姫か、騎士か ー止められぬ想い ー
翌朝。
男手の少ないロク城には、珍しく穏やかな空気が流れていた。
朝食の卓に並んだ皿を、ユウはふと手に取る。
「・・・この果物、美味しい」
ぽつりと漏れた声に、自分でも驚いた。
母を失って以来、食事への関心は薄れていた。
けれど、茶色い砂糖漬けのようなそれは、素直に「美味しい」と思えたのだ。
「ああ、それは――」
ヨシノが説明を添えようとしたその時。
コン、コン。
扉を叩く音が響き、場の空気が引き締まる。
現れたのは、重々しい気配をまとったサムだった。
「姫様方の護衛をするために挨拶に伺いました」
落ち着いた声が部屋に響く。
ユウは少しだけ眉を上げ、問いかけた。
「・・・サム、あなたは戦に参戦しないの?」
「この城と姫様方をお守りするのが、私の任務にございます」
迷いのない答え。
「そう・・・ありがとう」
ユウの声にはわずかに安堵が混じった。
ウイが嬉しそうに顔をほころばせる。
「よかった・・・サムがそばにいてくれるのね」
レイも小さく頷き、黒い瞳でじっとサムを見つめていた。
頼れる重臣の存在に、三姉妹は言葉以上の安心を覚えていた。
ユウの瞳もまた、ほんのひととき柔らかさを帯びていた。
「サム、ユウ様がこれを“美味しい”とおっしゃったのですよ」
ヨシノが微笑みながら声をかける。
かつてレーク城で共に主に仕えた者同士、二人の間には気心の知れた空気が流れていた。
「・・・ああ、りんごか」
サムの顔に柔らかな笑みが浮かぶ。
「これが・・・りんごという果物なのね」
不思議そうに見つめるユウに、サムは嬉しげに頷いた。
「はい。ワスト領の特産物です。それにしたのは・・・シリ様でした」
「母上が?」
ウイが思わず声を上げる。
「ええ。シリ様が嫁がれる前、この地は特産に乏しい土地でした」
ヨシノが懐かしむように微笑む。
「初めてりんごを口にされたシリ様が、
美味しさに感動なさって・・・それから特産にするよう尽力されたのです」
サムも頷きながら言葉を継いだ。
「シリ様にお見せしたかった・・・収穫が増え、領の収入が潤ったのは、つい最近のことですから」
「・・・そうなのね」
ユウはしげしげと茶色の砂糖漬けを見つめ、口に運んだ。
甘酸っぱさが広がり、どこか懐かしい温もりを感じさせる味。
「母上が・・・好きだった味」
レイもひと口含み、すぐに顔を顰めた。
「・・・酸っぱい」
その表情に、ウイが思わず吹き出す。
「ちょうど今ごろは・・・あそこでも、りんごの花が咲いている頃でしょう」
ヨシノが静かに呟く。
「ああ・・・あそこか」
サムの顔に、寂しげな翳りが落ちた。
「あそこ・・・とは?」
ユウがサムをまっすぐ見つめる。
「シリ様とグユウ様が、ことのほか気に入られていた場所がありまして・・・今ごろは、りんごの花が見頃かと」
サムは懐かしさと寂しさを宿した眼差しで答えた。
「行ってみたい!」
思わずウイが声を弾ませる。
「残念ながら、馬車では行けぬ場所なのです。道が険しゅうございますから」
サムは苦笑を交えて答える。
「・・・そう、なの」
ウイはしょんぼりと肩を落とした。自分には乗馬ができない。
「・・・私が行きます」
ユウの声がはっきりと響いた。
「ユウ様が?」
サムは目を瞬かせ、言いかけてから問い直す。
「ひょっとして・・・乗馬を?」
「得意です」
ユウは少し顎を上げ、静かに告げた。
この時代、馬を自在に操れる女性は稀だった。
サムは驚きと同時に、懐かしい笑みをこぼす。
「そういうところも・・・シリ様にそっくりで」
その言葉に、後ろで控えていた乳母とシュリが小さく笑みを漏らした。
城が落ちて以来、久しくなかった柔らかな空気が、ふっと部屋に流れた。
「レイ、一緒に行かない?」
ユウは隣の妹に声をかける。
ウイには無理でも、末のレイは馬を乗りこなすことができた。
レイはちらりとユウの顔を見、それから視線をシュリへと走らせる。
「・・・私はいいわ。遠慮しておく」
短くそう告げ、目を伏せた。
ウイは不思議そうに首を傾げる。
サムは姿勢を正し、深く頭を下げた。
「乗馬の件、ミミ様に伺いを立ててまいります」
そう告げると、静かに部屋を辞した。
◇
サムはミミから正式に許可を得て、乗馬の準備を整えていた。
騎乗服に袖を通したその姿に、厩舎で待っていたイーライが駆け寄る。
「・・・私も、ご一緒いたします」
「・・・ああ。別に構わんが」
サムは少し眉を上げた。
普段なら冷静に距離を保つイーライが、進んで同行を願い出るなど珍しい。
――やはり、キヨ様から命じられているのか。
ユウ様を見張り、虫がつかぬよう報告せよと。
サムはイーライの横顔を見つめた。
馬場に出ると、朝の光が眩しく降り注いでいた。
馬のいななきが響く中、イーライがぽつりと口を開く。
「女性が馬に乗るなど・・・考えられぬことです」
「シリ様も得意でおられた。・・・ユウ様も同じだろう」
サムは青空を仰ぎ、懐かしむように呟く。
