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 夏の湖に沈む誓い ― 妹を想う姉の夕方

妹たちの部屋に戻ったユウの顔を見て、ウイとレイはすぐに結果を悟った。


「・・・姉上」

レイが小さく声を上げる。


ユウは静かに首を振った。

「レイ・・・ごめんね。抗ったけれど、どうしても無理だったの」


その言葉に、レイは必死に首を振る。


「そんなことない。姉上は・・・戦ったもの」


ユウは俯き、両手をぎゅっと組み合わせた。

その手は小さく震えていた。


レイは駆け寄り、ユウの胸に顔をうずめる。

「・・・ありがとう」


潤んだレイの黒い瞳が、亡き父グユウの面影を宿していて、ユウはたまらず、涙をこぼした。


「・・・ごめんね」


二人の肩が触れ合い、静かに涙が落ちる。


その隣で、ウイが耐えきれずに二人へ抱きついた。


「ずっと三人で一緒に過ごせると思ってたのに・・・」


三人の身体が重なり、静かなすすり泣きが部屋に満ちた。


――母上が生きていたら、どうしていただろう。


きっとこの理不尽を、もっと穏やかに受け止められたのだろうか。


けれど、今の自分にはできない。


まだ幼い妹が嫁ぐ――それはどうしても受け入れがたく、悔しい出来事だった。


ユウは目を閉じた。


胸の奥で、母の声が聞こえた気がした。


『・・・泣いてもいいのよ』


その言葉を思い浮かべた瞬間、頬を伝う涙が止まらなかった。


窓の外では、夏の風がレースのカーテンをやさしく揺らしていた。



その日の夕方、ユウはひとり、バルコニーに佇んでいた。


泣き腫らした目に、夏の湖風が心地よい。


夕焼けがロク湖の水面を染め、ゆらゆらと赤い光が揺れている。


ただ、その美しささえ、今の心には刺さるようだった。


そのとき――。

部屋のドアが、控えめに二度、静かに叩かれた。


――この音は。


ユウは目を閉じ、息を整える。


そして小さく命じた。


「・・・開けて」


ヨシノが扉を開けると、そこにイーライが立っていた。


深く頭を下げ、傍らにはティーセットを載せたワゴンがある。


「お茶でも、いかがでしょうか」


「・・・いただくわ」


ユウは静かに頷いた。


イーライは無言で室内に入り、手際よく茶の支度を始める。


ポットから立ち上る湯気が、沈んだ空気をやわらげていく。


その姿を、ユウはじっと見つめていた。


しばらくして、静かな声が落ちた。


「・・・あなたは、事前に知っていたの?」


何を指すのか、問うまでもない。


イーライはわずかに手を止め、低く答えた。


「・・・知っておりました」


ユウのまぶたがゆっくりと動く。


「・・・いつから?」


イーライは茶器を置き、静かに視線を落とした。


窓の外では、沈みゆく陽がロク湖を金色に照らしている。


「・・・一ヶ月ほど前から、話には出ていました」


それだけを言って、イーライは再び動きを止めた。


湯気の立つカップの向こうで、ユウのまなざしがわずかに揺れる。


「どうして、私には言わなかったの?」


ーー共に茶を飲み、他愛のない世間話も交わした。


友人とは呼べなくとも、距離の近い家臣だったはずだ。


その中で――妹の婚約という重大な話を、“情報の一つ”として知らせることもできたはず。


イーライは短く息を整え、静かに言葉を継いだ。


「それは・・・まだ確かな情報ではありませんでした。ロス家からの正式な返答を待っていたのです」


「・・・それでも、なぜ教えてくれなかったの」

ユウの声は震えず、それでも冷たい。


顎を少し上げ、その青い瞳がまっすぐに彼を射抜く。


イーライは目を逸らさず、低く答えた。


「不確かな話をお伝えして・・・ユウ様のお心を、乱したくなかったからです」


黒い瞳が、静かにユウを見つめた。


そこには理屈ではない、ひとりの人間としての痛みが宿っていた。


その瞳を見て、シュリは息を呑む。


――ああ、この人も。


形は違っても、自分と同じように、ユウ様を大切に想っているのだ。


イーライは少し躊躇い、そして静かに口を開いた。


「・・・今回の婚礼相手は、最初は“西領のジュン様”でした」


「・・・ジュン様?」

ユウの目が大きく見開かれた。


その名は、あまりに意外だった。


――ジュン・アオイ。

西領の領主であり、かつて母シリと親交のあった人物。


「ジュン様の・・・年齢は・・・」

ユウの声はわずかに震えた。


十代半ばの少女が口にするには、あまりに現実的で、残酷な問いだった。


イーライは短く目を伏せる。


「・・・四十を、越えておられます」


その瞬間、ユウの心に冷たいものが走った。


