彼女は、まるで炎そのもの
朝稽古を終え、身支度を整えたシュリは、
三姉妹の部屋へと向かった。
――三姉妹の部屋、といっても、もう二人しかいない。
セーヴ領の件は知らせたくない。
けれど、レイ様の婚約の時のことを思えば、
早めにユウ様へ伝えるべきだろう。
扉を開けると、ユウとウイがソファに並んで座っていた。
穏やかな朝の光の中、二人は楽しげに話している。
穏やかな朝の時間――それを壊すのは、自分だ。
「シュリ! おはよう!」
ウイが無邪気に微笑む。
ユウは、静かにこちらを見つめた後、小さく微笑んで言った。
「おはよう」
今日のユウは、新しい冬服を纏っていた。
燃えるような深紅のドレスは、金の髪を際立たせ、まるで焔のようだった。
「おはようございます」
シュリは二人に丁重に頭を下げる。
けれど、その視線は自然とユウへ向かってしまう。
ユウはその眼差しを受け止め、少し恥ずかしそうに髪を耳にかけた。
その仕草を見て、シュリの胸が痛む。
「・・・お話があります」
シュリは二人の前に進み出て、深く頭を下げた。
「争いが・・・始まります」
ユウとウイの表情に、影が差した。
――無理もない。
半年前、彼女たちは戦で母を亡くしたのだ。
「キヨ様と・・・ジュン様が争うご様子です」
背後に控えていた乳母たちが、息を呑む音がした。
「セーヴ領は・・・ジュン様側につく可能性があります」
その言葉に、ウイの手からハンカチが滑り落ちた。
ユウは黙って聞いていたが、やがて目を閉じ、
次の瞬間、勢いよく立ち上がった。
「ユウ様!」
シュリが慌てて呼び止める。
足早に扉へ向かうユウの手を、シュリは反射的に掴んだ。
「ユウ様、どちらへ・・・?」
――わかっている。けれど、聞かずにはいられなかった。
ユウは振り返り、その青い瞳をまっすぐにシュリへ向けた。
「あの男の元よ」
その瞳は、怒りで青く燃えていた。
◇
「ユウ様! お待ちください!」
駆けるように回廊を走るユウの背中を、シュリは必死に追った。
後方では乳母のヨシノが裾を握りしめながら懸命に走る。
だが、ユウとシュリの足の速さには到底追いつけず、
「ユウ様――!」という声は次第に遠のいていった。
「ユウ様!」
シュリが再び叫ぶ。
だが、怒りに身を震わせたユウの耳には、
その声が届いているのかどうかも分からない。
足を止める気配はない。
それでも――呼ばずにはいられなかった。
『そばにいます』
それだけを伝えたい。
そうでなければ、ユウは怒りのまま我を忘れてしまう。
二人は、ものすごい勢いで城の本館へと駆け込んだ。
本館の中では、戦の準備に追われる兵たちが行き交い、
鎧の擦れる音と命令の声が交錯している。
その中を、ユウは風のように駆け抜けた。
向かう先は――キヨの執務室。
その扉の前で、書類の束を抱えたイーライが歩いていた。
「イーライ!!」
シュリが声を張り上げた。
彼がこの名を呼ぶのは、初めてだった。
「ユウ様を止めてくれ!」
イーライが顔を上げると、
青い瞳に怒りの炎を宿したユウが、まっすぐに迫ってくる。
聡明なイーライは、一瞬で状況を察した。
手にしていた書類の束を床に落とし、咄嗟にユウの腕を掴んだ。
「ここから先は、キヨ様の執務室です。・・・何かご用でしょうか」
低く落ち着いた声だった。
「あの男に会いに行くの!」
ユウが叫ぶ。
その勢いに、イーライの胸が一瞬だけ震えた。
怒りに身を震わせるユウの姿は、恐ろしいほど美しかった。
何度も心を奪われたその瞳が、今は憎しみで燃えている。
イーライは、胸の奥にわずかに滲んだ感情を押し殺し、淡々と告げた。
「キヨ様は今、多忙です。約束がない限り――」
言葉の途中で、息が止まった。
ユウがイーライの胸元を掴み、顔を近づけたのだ。
「あの男に会いたいの。今すぐに!!」
距離が、近すぎた。
冷たい冬の光の中で、ユウの睫毛が震える。
イーライの頬に、かすかな熱が上る。
その一瞬を断ち切るように、
「何事じゃ」
重い扉が軋む音を立てて開いた。
執務室の奥から現れたのは、領主――キヨだった。
扉を開けたキヨの背後には、エル、そしてサム、ノアが控えていた。
「おお、ユウ様! ご機嫌はいかが――」
キヨが笑みを浮かべかけた瞬間、その表情が止まる。
ユウの瞳に宿る怒りを見て、空気が一変した。
次の瞬間、ユウはキヨへと詰め寄る。
「ユウ様!」
シュリが駆け寄り、後ろから抱きとめるように腕を回した。
――領主に手を上げるわけにはいかない。
その判断は、ほとんど反射だった。
「セーヴ領を・・・攻めるの?」
ユウは震える声で問い詰めた。
「――あぁ、それか」
キヨはわざとらしく肩を落とし、残念そうに首を振る。
「誠に残念じゃった。こちらとしては、レイを嫁がせて同盟を深めようとしたのに・・・
ジュン殿の臣下についたのじゃ」
