夏の湖に沈む誓い ― 妹を想う姉の夕方
妹たちの部屋に戻ったユウの顔を見て、ウイとレイはすぐに結果を悟った。
「・・・姉上」
レイが小さく声を上げる。
ユウは静かに首を振った。
「レイ・・・ごめんね。抗ったけれど、どうしても無理だったの」
その言葉に、レイは必死に首を振る。
「そんなことない。姉上は・・・戦ったもの」
ユウは俯き、両手をぎゅっと組み合わせた。
その手は小さく震えていた。
レイは駆け寄り、ユウの胸に顔をうずめる。
「・・・ありがとう」
潤んだレイの黒い瞳が、亡き父グユウの面影を宿していて、ユウはたまらず、涙をこぼした。
「・・・ごめんね」
二人の肩が触れ合い、静かに涙が落ちる。
その隣で、ウイが耐えきれずに二人へ抱きついた。
「ずっと三人で一緒に過ごせると思ってたのに・・・」
三人の身体が重なり、静かなすすり泣きが部屋に満ちた。
――母上が生きていたら、どうしていただろう。
きっとこの理不尽を、もっと穏やかに受け止められたのだろうか。
けれど、今の自分にはできない。
まだ幼い妹が嫁ぐ――それはどうしても受け入れがたく、悔しい出来事だった。
ユウは目を閉じた。
胸の奥で、母の声が聞こえた気がした。
『・・・泣いてもいいのよ』
その言葉を思い浮かべた瞬間、頬を伝う涙が止まらなかった。
窓の外では、夏の風がレースのカーテンをやさしく揺らしていた。
◇
その日の夕方、ユウはひとり、バルコニーに佇んでいた。
泣き腫らした目に、夏の湖風が心地よい。
夕焼けがロク湖の水面を染め、ゆらゆらと赤い光が揺れている。
ただ、その美しささえ、今の心には刺さるようだった。
そのとき――。
部屋のドアが、控えめに二度、静かに叩かれた。
――この音は。
ユウは目を閉じ、息を整える。
そして小さく命じた。
「・・・開けて」
ヨシノが扉を開けると、そこにイーライが立っていた。
深く頭を下げ、傍らにはティーセットを載せたワゴンがある。
「お茶でも、いかがでしょうか」
「・・・いただくわ」
ユウは静かに頷いた。
イーライは無言で室内に入り、手際よく茶の支度を始める。
ポットから立ち上る湯気が、沈んだ空気をやわらげていく。
その姿を、ユウはじっと見つめていた。
しばらくして、静かな声が落ちた。
「・・・あなたは、事前に知っていたの?」
何を指すのか、問うまでもない。
イーライはわずかに手を止め、低く答えた。
「・・・知っておりました」
ユウのまぶたがゆっくりと動く。
「・・・いつから?」
イーライは茶器を置き、静かに視線を落とした。
窓の外では、沈みゆく陽がロク湖を金色に照らしている。
「・・・一ヶ月ほど前から、話には出ていました」
それだけを言って、イーライは再び動きを止めた。
湯気の立つカップの向こうで、ユウのまなざしがわずかに揺れる。
「どうして、私には言わなかったの?」
ーー共に茶を飲み、他愛のない世間話も交わした。
友人とは呼べなくとも、距離の近い家臣だったはずだ。
その中で――妹の婚約という重大な話を、“情報の一つ”として知らせることもできたはず。
イーライは短く息を整え、静かに言葉を継いだ。
「それは・・・まだ確かな情報ではありませんでした。ロス家からの正式な返答を待っていたのです」
「・・・それでも、なぜ教えてくれなかったの」
ユウの声は震えず、それでも冷たい。
顎を少し上げ、その青い瞳がまっすぐに彼を射抜く。
イーライは目を逸らさず、低く答えた。
「不確かな話をお伝えして・・・ユウ様のお心を、乱したくなかったからです」
黒い瞳が、静かにユウを見つめた。
そこには理屈ではない、ひとりの人間としての痛みが宿っていた。
その瞳を見て、シュリは息を呑む。
――ああ、この人も。
形は違っても、自分と同じように、ユウ様を大切に想っているのだ。
イーライは少し躊躇い、そして静かに口を開いた。
「・・・今回の婚礼相手は、最初は“西領のジュン様”でした」
「・・・ジュン様?」
ユウの目が大きく見開かれた。
その名は、あまりに意外だった。
――ジュン・アオイ。
西領の領主であり、かつて母シリと親交のあった人物。
「ジュン様の・・・年齢は・・・」
ユウの声はわずかに震えた。
十代半ばの少女が口にするには、あまりに現実的で、残酷な問いだった。
イーライは短く目を伏せる。
「・・・四十を、越えておられます」
その瞬間、ユウの心に冷たいものが走った。
