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失う日、姫は泣き、乳母子は抱きしめた

石畳に座り込み、泣き続けるユウの背中を、

ウイは涙を流しながら見つめていた。


金色の髪が朝日に照らされ、

こんなにも悲しい朝なのに、あまりに美しく輝いて見えた。


静かに佇むウイの横で、ミミが控えめに声をかけた。


「・・・ユウ様に、お声をかけては?」


今の自分の立場では、悲嘆にくれるユウに寄り添うことはできない。


けれど――妹であるウイならば、その痛みを分かち合える。


そう思っての言葉だった。


ウイは群青色の瞳に涙を湛えたまま、静かに首を振る。


「今は・・・姉上に声をかけることはできません」


その返答は、ミミにとって意外なものだった。


「・・・どうして?」


「今の姉上は、心が乱れています。止められないのです」

ウイの声は小さく、けれどはっきりしていた。


「鎮められるのは・・・」

そう言いかけて、唇を閉ざした。


ミミはウイの視線を追った。


その先には――シュリが、必死にユウへ声をかけている。


「ユウ様、部屋に戻りましょう」


「ここにいる」

ユウの声音は硬く、頑なだった。


まるで、ここにいればまだレイに会えると信じているようだった。


「・・・ドレスが濡れてしまいます」

シュリが静かに言う。


「ここにいるの!」

ユウが声を荒げた。


シュリは震えるユウの背に手を当て、低く落ち着いた声で耳元で囁いた。


「ユウ様、息を吸って・・・そう、ゆっくり。今度は吐いて。・・・もう一度、吸って」


その声は不思議と静かで、ユウの震えが少しずつ収まっていく。


ミミは目を見開き、その様子を見つめた。


すぐ隣にいた乳母のヨシノに視線を送ると、ヨシノは静かに頷き、低い声で説明した。


「激しい感情の波のあと・・・ユウ様は眠りにつかれることが多いのです」

伏し目がちにそう伝える。


――抑えきれない心の嵐。


それを受け止める鎮めるのが、あの乳母子なのだ。


ーーシリ様が、あの青年をユウの側に置いた理由は、これもある。



やがて、ユウの背がゆっくりと崩れた。

力が抜けたように、シュリの腕に身体を預ける。


「母さん、寝台の準備を」

シュリの声は落ち着いていたが、ユウを抱えるその手は震えていた。


ヨシノは「失礼します」と小さく頭を下げ、シュリのあとを追った。


呆然とその場に立ち尽くすミミ。


城門に残ったのは、彼女と、数人の侍女、

そして苦い表情を浮かべるイーライだけだった。


イーライは、去っていく背中をじっと見つめる。


――守りたいのに、守れない。


その想いが、胸の奥で鈍く疼いた。



「姉上は・・・いつになったら・・・」

ウイの声が小さく漏れる。


「・・・寝ておられます」

ヨシノは扉の前で静かに呟いた。


もう昼過ぎ。

ユウはまだ、深い眠りの中にいるようだった。


「いつ起きるかは・・・わかりません」

ヨシノは困惑したように答える。


「今日は何も決まっていません。シュリと私で付き添います」


ヨシノは深く頭を下げ、静かに立ち去った。


――そして、夕方。


部屋が茜色に染まりはじめた頃、ユウの長いまつ毛がゆっくりと震えた。


「・・・起きられましたか?」

シュリとヨシノが顔を覗き込む。


「・・・私・・・」


ぼんやりとした目の焦点が定まり、次の瞬間、記憶が一気に蘇る。


――嫁いでいったレイ。


あの、寂しげな黒い瞳。


「・・・レイ」

ユウの唇が、ゆっくりとその名を紡いだ。


ヨシノの肩がピクリと強張る。


――だめだ。まだ感情の波が引いていない。


即座に察したシュリが静かに言った。


「母さん、部屋を外してくれる?」