胸の奥に、何かが崩れ落ちるような音がした。


――もしそれが通っていたら。


「・・・それを、サム様が必死に考えたのです」

イーライは穏やかな声で続けた。


「どうにか年の近い領主、ロス家のセージ様に、話をつなげられないかと」


紅茶を注ぐ手元は静かで、無駄がなかった。


クリームは、ユウの好みを知ってか、ほんの少し温められている。


ユウは唇をかすかに噛みしめ、カップの中の琥珀色の液体を見つめた。


紅茶の表面に、沈みゆく夕日がゆらめいている。


「・・・ロス家で良かった」

かすかな声で、ユウはつぶやいた。


――十九歳と十一歳。


まだ、ほんの少しの救いがあるような気がした。


しばらくの沈黙ののち、ユウがためらいがちに口を開く。


「・・・その、私は・・・詳しくはないのだけれど」


イーライはポットを置き、視線を上げた。


「何か」


ユウは息を詰め、顔を赤らめながら問う。


「夜は・・・十一歳でも、あるの?」


その問いは、姫としてはあまりに恥ずかしいものだった。


ヨシノは口に手を当てた。


けれど、ユウの心配はただひとつ――

まだ幼い妹の身体に、取り返しのつかない負担がかかること。


その思いだけが、彼女を突き動かしていた。


顔を赤らめたユウを見て、イーライは思わず息を呑んだ。


「・・・それは、嫁がれる方によります」


「そうなの?」

不安げな声に、イーライは少し視線を逸らしながら答えた。


「本来であれば・・・成熟する十五歳までは、形式だけのことが多いです」


彼の頬も、わずかに赤い。


それでも、いつもの淡々とした口調で続けた。


「・・・領主ではありませんが、ノア様の妻――マリー様は十三歳で子を産んだと聞いております」


「十三歳・・・!」

ユウは思わず身を引き、ソファーの背に頭を埋めた。


「そんなに早く・・・」


その反応に、イーライの表情がわずかに緩む。


「・・・人それぞれです」


そう言って、彼はそっとクリームを差し出した。


「冷めないうちに・・・どうぞ」


ユウは俯いたまま頷き、震える手でクリームを受け取った。

湯気の向こうで、二人の視線がかすかに交わる。


イーライが差し出したクリームを受け取ると、ユウはそっと香りを吸い込んだ。


温かな湯気が、張りつめていた胸の奥を少しずつほどいていく。


「・・・あなたも、座って」

ユウの声は柔らかかった。


命令というより、誘いに近い響きだった。


「いえ、私は・・・」

イーライが遠慮がちに頭を下げる。


「いいの。ずっと立っているなんて、落ち着かないわ」


そして、「シュリ、あなたも」


「・・・私も、失礼いたします」


シュリはそっと頭を下げ、静かに二人のそばに座った。


イーライは自分の分も含めて三人分のカップを並べた。


風がカーテンを揺らし、紅茶の香りがふわりと広がった。


姫が家臣と乳母子と一緒にお茶を飲む。


それは不思議な光景であった。


「・・・少しだけでいいから。誰かと一緒に飲みたかったの」

ユウがそう言って微笑んだ。


その笑みは、幼い妹を案じていたときの硬さを失い、

ほんの一瞬、年相応の少女に戻ったように見えた。


「あなたは悔しいほど、口が立ったわ」

ユウは悔しげにイーライを睨む。


「・・・はっ」

イーライは居心地悪そうに俯く。


「悔しいわ」

ユウがじっとイーライの顔を見た後に、少しニヤリと笑った。


その表情をイーライは熱に浮かれたように見つめる。


「そうですね」

シュリは静かに相槌を打つ。


「後で・・・サム様にお礼を伝えないと」

シュリの提案にユウが小さく頷いた。


「・・・レイのお相手が・・・良識がある人なら良いけれど」

ポツリとユウがつぶやいた。


シュリとイーライがそれぞれ違う想いで頷く。


紅茶の湯気が三人のあいだをゆらゆらと揺らめき、言葉にできない感情を包み込んでいった。


しばしの沈黙。

外では、夕陽がゆっくりとロク湖に沈んでいく。


その橙の光が、ユウの頬をやさしく照らした。


ほんの一瞬、彼女の表情から“姫”という仮面が外れ、まだ十四の少女の顔がのぞいた。


「・・・ありがとう。二人とも」

ユウはカップを置き、静かに目を閉じた。


その指先がわずかに震えていたことに、二人は気づかないふりをした。


――けれど、その小さな震えは、次に動き出す“何か”の始まりでもあった。


次回ーー明日の20時20分

レイの婚礼が近づく夕暮れ。

ユウへの想いが交錯する――リオウ、シュリ、そしてイーライ。

誰もが、あの方に恋をしていた。


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