い”から、知らされないのだ。
唇を噛み締めながら、レイは思い出す。
母が、重臣たちと並んで地図を広げていたあの日を。
義父や重臣と対等に語り合い、兵の配置まで決めていた姿を。
当時は、それが当たり前だと思っていた。
けれど、今になってわかる。
母がどれほど異端で、どれほど強かったかを。
そのとき、扉の外で足音が止まった。
「……レイ」
名を呼ぶ低い声。
レイは振り返る。
そこには、軍服を纏ったセージが立っていた。
鎧の下に隠しきれぬ疲労が滲み、目の下には深い影がある。
「お帰りなさいませ」
レイは静かに立ち上がる。
サキが紅茶を差し出した。
セージはそれを受け取り、一口飲む。
しばし沈黙の後、言いにくそうに口を開いた。
「……しばらく、不在になる」
その一言で、すべてを察した。
けれどレイは、あえて問いを口にする。
「出陣されるのですか」
セージの手が止まった。
黒い瞳が彼をまっすぐ見つめている。
彼女に争いの話を隠すよう、家臣たちには口止めをしていた。
“女には理解できぬこと”――その前提が、今、音を立てて崩れた。
「なぜ……それを」
レイはまっすぐに言葉を返す。
「私は、半年前に落城を経験しています。争い前の空気くらい、分かります」
淡々とした声。
だが、その奥に宿るのは恐れでも涙でもない。
静かな覚悟だった。
セージは何も言えず、ただ妻を見つめた。
「セーヴ領は……ジュン様にお味方するのですか?」
核心を突く問い。
「レイ……なぜ、そこまで」
「この争いは、ジュン様とキヨの戦。国王の座をめぐるもの――そう推測しています」
セージは目を伏せ、手にしていたティーカップをそっと机に置いた。
カチャン、と乾いた音が響く。
ほんのわずか、手が震えていた。
その小さな音に、レイは彼の心の乱れを悟った。
――幼いと思っていた妻が、ここまで見抜いている。
セージは静かに息を吐いた。
「……どうして、それを」
その声には、驚きと戸惑い、そしてわずかな恐れが滲んでいた。
レイはまっすぐに夫を見つめていた。
黒曜石のような瞳に、怯えはない。
「私は、ジュン様を知っています」
レイの言葉に、セージの眉がわずかに動いた。
「ジュン様を……?」
「ええ。昨年の冬、ジュン様は母を訪ねて、訪問されたことがあります」
「……そうなのか」
セージの声には、驚きと警戒が入り混じっていた。
レイはゆっくりと頷く。
「ジュン様は、国王にふさわしいお方だと思います。
領地の統治にも優れ、戦にも長けておられる。そして――人柄も、素晴らしい方です」
そこまで語ると、レイは静かに夫を見つめた。
「どちらが勝っても、不思議ではありません」
セージは言葉を失った。
目の前にいる妻は、まだ十一。
それなのに、語る言葉は老練な重臣のようだった。
軽々しく答えれば――試される。
その予感が、セージの胸に走る。
喉の奥が渇き、溜まった唾を無理に飲み込んだ。
レイの瞳がわずかに伏せられる。
「一方、キヨは……人柄が良いとは言えません。卑怯で、これといった武功もない」
セージが息を呑む。
「けれど――あの男は、人を操るのが巧みです。そして、それを支える弟がいる」
低く落とした声が、静かに部屋を満たす。
その言葉には、まだ幼い少女とは思えぬ確かな分析があった。
レイはまっすぐに夫を見た。
その瞳の奥には、恐れも迷いもなかった。
セージはただ、息をすることさえ忘れて――その視線を受け止めるしかなかった。
――十一歳。
まだあどけなさの残る頬。
けれど、その瞳の奥には、確かな冷静さが宿っていた。
「レイは、確かに叔母上の娘だね」
セージは静かに口を開いた。
彼とレイは従兄妹の関係でもある。
会ったことのない叔母――シリ。
彼女の名は一族の間で、賛美と非難の両方で語られていた。
『男だったら、立派な領主になっていた』という声。
『女のくせに政に口を出し、男を言葉ひとつで操る』という声。
セージにとってそれは、半ば伝説めいた噂として捉えていた。
だが、今――目の前で紅茶を口にする幼い妻の瞳を見た瞬間、
その“おとぎ話”が現実のものとして迫ってきた。
思考の奥に、じわりとした畏れが広がる。
ーーこのままでは、俺が試される。
セージは背筋を伸ばし、茶を一口飲んだ。
けれど、味がしなかった。
「……レイは、何を考えている」
掠れた声が、静かな室内に落ちる。
レイはわずかに微笑み、ただ一言返した。
「国を見ています」
短い言葉だった。
けれど、その響きが、セージの胸を鋭く貫いた。
その眼差しの奥には、幼い妻の愛情ではなく――
領主の妻として、一国の行く末を見据える光があった。
ーー恐ろしい娘だ。
セージは視線を逸らし、深く息を吐く。
その言葉を否定することも、受け入れることもできなかった。
「ジュン様側につくのは、領主として賢明な判断だと思います」
レイの声が、わずかに震えた。
「けれど……キヨを敵にするということは、姉と争うこと」
小さな手が、ドレスの裾をきゅっと握る。
「それが……辛いです」
泣きもせず、ただ静かな瞳でセージを見上げる。
セージは息を呑んだ。
ーーこの子は、すべてを理解している。
「……俺の決断が、レイを苦しませている。すまない」
その声は、彼が初めてレイに対して“大人の男”として言葉を向けた瞬間だった。
だからこそ、嘘はつけない。
誤魔化せない。
「だが、俺は領主として、この領と民、そして海を守らねばならない」
「はい」
レイの返事は小さいが、瞳はまっすぐに夫を見つめていた。
その表情は、幼さの奥に大人びた決意を宿していて、
セージの心を不意に乱した。
「……レイ、許してくれ」
セージは思わず、レイの小さな手を握りしめる。
「……はい」
レイの声は震えていた。
セージは、レイの手を握ったまま――一瞬、迷った。
そして、ゆっくりと肩を抱き寄せた。
それは、妹を守る抱擁ではなかった。
妻に触れる仕草に近かった。
背後で控えていた乳母のサキが、小さく「あっ」と声を漏らす。
その音で、セージは我に返った。
慌てて距離を取り、息を整える。
ーー妻とはいえ、まだ幼い。俺は、何を。
セージは立ち上がり、乱れた心を隠すように声を出した。
「……明日、出陣する」
「ご武運を……」
レイは深く頭を下げた。
扉を閉めた後、セージは長く息を吐いた。
心の奥で、ただ一つの確信があった。
――この少女は、ただの妃では終わらない。
いずれ、母のように“争いの渦”の中心に立つ女になる。
次回ーー本日の20時20分
出陣前夜。
ユウは見送りを命じられたドレスを拒み、
シュリとイーライは揺れる姫の心を必死に支えようとしていた。
城は静かに、戦の夜を迎えようとしている。
「戦の前の告白ーー私に見せてください」
ブックマークありがとうございました。
シリアス、展開が遅い、テンプレ外なのに、この作品を読んでくれる皆様に感謝しています。