「セーヴ領を・・・攻めないで!」
声が裏返った。
怒りよりも、涙が勝っていた。
「ユウ様、残念ながらそれは――」
エルが慎重に口を開こうとした瞬間、
「うるさい!!」
ユウの声が鋭く響いた。
その強い眼差しに、エルは息を呑む。
――ゼンシ様。
目の前の少女に、かつて仕えた主の影を見た。
一瞬、膝を折りそうになる。
「可哀想に・・・妹と争うとは」
キヨは芝居がかった仕草でハンカチを取り出し、涙を拭った。
「それをしたのは――お前だ!!」
ユウの絶叫が、部屋の空気を裂いた。
沈黙。
誰もが、その怒りに震えるユウの姿から、
炎の中に立ち尽くしたかつての主、ゼンシを思い出していた。
ただ一人、シュリだけがユウを抱きとめ続けている。
「ユウ様、落ち着いてください・・・!」
ユウはなおもキヨに手を伸ばす。
その瞬間、イーライが前に出て立ちはだかった。
「兄者、部屋へお戻りください」
エルがキヨの腕を掴み、半ば押し込むように執務室へ戻す。
ドアの前に立ち、盾のようにその身を構えた。
「逃げるな!!」
怒号が響く。
ユウの瞳は、まるで毒を含んだ炎のように燃えていた。
その危うい美しさに、誰もが息を呑む。
――まるで、ゼンシ様だ。
「ユウ様・・・息を吸いましょう」
シュリが震える声で呼びかける。
必死に彼女を抱きとめ、引きずるようにして、扉から遠ざけた。
角を曲がり、執務室の扉が見えなくなった。
「シュリ! 離して! あの男に伝えないと!」
ユウが泣きながら、シュリの腕の中で暴れる。
その声には、怒りと悲しみがないまぜになっていた。
「・・・争いは、止められません」
シュリは静かに言った。
その言葉に、ユウの動きが一瞬だけ止まる。
「どんなにユウ様が抵抗されても・・・
ジュン様側についたのは、セーヴ領自身の判断です」
ユウは震える唇を噛みしめ、目を伏せた。
瞳の奥に、悲しさと悔しさが滲む。
――わかっていた。
あの男を責めても、仕方のないことだと。
それでも、この心の苛立ちは抑えられない。
「・・・でも、私の妹なのよ・・・!」
かすれた声でそう漏らすと、ユウの肩が震えた。
シュリはその肩を強く握りしめた。
「はい」
少し離れた場所で、イーライがその光景を見つめていた。
――途方もない衝動だ。
自分には、ただ立ち尽くすことしかできない。
ユウという存在の強さに、心の奥を圧し潰されるような思いがした。
ユウは無言で立ち上がった。
「・・・どう、されましたか」
シュリが顔を上げる。
その瞳の奥には、まだ煮えきらぬ怒りと悲しみが渦巻いていた。
――まだ、感情の波がおさまっていない。
シュリは息を呑む。
次の瞬間、ユウは振り向きもせず、自室の方へと駆け出した。
「ユウ様――!」
シュリの呼ぶ声が震えた。
彼女の背に触れようとして、届かない。
「イーライ!」
シュリは走りながら、背後に叫ぶ。
「一緒にユウ様に、着いてくれ!」
――この激情は、自分ひとりでは抑えきれない。
男の力が必要だ。
そう判断して、シュリもすぐにその後を追った。
イーライも遅れて駆け出していく。
◇
「・・・なんて姫だ」
執務室の前で、エルが呆然とつぶやいた。
ユウの足音が、遠ざかる廊下に小さく響いていく。
それを聞いたかのように、キヨがそっと扉を開け、顔を覗かせた。
「行ったか?」
「行きました。イーライが後を追っています」
エルは声を引き攣らせながら答えた。
「いやはや・・・ものすごい剣幕だった」
キヨは額の汗をハンカチで拭う。
「・・・あれがユウ様。シリ様にも、ゼンシ様にも似ておられる」
隣にいたノアがうわ言のように呟く。
「兄者、あの姫は手に負えません。遠くに嫁がせた方が――」
エルはそこで言葉を止めた。
キヨの瞳が、どこか恍惚とした光を帯びていたからだ。
「・・・あの勢いが、良いのだ。シリ様の娘よ。あの姫を必ず――我に従わせる」
エルは息を呑み、何も言えなかった。
兄の瞳に宿るのは、理性ではなく執着だった。
――彼女は、まるで炎そのもの。
触れれば焼かれる。
それでも、誰も目を逸らすことができなかった。
小説の合間に書いたエッセイを公開しました。
タイトルは
「家族に『書き狂い』と言われた日常 1日2万字を書く人間の暮らし」
淡々と過ごしていたのですが、
家族からは「書き狂っている」と言われました。
そのままエッセイにしました(笑)
創作の裏側や、普段の生活も書いていますので、
気分転換に読んでいただけたら嬉しいです。
https://ncode.syosetu.com/N2523KL/
次回ーー明日の20時20分
ユウは崩れかけた故城を前に、静かに膝をつく。
――「レイを助けられなかった」
その呟きは冬の風に消え、
三人を包む沈黙の先で、さらに大きな運命が動き始めていた。
「初めて見た素肌 炎のように駆けて」




