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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第3章 潮騒の婚礼 ――そして戦が始まる
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初めて見た素肌、炎のように駆けて

「ユウ様! お待ちください!!」


シュリが声を振り絞って叫ぶ。


ユウを先頭に、シュリ、イーライが本館の廊下を疾走した。


その途中、呆然と立ち尽くす妃ミミの姿が目に入る。


さらに先には、乳母である母ヨシノの姿。


「母さん! 部屋にもどって!」

シュリの叫ぶ声が響く。


ヨシノは慌てて駆け出したが、三人の足の速さには追いつけない。


ユウは稲妻のように自室の扉を開け放ち、

そのまま部屋の中央まで進むと、ドレスのホックに手をかけた。


「ユウ様・・・!」

息を切らしながら追いついたシュリの声が、かすかに震える。


冬の淡い光が差し込む中、

ユウは怒りと悲しみに任せて、身にまとうものを次々と外していった。


紅のドレスが床に落ち、静かな音を立てる。


その白い肌を、光がかすかに撫でた。


「・・・ユウ様」

声が掠れる。


その姿は、怒りに燃える炎のようでありながら、

どこか、壊れそうなほど脆かった。


次の瞬間、シュリは理性を取り戻し、慌てて扉を閉めた。


――見てしまった。


生まれた時から、ずっと傍にいた。


けれど――彼女の“背中”を見ることはあっても、その素肌を見たことは一度もなかった。


光の中に浮かぶ白い背中が、焼きつくように脳裏に残った。


それは、彼女の肌というよりも――心の“素顔”を見てしまったような気がした。


胸の奥で鼓動が高鳴り、息が詰まる。


閉じた扉の前で立ち尽くしたまま、

ふと横を見ると、イーライの顔にも動揺の色が浮かんでいた。


――お前も、見たのか。


シュリは小さく目を閉じた。


静まり返った廊下に、二人の息だけが響いていた。


扉を閉めたものの、ユウの行動が気になって仕方がなかった。


衣服を着ていないままなら、無闇に部屋へ入るわけにもいかない。


――母さん、早く。


シュリは拳を握りしめ、扉の前で息を詰めた。


次の瞬間、扉が静かに開く。


そこに立っていたのは、紺色の乗馬服を纏ったユウだった。

その手には、しなやかな乗馬鞭。


――乗馬?


シュリは思わず目を見開く。


廊下の向こうで、その姿を見たウイが息を呑んだ。


「姉上・・・どこへ行かれるのですか?」


ユウは何も答えず、ただ足音を響かせて歩き出した。


息を切らせて駆けつけたヨシノが、慌ててユウの腕を掴む。


「ユウ様、そんな格好をして・・・どこへ行かれるのですか」

縋るような声。


けれどユウはその手を静かに外し、さらに歩を早めた。


「母さん!」

シュリは叫んだ。


「ミミ様に伝えてください。ユウ様は乗馬へ向かわれます!

