望まぬ婚礼
「イーライに縁談の話があります」
――逃げ場のない言葉だった。
ミミの穏やかな声に、イーライは息を呑んだ。
しばらく、何も言えない。
「イーライ、聞いておるか」
ミミの隣に座るキヨが、待ちきれぬように声を上げた。
「……は」
イーライにしては、精彩のない声だった。
ミミは黙ったまま、イーライを見つめている。
「……妻を娶るほどの立場ではございません」
イーライは、ややつっかえながら答えた。
「何を言うとる」
キヨが呆れたように言う。
「お前は年頃の重臣じゃ。そろそろ身を固めねばならぬ」
「あなたは城を支える重臣ですもの」
ミミが静かに続けた。
「家庭を持つことも、大切な務めよ」
――わかっている。
けれど。
イーライの脳裏に浮かんだのは、ただ一人の女性だった。
彼女以外の女と生きる未来など、想像すらできなかった。
思わず、拳を握りしめる。
「早う結婚して、男の子を産め」
キヨが笑いながら言う。
「その子がお前と共に仕えれば、このトミ家は安泰じゃ」
「……は」
それが重臣の務め。
一族で主に仕える。
返事はしたものの、イーライはまだ顔を上げない。
「女は良いぞ」
キヨが愉快そうに笑う。
「一度でも抱けば、考えなど変わる」
そう言って、自分の言葉に声を上げて笑った。
ミミは小さくため息をつき、話を戻す。
「お相手のアリスは、私の遠縁にあたる娘です」
その声は優しかった。
「最近、母親を亡くして一人になったの。あなたに相応しいと思って」
イーライは、目を閉じた。
妃の親類。
自分には身に余る縁談だ。
頭では理解できる。
けれど――心が追いつかない。
後ろに控えていたサムは、息を呑んだまま、その様子を見守っていた。
「イーライ」
ミミが静かに呼ぶ。
ようやく、イーライは顔を上げた。
黒い瞳が、わずかに揺れている。
ミミはその瞳を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「あなたには幸せになってほしいの」
柔らかな微笑みだった。
――気づいているのだ。
自分の気持ちに。
イーライはそっと目を伏せた。
ユウ様を想う従者が独り身のままでは、忠誠が揺らぐ。
そう危惧されたのだろう。
国王夫婦の命は、絶対だ。
イーライは拳を握りしめたまま答えた。
「身に余る縁談……ありがたく、お受けいたします」
そう言って、深く頭を下げた。
「マーサ、アリスを呼んで」
ミミは仕える乳母に声をかけた。
マーサと呼ばれた乳母は静かに頭を下げ、部屋を出ていく。
「淑やかで聡く、気立ての良い娘よ」
ミミは穏やかに言った。
「きっと、あなたも気に入るわ」
「……は」
イーライは頭を下げたままだった。
やがて、扉の外で足音が止まる。
部屋に、二人の気配が入ってきた。
「ミミ様、お忙しいところありがとうございます」
穏やかな声が静かな執務室に響いた。
「今、イーライに話をしておきました」
ミミが答える。
イーライは、まだ顔を上げない。
「イーライ、紹介します」
その声に、ようやく立ち上がった。
目の前に立つ女性――アリス。
茶色の髪に、優しげな褐色の瞳。
整った顔立ちの、落ち着いた女性だった。
――この人が、自分の……。
だが――何も、感じなかった。
「イーライ・ショウと申します」
深く頭を下げる。
部屋の空気が、静かに止まった。
「イーライ」
ミミが、呆れたように言う。
「気がつかないの?」
イーライは目を瞬かせ、ミミを見た。
「何が……でございますか」
「アリスとは、何度も面識があります」
ミミは小さくため息をついた。
「え……」
イーライの声が揺れる。
改めてアリスの顔を見る。
見覚えがあるような、ないような。
「アリスは西の棟で侍女として勤めていました」
ミミが続ける。
「何度も会っているはずです」
イーライの目が、わずかに見開かれた。
――全く記憶にない。
「先ほども、お声をおかけしました」
アリスは静かにイーライを見つめていた。
「あ……」
言葉が途切れる。
だが、やはり思い出せない。
イーライの視線は、彼女ではなく――
いつも、別の女性に向けられていたのだから。
「失礼をしました」
イーライは、深く頭を下げた。
ミミは静かに頷く。
「婚姻は、近日中に行いましょう」
その声には迷いがなかった。
「そんなに急がなくてもよかろう」
キヨが口を挟む。
ミミは静かに首を振った。
「いいえ。いつ争いが起こるかわかりません」
「穏やかなうちに、婚姻を」
――ユウ様が妾になる前に。
イーライは、その意味をすぐに理解した。
聡い彼には、ミミの意図がはっきりと見えてしまう。
「そうじゃの」
キヨが呑気に頷いた。
「めでたいことじゃ」
「……は」
イーライは静かに頭を下げた。
拳は、わずかに震えていた。
しばらくして、国王夫婦は執務室を出ていった。
サムは、不自然なほど真っ直ぐに伸びたイーライの背筋を見つめていた。
「おまえたち」
周囲に控えていた家臣たちへ声をかける。
「今日は、もう下がれ」
「承知しました」
家臣たちは次々にペンを置き、静かに部屋を出ていく。
やがて執務室に残されたのは、サムとイーライだけになった。
重い沈黙が落ちる。
本来なら、この場には祝福の言葉が並ぶべきだった。
けれど――
張り詰めたまま微動だにしないイーライの背中を見ていると、そんな言葉はどうしても口にできなかった。
「……大丈夫か」
サムがようやく声をかける。
「問題ありません」
イーライは、すぐに答えた。
だが、その声はわずかに震えていた。
「……そうか」
サムは、それだけを返す。
「重臣としての務めです」
今度は、声だけではなく、その背中までもがかすかに揺れていた。
サムは何も言わず、イーライのそばへ歩み寄る。
これまでの働きも、忠義も、胸の奥にしまい込んできた想いも、誰より近くで見てきた。
想いは届かず。
その相手が、別の男と結ばれるための衣装の手筈まで整えていることも知っている。
そっと、イーライの肩に手を置く。
「この部屋には、もう誰もおらん」
その声に、イーライの肩が一瞬だけ強く揺れた。
「お前の頑張りは、誰よりも知っている」
その一言が落ちた瞬間、イーライは堪えきれないように肩を震わせた。
「……少しは、甘えろ」
その言い方には、父のような優しさが滲んでいた。
「……はい」
イーライは顔を伏せた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
執務室には、ただ夕暮れの光だけが静かに差し込んでいる。
やがて、イーライはゆっくりと息を整えた。
「……失礼しました」
そう言って顔を上げたとき、その表情はもう重臣のものに戻っていた。
だが――
机の下で握りしめた拳だけが、まだ小さく震えていた。
今回登場したアリスですが、実は以前から数回登場していました。
名前は出ていなくても、確かにそこにいた人物です。
気づいた方がいたら、かなり鋭いと思います。
次回ーー明日の20時20分
抱けば終わる。
抱かなければ、失う。
それでも彼は――触れなかった。