ヨシノは頷き、そっと部屋を出る。


扉が閉まる音を聞いた瞬間、ユウは寝台から身を起こした。


そして、迷いもなく立ち上がる。


「・・・どこに行かれるのですか?」

シュリが、行く手を塞ぐように立ちはだかった。


「・・・あの男に頼んで、私がレイの代わりに嫁ぐの」


ユウの瞳は危うく揺らめいている。


その光に、狂気と哀しみが入り混じっていた。


「それはできません」

シュリの声は、驚くほど静かだった。


「私が・・・行きたいのよ!」


何度も繰り返してきた言葉。


“政のためだから”と自分に言い聞かせてきたけれど、

本当は――納得などできていなかった。


「なんで・・・どうして、レイなの!」


叫びが、部屋の空気を震わせる。


その声は廊下にいたヨシノの耳にも届いた。


シュリが咄嗟に駆け寄り、ユウを抱きとめた。


「ユウ様、落ち着いてください」


「落ち着かない!私なら・・・レイの代わりに夜を務められるのよ!」


その声は震え、泣き、怒り、そして壊れていた。


シュリはその身体を強く抱きしめ、静かに、ゆっくりとした声で言った。


「・・・お気持ちは、わかります」


「私が・・・! 私が、レイの代わりに!」

その叫びは、嗚咽に変わっていく。


泣きながら何度も同じ言葉を繰り返すユウを、

シュリはただ、黙って抱きしめていた。


やがて、声が枯れ、嗚咽の合間に、かすれた言葉が漏れる。


「・・・シュリ・・・」


ユウの瞳から、涙が次々と零れ落ちる。


シュリは何も言わず、

その頬を自分の胸に押しつけるように抱きしめた。


――これでいい。


涙が出るうちは、まだ大丈夫だ。


どれほどの時間が経ったのだろう。


部屋は茜色から、静かな群青に染まっていた。


しゃくりあげるユウの髪を、シュリが指先で優しく撫でる。


「・・・シリ様を亡くされてから、ユウ様はずっと頑張ってこられました」


その声に、ユウは少し顔を上げた。


「・・・今日は、少し・・・大人気なかった」

そう呟いて、再びシュリの胸に顔を埋めた。


「今まで、頑張っていたのです。今日くらいは・・・泣いても大丈夫です」


その穏やかな声に、また涙がこぼれそうになり、

ユウは思わず顔を押し付けた。


――昔と同じ、シュリの匂い。


あの頃と同じ、温かさ。


胸の奥で、かすかな安堵が灯る。


ユウは静かに床に座り込んだ。


つられるように、シュリもそっと隣に腰を下ろす。


薄暗い部屋に、月の光がゆっくりと差し込みはじめていた。


淡い光が、二人の影を長く伸ばす。


「・・・今日は、シュリの誕生日なのに」

ユウが小さくつぶやいた。


「・・・覚えていてくださったのですね」

シュリは驚きながらも、微笑を浮かべる。


腕の中のユウが、ゆっくりと顔を上げた。


――近い。


思わず、シュリは身体を離そうとした。


けれどユウは、シャツの裾をぎゅっと掴んで離さない。


「あなたの誕生日は、いつも・・・祝ってあげられない。昨年も・・・」


その声は、かすれていた。


昨年の今日――母が再婚した日。


そして、今年の今日――レイが嫁いだ日。


どちらも、ユウにとって“失う日”だった。


「・・・ごめんね。余裕がなくて」


「そんなこと、気になさらないでください」

シュリは穏やかに微笑む。


俯いたユウを、そっと励ますように言葉を添える。


「ユウ様が笑ってくだされば・・・それで十分です」


その瞬間、ユウがゆっくりと顔を上げた。


月明かりに照らされた瞳が、銀色に輝く。


――美しい。


シュリは思わず息を呑んだ。


ーーこれ以上、近くで見てはいけない。


そう思ったのに、目を逸らせなかった。


ユウがまっすぐに、自分を見つめている。