「しかし・・・どうやって、女性が馬を操るというのか」
イーライが半ば独り言のように言った、その時だった。
視線の先から、軽やかな足取りで近づいてくる姿。
「・・・!」
イーライの瞳が大きく見開かれる。
そこにいたのは、飾り気のない紺の乗馬服を身に纏ったユウだった。
すらりとした体躯に凛と映えるその姿は、まるで男装の麗人。
シュリと並び歩くその姿は、姫というより王子のようだった。
「な・・・男装・・・!」
イーライの声がわずかに上ずった。
「ふふ、そう見えるか」
サムは愉快そうに頷き、口元を緩める。
ユウは二人の前に立ち、風をはらんだ金の髪を揺らしながら笑みを浮かべた。
その青い瞳には、晴れやかな光が宿っている。
「サム、イーライ、行きましょう!」
力強い声が馬場に響き、張りつめていた空気が一気に弾けた。
ユウは迷いなく馬に歩み寄り、しなやかな動きで鐙に足をかけた。
「・・・お待ちください、ユウ様!」
イーライが慌てて声を上げる。
だが次の瞬間、その瞳は大きく見開かれた。
ユウは軽やかに鞍へと腰を下ろした。
背筋を伸ばし、手綱を握る姿は、堂々たる騎士そのものだった。
馬上に身を預けた途端、ユウは胸の奥の重さが一瞬だけほどける気がした。
「・・・なんと」
イーライは呆然と呟いた。
「驚いたか」
隣で見ていたサムが口元を緩める。
「シリ様も、まさにこの姿だった」
風に金の髪が舞い、ユウの青い瞳が朝の光を映して輝いた。
「楽しみだわ!」
声と同時に馬が地を蹴り、軽やかに駆け出す。
そのすぐ後ろ、鳶色の髪の青年シュリが馬に跨り、影のように寄り添って走った。
主を先に立て、護るように距離を取る――それは幼い頃から染みついた習慣だった。
「・・・女性が・・・まるで騎士のように」
イーライは馬上で唖然としながら呟く。
サムは遠くを見つめ、懐かしげに息を吐いた。
「やはり、シリ様の娘よ」
ユウの笑みが風に乗って響く。
その背を追うシュリの瞳には、決意と静かな情熱が宿っていた。
◇
馬場を駆け抜ける蹄の音が、春の空気を震わせていた。
「レイ、どうして一緒に乗らなかったの?」
見送りの位置に立つウイが、首をかしげながら尋ねた。
背後では、乳母たちが感嘆の声をあげている。
勇ましく馬を操る姉の姿は、誰の目にも眩しく映っていた。
「好きでしょ、乗馬?」
ウイはさらに問いかける。
レイはしばし黙り、じっと姉の背中を見つめていた。
やがて小さく息を吐き、静かに答える。
「・・・今回はいいの」
「どうして?」
「邪魔したら、悪いでしょ」
黒い瞳は真っすぐに、遠ざかる二つの背中を追っていた。
風を切って走るユウ、その傍らに寄り添うシュリーー。
そこに割り込むべきではないと、幼い心ながらに悟っていたの。
「・・・?」
ウイは納得できないまま、ただ小首をかしげる。
その無邪気さが、レイの沈黙をいっそう深くさせていた。
◇
東側の窓からは、馬場を駆ける二つの人影が見えた。
「まあ・・・本当に乗馬をされるのですね」
メアリーが思わず声を上げる。
「・・・本当に、お上手」
ミミが静かに呟いた。
長身で手綱を操るユウの姿は、もはや「姫」ではなく、頼もしい青年の騎士のように映る。
ふ、とミミの口元に笑みが浮かぶ。
「だから・・・惹かれるのね」
視線を落とすと、胸の奥にざらりとした感情が広がる。
――あの少女に、夫は夢中なのだ。
誰に言うでもなく、低く漏らした声。
「美しい見目を備えた戦士の俊敏さ・・・。そして、人を惹きつける領主のような振る舞い」
遠ざかっていくユウの背中を、瞳で追いながら、ミミの表情に影が差した。
「想いを止めるのは・・・無理なこと」
その横顔は、どこか寂しさを帯びていた。
メアリーは黙ってその横顔を見つめ続けていた。
灰色の瞳の奥に宿るものは、まだ誰にも分からない。
次回ーー明日の20時20分
馬を走らせ、りんご並木へ。
「金色の妃様だ!」――母と見間違えられた少女は、花びらの下で決意する。
「妾にはならない。毅然としてみせる」
春の風が、彼女の運命を告げていた。
ブックマークありがとうございます。
本当に。励みになります。
◇ 登場人物
ユウ
シリの長女。気高く芯の強い少女。母に似て乗馬を得意とする。
シュリ
ユウの側仕え。主を影のように守り続ける青年。
サム
ワスト領の重臣。グユウに忠義を尽くした。穏やかで実直。
イーライ
キヨの家臣。冷静だが、ユウに複雑な感情を抱く。
ウイ
三姉妹の次女。明るく無邪気。姉を慕い、場を和ませる存在。
レイ
末の妹。静かで聡明。姉とシュリの絆を敏感に感じ取っている。
ミミ
キヨの正妻。冷静で知的だが、夫の“執着”を見抜いている。
メアリー
キヨの妾。灰色の瞳を持つ聡明な女性。沈黙の裏に複雑な思惑を秘める。
ヨシノ
ユウの乳母。母代わりとして三姉妹を支えてきた女性。
シリ
故人。かつての領主妃。母として、民として、深い愛と覚悟を遺した。