胸の奥に、何かが崩れ落ちるような音がした。
――もしそれが通っていたら。
「・・・それを、サム様が必死に考えたのです」
イーライは穏やかな声で続けた。
「どうにか年の近い領主、ロス家のセージ様に、話をつなげられないかと」
紅茶を注ぐ手元は静かで、無駄がなかった。
クリームは、ユウの好みを知ってか、ほんの少し温められている。
ユウは唇をかすかに噛みしめ、カップの中の琥珀色の液体を見つめた。
紅茶の表面に、沈みゆく夕日がゆらめいている。
「・・・ロス家で良かった」
かすかな声で、ユウはつぶやいた。
――十九歳と十一歳。
まだ、ほんの少しの救いがあるような気がした。
しばらくの沈黙ののち、ユウがためらいがちに口を開く。
「・・・その、私は・・・詳しくはないのだけれど」
イーライはポットを置き、視線を上げた。
「何か」
ユウは息を詰め、顔を赤らめながら問う。
「夜は・・・十一歳でも、あるの?」
その問いは、姫としてはあまりに恥ずかしいものだった。
ヨシノは口に手を当てた。
けれど、ユウの心配はただひとつ――
まだ幼い妹の身体に、取り返しのつかない負担がかかること。
その思いだけが、彼女を突き動かしていた。
顔を赤らめたユウを見て、イーライは思わず息を呑んだ。
「・・・それは、嫁がれる方によります」
「そうなの?」
不安げな声に、イーライは少し視線を逸らしながら答えた。
「本来であれば・・・成熟する十五歳までは、形式だけのことが多いです」
彼の頬も、わずかに赤い。
それでも、いつもの淡々とした口調で続けた。
「・・・領主ではありませんが、ノア様の妻――マリー様は十三歳で子を産んだと聞いております」
「十三歳・・・!」
ユウは思わず身を引き、ソファーの背に頭を埋めた。
「そんなに早く・・・」
その反応に、イーライの表情がわずかに緩む。
「・・・人それぞれです」
そう言って、彼はそっとクリームを差し出した。
「冷めないうちに・・・どうぞ」
ユウは俯いたまま頷き、震える手でクリームを受け取った。
湯気の向こうで、二人の視線がかすかに交わる。
イーライが差し出したクリームを受け取ると、ユウはそっと香りを吸い込んだ。
温かな湯気が、張りつめていた胸の奥を少しずつほどいていく。
「・・・あなたも、座って」
ユウの声は柔らかかった。
命令というより、誘いに近い響きだった。
「いえ、私は・・・」
イーライが遠慮がちに頭を下げる。
「いいの。ずっと立っているなんて、落ち着かないわ」
そして、「シュリ、あなたも」
「・・・私も、失礼いたします」
シュリはそっと頭を下げ、静かに二人のそばに座った。
イーライは自分の分も含めて三人分のカップを並べた。
風がカーテンを揺らし、紅茶の香りがふわりと広がった。
姫が家臣と乳母子と一緒にお茶を飲む。
それは不思議な光景であった。
「・・・少しだけでいいから。誰かと一緒に飲みたかったの」
ユウがそう言って微笑んだ。
その笑みは、幼い妹を案じていたときの硬さを失い、
ほんの一瞬、年相応の少女に戻ったように見えた。
「あなたは悔しいほど、口が立ったわ」
ユウは悔しげにイーライを睨む。
「・・・はっ」
イーライは居心地悪そうに俯く。
「悔しいわ」
ユウがじっとイーライの顔を見た後に、少しニヤリと笑った。
その表情をイーライは熱に浮かれたように見つめる。
「そうですね」
シュリは静かに相槌を打つ。
「後で・・・サム様にお礼を伝えないと」
シュリの提案にユウが小さく頷いた。
「・・・レイのお相手が・・・良識がある人なら良いけれど」
ポツリとユウがつぶやいた。
シュリとイーライがそれぞれ違う想いで頷く。
紅茶の湯気が三人のあいだをゆらゆらと揺らめき、言葉にできない感情を包み込んでいった。
しばしの沈黙。
外では、夕陽がゆっくりとロク湖に沈んでいく。
その橙の光が、ユウの頬をやさしく照らした。
ほんの一瞬、彼女の表情から“姫”という仮面が外れ、まだ十四の少女の顔がのぞいた。
「・・・ありがとう。二人とも」
ユウはカップを置き、静かに目を閉じた。
その指先がわずかに震えていたことに、二人は気づかないふりをした。
――けれど、その小さな震えは、次に動き出す“何か”の始まりでもあった。
次回ーー明日の20時20分
レイの婚礼が近づく夕暮れ。
ユウへの想いが交錯する――リオウ、シュリ、そしてイーライ。
誰もが、あの方に恋をしていた。




