好いている人なら・・・
「寒くなったわね」
ユウが上着を羽織りながら、暖炉のそばへ歩み寄った。
レイが嫁いで、もう半月が経つ。
季節は秋から冬へと、急ぎ足で移り変わっていく。
――元気にしているだろうか。
お相手は、どんな人なのだろう。
ユウの視線は、自然と部屋の片隅に向かう。
そこは、いつもレイが座っていた場所。
小さな体でソファに埋もれ、足をぶらぶらと揺らしていた姿が、
今も焼き付いて離れない。
「・・・レイ」
小さく呟いたその瞬間――
「ユウ様! レイ様からお手紙です!」
ヨシノが息を弾ませながら、白い封筒を掲げて駆け込んできた。
「・・・レイから?」
ユウは立ち上がり、震える手で手紙を受け取った。
封に押された印は、見慣れぬ紋章。
――セーヴ城のものだ。
暖炉の火がゆらりと揺れ、封蝋に淡い影を落とす。
ユウは深く息を吸い込み、指先で慎重に封を切った。
中から現れたのは、整った筆跡で書かれた短い手紙。
一文字一文字に、幼い頃から見慣れたレイの癖がにじんでいる。
姉上・姉様へ
セーヴ城は潮の香りがします。
城の中にいても海の音がします。
最初は怖かったけれど、今は好きになりました。
セージ様は、とても穏やかな方です。
サキも元気です。
どうか、姉上も姉様もお体を大切にしてください。
手紙を読み終えたユウの指先が、小さく震えた。
「優しそうな人で良かったわ・・・」
隣で手紙を覗き込んでいたウイが、ほっとしたように微笑む。
「・・・本当に」
ユウはゆっくりと頷いた。
けれど、心の奥では――
遠い潮の香りの向こうに、もう一つの不安が芽吹いていた。
それは、ウイには決して言えないことだった。
◇
昼下がり。
ユウは廊下の突き当たりにあるバルコニーへ出ていた。
湖に突き出したように造られたその場所は、
風がよく通り、陽の光が白く反射している。
手すりに指をかけたまま、ユウは湖面をじっと見つめていた。
「・・・シュリ」
背後に控えていた青年の名を呼ぶ。
「こちらへ」
シュリは頷き、控えめにユウの隣へ立った。
二人の間に、風がそっと流れる。
「レイ様が、ご無事でよかったですね」
しばしの沈黙のあと、シュリが静かに口を開く。
ユウは答えなかった。
ただ、湖を見つめ続ける。
「・・・私が知りたいことは、何も書いてなかったの」
ようやく口を開いたユウの声は、かすかに震えていた。
「・・・知りたいこと?」
シュリが首を傾げる。
「その・・・夜のことよ」
その一言に、シュリの喉がごくりと鳴った。
「・・・あ、はい」
言葉を失い、俯く。
「そういうことは・・・手紙には、書かないと思います」
落ち着こうとするように、低く静かに言った。
「もちろん、そうね・・・わかってる」
ユウは小さく息を吐いた。
手紙は私的なものではない。
けれど――だからこそ、何も書かれていない部分が気になる。
「シュリ、教えてほしいの」
ユウが真っ直ぐに顔を上げる。
「何を・・・ですか?」
シュリの声がわずかに上ずる。
「セージ様は十九と聞いたわ。そのくらいの年の男の人は・・・その・・・」
言葉が喉で詰まり、ユウは手すりを強く握った。
「・・・そういうことを、したいと思うの?」
しばらくの沈黙。
遠くで風が波を撫でる音だけが響く。
「・・・思うと思います」
シュリは俯いたまま、正直に答えた。
「そう・・・なのね」
ユウは息を呑み、思わずシュリの顔を覗き込む。
「・・・はい」
視線が交わる。
その瞬間、二人の間に何かが触れたように、空気が揺れた。
「・・・それは、十一の子にも?」
ユウの声が、不安に震える。
「・・・それは・・・お相手の方によります」
シュリは少し考え込み、それから真っ直ぐに答えた。
「少なくとも、私は・・・そういう気持ちは、芽生えないと思います」
ユウは小さく頷き、安堵の息を漏らす。
けれど、心の奥ではまだ渦のような不安が残っていた。
そして、不意に口をついて出た。
「・・・シュリも、そういうことを・・・したいと思うの?」
それは、無邪気な問いだった。
けれど、声にはどこか熱がこもっていた。
シュリは一瞬、言葉を失う。
「・・・それは・・・お相手の方によります」
「好いている人なら?」
ユウの青い瞳が、まっすぐに彼を射抜く。
逃げ場のない視線。
胸の奥が熱を帯びる。
「・・・好いている人ならば、もちろん・・・したいと思います」
答えた瞬間、空気が止まった。
風が強く吹き抜け、二人の髪を揺らす。
その風で、シュリはようやく我に返った。
――危ない。
このままでは、心の奥を全部見透かされてしまう。
「あ・・・」
思わず口を押さえる。
横目でユウを見ると、彼女もまた頬を紅潮させていた。
互いに、言葉を失ったまま。
風だけが、湖の上を渡っていく。
胸の奥が、痛いほど熱い。
ユウに対する気持ちは明白だった。
それでも。
ーーこの想いだけは、誰にも知られてはいけない。
シュリは頬を赤くしたまま、目を伏せた。
ユウも、またシュリの熱い眼差しに心が震えていた。
『好いている人なら・・・もちろん・・・したいと思います』
まるで自分に言われたかのようで、胸が高鳴った。
火照る顔に湖風心地よい。
けれど、それと同時に不安は未だに胸に残る。
湖面を渡る風が、少し冷たくなった気がした。
ーーあのシュリですら、そう思うのなら・・・男の人は女性に対して、
欲があるのだろう。
遠い海の向こう。
レイが笑っているのなら、それだけでいい。
けれど、胸の奥の波は、まだ静まってくれなかった。
「レイが幸せなら・・・それで良いのだけど」
思わず口に出た言葉に、シュリは黙って頷く。
セージ様と穏やかに。
平和な日々を過ごしてほしい。
ユウが抱いたささやかな願いはーー叶わなかった。
次回ーー明日の20時20分
潮風に馴染み始めたレイの暮らしに、ある日、不穏な声が届いた。
セージが選ぼうとしている道は――姉たちの領と刃を交える未来。
握りしめたシーグラスの冷たさが、胸騒ぎをいっそう強くした。




