幼き妃、十一歳 ― 血を継ぐ娘 ―
セーヴ領・レイの部屋。
この数日、城内は慌ただしかった。
多くの兵が行き交い、廊下の片隅には、運びきれない荷物があちこちに積まれている。
その光景を見つめながら、レイは小さくため息をついた。
――あぁ、戦が始まるのだ。
夫・セージの姿を見たのは、もう何日も前のこと。
会議と準備に追われているのだろう。
無理もない。
争いが近いのだから。
けれど――この緊迫した空気の中で、
何ひとつ説明がないことが、胸に重くのしかかっていた。
この状況になっても、セージからは何の説明もない。
本来、女は政に口を出すことを許されない。
妻が真実を知らされるのは、争いが“決定してから”だ。
その現実を、ようやく痛感していた。
――女だから。
そして、私が“幼い”から、知らされないのだ。
唇を噛み締めながら、レイは思い出す。
母が、重臣たちと並んで地図を広げていたあの日を。
義父や重臣と対等に語り合い、兵の配置まで決めていた姿を。
当時は、それが当たり前だと思っていた。
けれど、今になってわかる。
母がどれほど異端で、どれほど強かったかを。
そのとき、扉の外で足音が止まった。
「・・・レイ」
名を呼ぶ低い声。
レイは振り返る。
そこには、軍服を纏ったセージが立っていた。
鎧の下に隠しきれぬ疲労が滲み、目の下には深い影がある。
「お帰りなさいませ」
レイは静かに立ち上がる。
サキが紅茶を差し出した。
セージはそれを受け取り、一口飲む。
しばし沈黙の後、言いにくそうに口を開いた。
「・・・しばらく、不在になる」
その一言で、すべてを察した。
けれどレイは、あえて問いを口にする。
「出陣されるのですか」
セージの手が止まった。
黒い瞳が彼をまっすぐ見つめている。
彼女に争いの話を隠すよう、家臣たちには口止めをしていた。
“女には理解できぬこと”――その前提が、今、音を立てて崩れた。
「なぜ・・・それを」
レイはまっすぐに言葉を返す。
「私は、半年前に落城を経験しています。争い前の空気くらい、分かります」
淡々とした声。
だが、その奥に宿るのは恐れでも涙でもない。
静かな覚悟だった。
セージは何も言えず、ただ妻を見つめた。
「セーヴ領は・・・ジュン様にお味方するのですか?」
核心を突く問い。
「レイ・・・なぜ、そこまで」
「この争いは、ジュン様とキヨの戦。国王の座をめぐるもの――そう推測しています」
セージは目を伏せ、手にしていたティーカップをそっと机に置いた。
カチャン、と乾いた音が響く。
その小さな音に、レイは彼の心の乱れを悟った。
――幼いと思っていた妻が、ここまで見抜いている。
セージは静かに息を吐いた。
「・・・どうして、それを」
その声には、驚きと戸惑い、そしてわずかな恐れが滲んでいた。
レイはまっすぐに夫を見つめていた。
黒曜石のような瞳に、怯えはない。
「・・・私は、ジュン様を知っています」
レイの言葉に、セージの眉がわずかに動いた。
「ジュン様を・・・?」
「ええ。昨年の冬、ジュン様は母を訪ねて、訪問されたことがあります」
「・・・そうなのか」
セージの声には、驚きと警戒が入り混じっていた。
レイはゆっくりと頷く。
「ジュン様は、国王にふさわしいお方だと思います。
領地の統治にも優れ、戦にも長けておられる。そして――人柄も、素晴らしい方です」
そこまで語ると、レイは静かに夫を見つめた。
セージは言葉を失った。
目の前にいる妻は、まだ十一。
それなのに、語る言葉は老練な重臣のようだった。
軽々しく答えれば――試される。
その予感が、セージの胸に走る。
喉の奥が渇き、溜まった唾を無理に飲み込んだ。
レイの瞳がわずかに伏せられる。
「一方、キヨは・・・人柄が良いとは言えません。卑怯で、これといった武功もない」
セージが息を呑む。
