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知らない男と、明日

三日の旅路を経て、レイは セーヴ領 に到着した。


馬車の長い揺れで、脚がまだ少し震えている。


馬車の窓を開けると、潮の香りが押し寄せる。


潮風に混じって、遠くで波が砕ける音が響いた。


「ここが……これから住むところ」


レイは馬車の窓から顔を出し、ゆっくりと左右を見渡した。


肌にあたる風は、ワスト領の湖風とはまるで違う。


少し塩気を含んでいて、頬に触れるたび、

ここが、自分の世界になるのだと感じた。


港の方から、船の帆が風をはらむ音がする。


白い城壁は陽光を受けて眩しく、

波しぶきがきらめきながら空に散っていた。


レイは胸の奥に、小さな痛みと同時に、

見たことのない世界への不安で――思わず足が震えた。


たどり着いた城門前には、ずらりと家臣たちが立ち並んでいた。


その光景に、馬車の中でレイは足がすくんだ。


――怖い。


振り返ると、乳母のサキが不安そうな顔で頷いた。


――もう、姉上も姉様もいない。


不安なとき、いつも前に立ってくれたユウ。

そばで手を握ってくれたウイ。


いつも、一緒にいた。


二人の姿を思い浮かべた途端、涙がこぼれそうになる。


けれど、ここで泣くわけにはいかない。


――これからは、自分の足で歩かなくては。


唇を噛み、レイは息を整えた。


胸の奥で小さく何かが崩れ、代わりに“覚悟”のような痛みが残る。


そして、馬車から一歩を踏み出した。


家臣たちは一斉に頭を下げ、その合間からちらりと視線を送ってくる。


そこに立つのは、まだ年若い少女。


黒い髪、整った顔立ち――美しいが、まだあどけなさを残していた。


それでも、その小さな背中からは、

確かに「姫」としての気高さがにじみはじめていた。


家臣たちの間を通り抜けると、

城門の前に、がっしりとした体格の青年が立っていた。


――あの人だ。


夫となる人は、思っていたよりも背が高く、肩が広い。


逆光のせいで、顔はよく見えない。


けれど、胸の奥で何かがひゅっと縮まった。


近づくにつれ、光の中からその輪郭が浮かび上がる。


淡い金髪が潮風に揺れ、日焼けした肌が陽光を弾く。


そして――その瞳は、淡い青。


レイは思わず息を呑んだ。


「ようこそ、セーヴへ」

青年の声は、思っていたよりも柔らかかった。


「……あなたが、セージ・ロス様?」

レイが小さく問いかける。


「あぁ、そうだ」

彼はレイの目線に合わせて、少しだけ膝を曲げた。


笑うと目尻に皺が寄る。


その表情に、“怖さ”が少しだけほどけた。


「おいで」

その声は、妹に話しかけるような優しさがあった。


――けれど、その手は、硬かった。


――怖く、ないかもしれない。


レイは、静かに頷いた。



「優しそうな方で良かったですね」


ようやく椅子に腰を下ろしたレイに、サキが茶を出す。


ロク城から持ってきたカモマイルの香りが、潮風の中でほのかに揺れた。


窓の外には、どこまでも広がる青。

光にきらめく波。


――これが、海。


姉上が見たがっていた景色。


姉の顔を思い出した途端、胸の奥が痛む。


涙が出そうになって、慌てて顔を伏せた。


「レイ様……明日はご婚礼です」

サキの声が優しく響く。


レイは黙って頷いた。


サキが一呼吸おいて、静かに咳払いをした。


「そのあとは、初夜でございます」


レイはゆっくりと顔を上げる。


瞳がわずかに揺れた。


「私は……」


まだ十一歳。


サキはレイの心を察したように、うなずく。


「セージ様はお優しい方です。おそらく……何もないでしょう。

 けれど、一応……心得だけはお伝えしておかねばなりません」


「……もう、知っている」

レイは俯いて呟く。


幼い頃から、その理論は叩き込まれていた。


姫とは、領のため、民のため、

領主の元に嫁ぎ、子をなし、繁栄をさせる。と。


「でも、絵で見たほうが……わかりやすいかと」

そう言って、サキは薄い本をそっと開いた。


ページの上で、知らない男女の姿が重なっている。


その瞬間、レイの顔から血の気が引いた。


「……こんなことを?」

思わず口に手を当てた。


息が詰まり、目の前が揺れる。


サキは静かに本を閉じた。


「念のためです。ただ……セージ様がお求めになったら……

応えるようにしないと」


レイは、呆然としながら小さく頷いた。


けれど胸の中では、

まだ知らない“現実”の影が、じわりと広がっていた。


夜になり、レイは寝台の上に横たわった。


部屋の窓の外では、絶え間なく波の音が響いている。


静かなのに、どこか寂しさを運んでくる音だった。


いつもは、姉たちと並んで眠っていた。


笑い声や、優しい話し声があった夜。


けれど、今は何もない。


一人きりの夜に、心が軋む。


レイは寝返りを打ち、窓の外を見つめた。


見えるのは、果てのない闇。


――あんなことを、結婚するとするのか。


初めて会った男の人と。


その思いがよぎるたび、胸の奥がきゅっと縮んだ。


母上も……同じように怖かったのだろうか。


姉上は、それを知っていた。


だから、あの日――母上の笑顔の奥にある“痛み”を見抜いていたのだ。


私と姉様は……知らなかった。


昨年、美しい花嫁衣装を着た母を羨望の眼差しで見つめていた。


ーー自分も大人になったら、母上のように嫁ぐのだ、と。


まさか、一年後、自分が嫁ぐなんて。


子どもの頃に夢見た“花嫁”は、もっと輝いていたはずなのに。


全てはーー争いに負けたから。


母上は死に、自分は戦略の駒として差し出された。


初夜のことを想像すると泣きたくなる。


母上は、あの優しい笑顔の裏で、どんな気持ちを隠していたのだろう。


不安で、肩が震える。


「姉上……姉様……」

小さな声が、部屋の静寂に溶けて消えた。


呼んでも、二人はもう届かない遠い場所にいる。


レイは懐に手を入れた。


指先が、小さな布袋に触れる。


――母上から、最期に渡されたもの。


その重みを感じた瞬間、胸の奥から何かがこみ上げた。


「……母上……怖い……」

呟いた声は震えていた。


次の瞬間、頬を伝う涙が枕を濡らした。


蝋燭の火が静かに揺れる。


外では波が、まるで誰かのすすり泣きのように、

絶え間なく、夜を叩いていた。


第3章スタートです。よろしくお願いします。


次回ーー明日の9時20分


レイが嫁いだ後、ユウの胸にだけ痛みが残る。

夕暮れ、甘く苦い香が漂い、イーライが静かに告げた。

「……部屋の中で、キヨ様がお待ちです」




【登場人物】セーヴ領編

■レイ


十一歳でセーヴ領へ嫁ぐことになった姫。

幼さを残しつつも、内側には誇りと覚悟が芽生えつつある。

姉ユウ・ウイの不在が胸に痛く、初夜に怯える少女。


■サキ


レイの乳母。穏やかで優しいが、娘のように育てたレイを案じている。

幼いレイに“花嫁の心得”を教える役目を負い、胸を痛めている。


■セージ・ロス


レイの夫となる青年。

金髪と淡い青の瞳を持ち、明るく人懐こい。

初対面でレイの緊張をほぐすほど柔らかな性質を持つが、領主としての責務も背負っている。


■セーヴ領家臣たち


レイを出迎えるために勢揃いした家臣団。

幼い姫をどう迎えるべきか、互いに静かに様子を窺っている。


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