殺したい、と姫は言った
翌朝、出陣前のロク城は喧騒に包まれていた。
戦支度を整えるキヨの前に、イーライが静かに進み出た。
「ご報告がございます。……ユウ様は本日、体調不良によりお見送りはできぬとのことです」
「ユウ様が……具合が悪いだと!?」
怒声が広間に響いた。
イーライは静かに頭を下げる。
「ご安心ください。ただの疲労にございます」
――違う。
だが、その言葉を口にすることはない。
「……そうか」
キヨはわずかに顔を歪め、すぐに口元を緩めた。
「ところで、イーライよ。あのドレスはどうだった?」
「確かに、お渡ししております」
「シリ様のために仕立てたドレスだ」
恍惚とした笑みが浮かぶ。
「次の出陣には、着て見送ると申しておりました」
「ほう……」
その表情は、戦の前とは思えぬほど緩んでいた。
その様子を遠くで見ていたエルは、小さくため息をついた。
その時――背後から、確かな気配が忍び寄る。
「戦前だというのに……ずいぶん楽しそうですこと」
やわらかな声とともに現れたのは、キヨの妻ミミだった。
微笑んでいるのに、瞳は鋭い。
――まずい。
エルは即座に身体を硬直させた。
キヨは思わぬ登場に目を見開き、言葉を失う。
イーライは落ち着きなく、深々と頭を下げた。
「似ておりますものね」
ミミの声が、低く張りつめる。
「な、何がじゃ? ミミ」
キヨは屈託のない笑顔をつくろうとするが、その視線は落ち着かず、宙をさまよった。
「ユウ様は……シリ様にそっくりですから」
ミミが一歩近づく。
小柄な体から放たれる迫力に、エルは思わず顔を覆った。
――もう、すべて悟られている。
後ろに控えていた妾のメアリーが、面白がるようにクスクスと笑う。
「いいですか」
ミミはキヨの顔を射抜くように見据えた。
声は穏やかでも、威圧感はすさまじい。
「ユウ様は“お預かりもの”です」
「……そ、そうじゃ。ミミの言う通りだ」
キヨの声はかすれ、背中にはじっとりと汗がにじんでいた。
「妾にしてよいお方ではありません」
釘を刺す声は、氷のように冷たかった。
「も、もちろんだ。もちろん……」
キヨは慌ててうなずく。
「――お忘れなく」
ミミは微笑むと、手で扉を示した。
「それでは、出陣の時刻です。行ってください」
◇三姉妹の部屋
西棟の外が、急にざわめき立った。
武具の音、兵らの掛け声、そして馬の嘶き――出陣の時を告げる気配だ。
部屋の中で、ユウはじっと耳を澄ませていた。
ウイは落ち着かぬ様子で椅子に腰かけたり立ち上がったりを繰り返し、レイは黙って窓辺から遠くの空を見つめている。
「……いよいよなのね」
ユウが口を開くと、声はかすかに震えていた。
胸の奥に冷たいものが広がる。
外で整然と響く軍勢の気配は、頼もしさよりも不吉さを運んでくる。
ユウは窓辺に立ち、遠ざかる軍勢の列を黙って見つめていた。
兵たちの掛け声が遠くから聞こえる。
だがこの部屋だけは、息が詰まるほどの静けさに支配されていた。
幼い頃から九年を過ごした城。
母と過ごした日々。
そして――従兄弟のマサシ。
いつも不敵に笑い、「ユウ!」と声をかけてくれた、その姿が瞼に蘇る。
すべてが、あの男に奪われようとしている。
自分はただ、その行く末を窓辺から見つめることしかできない。
胸の奥に、熱とも冷たさともつかぬ痛みが広がっていった。
ウイが姉の袖をそっと握った。
「姉上……大丈夫?」
ユウは微笑もうとしたが、その唇は強ばっていた。
「私は……男に生まれたかった」
ユウは悔しそうに拳を握り締めた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
空気が、わずかに張りつめる。
ウイとレイは、ただ息を呑んだ。
次の瞬間、ユウの瞳が青く燃えた。
「――あの男を殺したい!」
姉のあまりに強い言葉が、部屋の空気を切り裂く。
その熱は、次の瞬間、内へと沈み込む。
「……殺したい」
握り締めた拳から、低く絞り出すように声が落ちる。
怒気がユウを取り巻き、部屋の隅まで震わせるようだった。
「姉上……」
ウイが震える声で呼びかけ、レイは静かに視線を伏せた。
そのとき――静かな声が割って入る。
シュリだった。
「男でしたら、ユウ様はここにはおりません」
シュリの声は穏やかだが、言葉は的確だった。
三人が一斉に彼を見る。
彼はユウを見据える。
「女性だからこそ……ここにおられます」
ユウはしばらく黙って窓の外を見つめ、やがて俯いて小さく答えた。
「そうね……」
扉の外に、そっと影が落ちていた。
妾のメアリーだった。
彼女は両手を胸に当てながら、青ざめた顔で息を潜めていた。
――「殺したい」
その言葉を、扉越しに確かに耳にしてしまったのだ。
メアリーの目が、わずかに細められた。
ーー正直な方ね。
「……随分と……激しいお言葉」
吐息まじりの囁きは、畏れとも感嘆ともつかぬ響きを帯びていた。
しばらくして、扉を軽く叩く音が響いた。
三姉妹は一斉に顔を上げ、視線を扉に向ける。
ヨシノが静かに扉を開けると、そこに立っていたのは黒髪を豊かに波打たせた女だった。
メアリーだった。
「ユウ様の体調が優れぬと伺いましたので……お見舞いに参りました」
柔らかく微笑むその口元に対し、灰色の瞳だけは冷たく沈んでいた。
その瞳の奥に、誰も触れようとはしなかった。
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次回ーー明日の20時20分
「夫は――キヨ様に討たれたのです」
メアリーの一言に、部屋の空気が凍りついた。
夫を殺した男の妾となった女。
その微笑みは、哀しみか、あるいは誇りか。
ユウは震える唇で呟く。
「・・・あの男に身を委ねるなんて、信じられない」
◇ 登場人物
ユウ
セン家の長女。母シリ譲りの知性と美貌を持つが、
胸の奥には怒りと葛藤を抱えている。
シュリ
ユウに仕える青年。乳母子として育ち、彼女の唯一の支えとなる存在。
ウイ・レイ
ユウの妹たち。姉を慕いながらも、戦と運命の影に怯えている。
キヨ
ワスト領主。ユウの父母を殺した。亡きシリの面影を追い、ユウに異常な執着を見せる男。
イーライ
キヨの側近。冷静沈着だが、ユウへの複雑な感情を隠している。
ミミ
キヨの正妻。理知的で冷ややか、夫の暴走を唯一制御できる存在。
メアリー
キヨの妾。好奇と打算の狭間で、ユウを観察するように見つめている。
エル
キヨの弟。兄の歪んだ情を恐れ、密かにその動向を監視している。