「けれど――あの男は、人を操るのが巧みです。そして、それを支える弟がいる」
低く落とした声が、静かに部屋を満たす。
その言葉には、まだ幼い少女とは思えぬ確かな分析があった。
「勝敗は・・・五分五分、といったところでしょうか」
最後の言葉を告げると、レイはまっすぐに夫を見た。
その瞳の奥には、恐れも迷いもなかった。
セージはただ、息をすることさえ忘れて――その視線を受け止めるしかなかった。
――十一歳。
まだあどけなさの残る頬。
けれど、その瞳の奥には、確かな冷静さが宿っていた。
「・・・レイは、確かに叔母上の娘だね」
セージは静かに口を開いた。
彼とレイは従兄妹の関係でもある。
会ったことのない叔母――シリ。
彼女の名は一族の間で、賛美と非難の両方で語られていた。
『男だったら、立派な領主になっていた』という声。
『女のくせに政に口を出し、男を言葉ひとつで操る』という声。
セージにとってそれは、半ば伝説めいた噂として捉えていた。
だが、今――目の前で紅茶を口にする幼い妻の瞳を見た瞬間、
その“おとぎ話”が現実のものとして迫ってきた。
思考の奥に、じわりとした畏れが広がる。
ーーこのままでは、俺が試される。
セージは背筋を伸ばし、茶を一口飲んだ。
けれど、味がしなかった。
「・・・レイは、何を考えている」
掠れた声が、静かな室内に落ちる。
レイはわずかに微笑み、ただ一言返した。
「国を見ています」
短い言葉だった。
けれど、その響きが、セージの胸を鋭く貫いた。
その眼差しの奥には、幼い妻の愛情ではなく――
領主の妻として、一国の行く末を見据える光があった。
ーー恐ろしい娘だ。
セージは視線を逸らし、深く息を吐く。
その言葉を否定することも、受け入れることもできなかった。
「ジュン様側につくのは、領主として賢明な判断だと思います」
レイの声が、わずかに震えた。
「けれど・・・キヨを敵にするということは、姉と争うこと」
小さな手が、ドレスの裾をきゅっと握る。
「それが・・・辛いです」
泣きもせず、ただ静かな瞳でセージを見上げる。
セージは息を呑んだ。
ーーこの子は、すべてを理解している。
「・・・俺の決断が、レイを苦しませている。すまない」
その声は、彼が初めてレイに対して“大人の男”として言葉を向けた瞬間だった。
だからこそ、嘘はつけない。
誤魔化せない。
「だが、俺は領主として、この領と民、そして海を守らねばならない」
「はい」
レイの返事は小さいが、瞳はまっすぐに夫を見つめていた。
その表情は、幼さの奥に大人びた決意を宿していて、
セージの心を不意に乱した。
「・・・レイ、許してくれ」
セージは思わず、レイの小さな手を握りしめる。
「・・・はい」
レイの声は震えていた。
次の瞬間、セージはそのままレイの隣に腰を下ろし、
かすかに震える肩を抱き寄せた。
それは、妹を守る抱擁ではなかった。
妻に触れる仕草に近かった。
背後で控えていた乳母のサキが、小さく「あっ」と声を漏らす。
その音で、セージは我に返った。
慌てて距離を取り、息を整える。
ーー妻とはいえ、まだ幼い。俺は、何を。
セージは立ち上がり、乱れた心を隠すように声を出した。
「・・・明日、出陣する」
「ご武運を・・・」
レイは深く頭を下げた。
扉を閉めた後、セージは長く息を吐いた。
心の奥で、ただ一つの確信があった。
――レイは、ただの妃では終わらない。
いずれ、母のように“争いの渦”の中心に立つ女になる。
次回ーー本日の20時20分
出陣前夜。
ユウは見送りを命じられたドレスを拒み、
シュリとイーライは揺れる姫の心を必死に支えようとしていた。
城は静かに、戦の夜を迎えようとしている。
「戦の前の告白ーー私に見せてください」
ブックマークありがとうございました。
シリアス、展開が遅い、テンプレ外なのに、この作品を読んでくれる皆様に感謝しています。