その眼差しの奥には、主従を超えた“何か”が揺れていた。


「シュリ・・・」

ユウの声が震えた。


「あなたがいるから・・・母上とレイを失っても、立っていられる」


その言葉に、胸の奥が熱くなる。


忠誠の言葉ではない。


それは――心の底からの告白のようだった。


「・・・お言葉、ありがとうございます」

シュリは掠れた声で答えた。


その瞬間、ユウがそっと近づく。


わずかに触れる距離。


互いの息が混ざる。


月光が二人を包む中、ユウの唇が、静かにシュリの唇に触れた。


時間が止まったようだった。


風も、灯も、声も消えた。


そこにあるのは、ただ二人の呼吸だけ。


――止められない。


自分の立場も、してはならぬことも、痛いほどわかっている。


けれど、ユウがそっと唇を差し出したその瞬間、シュリの中で、何かが崩れ落ちた。


理性ではなく、本能が動いた。


拒めなかった。


ユウの指が、そっとシュリの袖を掴む。


その微かな力が、どうしようもなく愛おしい。


「・・・ユウ様・・・」


一瞬、呼吸が止まった。


掠れた声が喉の奥で消えた。


次の瞬間、シュリはユウを、もう一度、強く抱きしめていた。


触れた唇が、熱を帯びていく。


ユウもまた、静かに応えるように、その口づけを――さらに深く、深く重ねた。


月明かりが二人を包む。

息が混ざり、鼓動が重なっていく。


もはや、誰のものでもない時間。

ただ二人だけの夜が、そこにあった。


「・・・シュリ」

ユウが小さく名を呼ぶ。


その瞳は、決して言葉にできぬ想いを秘めていた。


シュリもまた、その想いを瞳に宿す。


主と乳母子――その関係では許されぬ想い。


けれど、心はもう抗えなかった。


言葉にできない代わりに、二人は何度も静かに唇を重ねた。


その瞬間――


コン、コン。


扉の外から、控えめなノックの音が響いた。


二人は息を止め、目を見開く。


そして同時に、慌てて距離を離した。


「・・・私です。入ってもよろしいですか?」

不安げなヨシノの声。


ユウは立ち上がり、手を胸に当てて深呼吸をした。


シュリは素早く部屋の隅に下がる。


「・・・もう大丈夫よ」

ユウが小さく答えた。


蝋燭を掲げて入ってきたヨシノは、薄暗い室内を見回した。


「灯りをつけますね」


炎がともり、部屋に淡い光が広がる。


その光の中で、ユウの横顔が一瞬だけ照らされた。


――部屋が暗くてよかった。


ユウはそっと目を閉じ、

胸の奥で熱を押し込めるように息を吐いた。


そうじゃなければ、

頬の熱も、瞳の揺れも、すべて見られてしまう。


「・・・ありがとう、ヨシノ」


微笑もうとした唇は、わずかに震えていた。


そして、蝋燭の灯がゆらめく中、ユウはふと、窓の外の月を見上げた。


その光は静かで、残酷なほど美しかった。


こうして――

レイの輿入れの日の夜は、静かに更けていった。


けれど、あの夜の沈黙が、のちにどれほどの運命を変えるか、誰もまだ知らなかった。


第2章の終わりまでお付き合いくださり、ありがとうございます。


別々の道を歩き始めた三姉妹。

けれど、彼女たちを待つのは再び訪れる戦の季節。


明日からの第3章では、それぞれの想いが炎に試されます。


この先も見届けたいと思っていただけたら、

ブックマークや感想をいただけると、とても嬉しいです。


次回ーー明日の20時20分


三日の旅路を終え、レイは海の国・セーヴ領へ。

潮の匂いと波の音に迎えられ、初めての景色に不安が胸を締めつける。

明日は婚礼、そして初夜。

姉たちと離れ、十一歳の少女は一人で新しい世界へ踏み出していく。


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