俺とイーライもご一緒します!」

息を荒げながら、そう告げる。


姫とはいえ、城外へ出るには報告が必要だ。


事後報告になろうとも――止めるより、今は見守るしかない。



ユウは無言のまま、馬場へ向かった。


冬の冷気を切り裂くような足取り。


馬の世話をしていた馬丁が、突然の姿に驚き、慌てて頭を下げる。


「ユウ様!?」


「馬を出して」

短く、冷たい声だった。


馬丁は一瞬ためらったが、その瞳の鋭さに逆らえず、鞍を備えた栗毛の馬を引き出した。


「ユウ様、危険です!」

シュリの声が背後から響く。


けれど、ユウは振り返らない。


馬の背に軽やかに飛び乗り、手綱を強く引いた。


「ユウ様!」

イーライの制止も届かぬまま、ユウは身を低くし、脚で馬の脇を蹴った。


風が爆ぜた。


栗毛の馬が、地を蹴って駆け出す。

雪を孕んだ風が、頬を刺す。


それでもユウは止まらない。


気づけば、シュリの足はもう走り出していた。

厩舎に駆け込み、手近な馬の手綱を掴む。


「お待ちください、ユウ様!」


慌てて飛び乗った瞬間、後方からイーライの声が響いた。


「無茶だ、あんな速度では――!」

それでも、彼も同じように馬を出し、風を切るようにシュリの後を追う。


三頭の馬が、朝靄を切り裂いて駆けた。


前を行く赤い外套が、霧の中で揺れる。



その背中は、怒りと悲しみを振り切るように――まるで、燃え上がる炎が走っているようだった。


その姿は、誰の手にも止められぬ疾風だった。


蹄の音が、凍てついた地面を打つ。


風を裂きながら、ユウの馬が一直線に走る。


「ユウ様――!」

後方から、シュリの声が追いかける。


その声を振り切るように、ユウはさらに鞭を打った。


馬が嘶き、速度を上げる。


けれど、すぐにその横に並ぶ影があった。


「・・・っ!」

ユウが横目で見ると、風を切って駆けるシュリの姿があった。


彼もまた、馬の腹を蹴り、必死に追いついたのだ。


その表情には焦りではなく、決意が宿っている。


「危険です、ユウ様!」

叫ぶ声が風に溶ける。


ユウは答えず、ただ横目で一瞬だけ彼を見た。


その瞳に、涙が光ったように見えた。


シュリは息を呑む。


怒りと悲しみ、そしてどうしようもない衝動。


ユウのすべてが、その走りに宿っていた。


「・・・放っておけるものか」

誰に聞かせるでもなく、シュリが呟く。


二頭の馬が並び、

冬の風の中を、まるで炎と影のように駆け抜けていった。


やがて、小高い山の上でユウが手綱を引いた。


馬の蹄が土を掻き、息を荒げて止まる。


見下ろした先には、崩れかけた石壁――。

かつて、幼い日々を過ごしたレーク城の跡地があった。


枯れ草に覆われた瓦礫の中に、まだ当時の庭園の名残が見える。


「・・・ここまで、来たのですね」

シュリの声が風に消える。


ユウは何も言わず、馬上からその光景を見つめていた。


まるで、もう戻れないものを見ているように。


ユウは息を荒げ、青い瞳で遠くを見つめていた。

その瞳には、怒りと悲しみ、そしてほんのわずかな迷いがあった。


「・・・シュリ、見事な乗馬だわ」

ユウが小さくつぶやく。


「ずっと・・・ユウ様のお側にいましたから」

シュリは息を整えながら微笑んだ。


その少し後ろで、イーライの馬が追いつく。


彼は距離を置いたまま、何も言わずに二人を見守っていた。


ーーユウ様の手綱さばきは見事だった。


馬の動きを完全に読み、わずかな体重移動で進路を操る。

その背筋はまっすぐで、風を切る姿はまるで戦場を駆ける将のよう。


隣を走るシュリもまた、彼女の呼吸に合わせるように馬を操る。

手綱を握る指先には無駄がなく、馬と心がひとつに溶け合っていた。


蹄の音が、ひとつ、またひとつと重なっていく。

それはまるで、二人の心が確かに繋がっている証のようだった。


自分は、二人の跡を追いかけるだけだった。




三人は、かつて馬場があった方角へと向かった。


その道は、幼い頃から身体が覚えている道だった。

風の匂いも、土の感触も、昔と変わらない。


木々の間から、ロク湖が見えた。


その中央に、ぽっかりと浮かぶチク島。


ユウは馬上から降り、風に髪をなびかせながら、しばらくその場に立ちすくんだ。


シュリとイーライは、言葉もなく、少し後ろに控える。


「・・・ここの景色が、一番好き」

ユウが小さくつぶやいた声は、どこか遠い記憶のようだった。


亡き母の口調を、思い出す。


かつて父と母が並んで眺めた、この湖の景色。


いま、その二人はもういない。


そして自分は――母に託された妹と、争わなければならない立場にいる。


「イーライ。セーヴ城に、手紙を送ることはできる?」

ユウの声は震えていた。


レイの夫――セージに、伝えたい言葉があった。


「残念ですが・・・セーヴ領とは、すでに領交が閉ざされました」

イーライが言いにくそうに答える。


「・・・そう」

ユウの返事は、地面に吸い込まれていった。


「・・・母上、ごめんなさい」

ユウはその場に膝をつき、静かに地面に座り込む。


「レイを助けることが・・・できなかった」

声は小さく、けれど確かな痛みを帯びていた。


駆け寄ったシュリは、ユウの背に手を添える。


その背から、悲しみがとくとくと流れ出てくるようだった。


――何も言えない。


今はただ、そばにいることしかできない。


三人の間を、冷たい風がすり抜けていく。


木々の葉を鳴らしながら、風が湖を渡る。

その音は、まるで母の涙がいまもこの湖に降り注いでいるようだった。



次回ーー明日の20時20分

激しい衝動のまま湖へ走ったユウは、帰り道でようやく静けさを取り戻す。

その夜、眠るユウの傍らで――シュリは気づく。

ユウが似てきているのは“血”ではなく、誰かを守ろうとする“強さ”なのだと。

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