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妹は泣き崩れた。それでも姉は決断を変えなかった

ユウの部屋から飛び出したレイは、息も整えないまま走り続けた。


――姉上が、あの男の妾になる。


どうしても信じられなかった。


胸の奥から、何度も同じ疑問が浮かぶ。


どうして?


あんなに嫌っていたのに。

あんなに、憎んでいたのに。


逃げ込んだのは、冬の間過ごしていた図書室。


ここなら――泣いたところを、誰にも見られない。


部屋の片隅に身を寄せ、必死に呼吸を整える。



そして、もう一つの顔が浮かぶ。


――シュリ。


シュリは……どう思っているのだろう。


姉上のそばに立っていた、あの静かな男は。


そのときだった。


「レイ、どうしたの?」


声に振り向くと、背後にヘンリーが立っていた。


戸惑ったような表情をしている。


――どうして、この人は。


こんなにタイミングが悪いのだろう。


見られたくないときに限って、出くわす気がする。


「なんでもないわ」


レイは慌てて前を向いた。


泣いた顔など、絶対に見られたくない。


「……ユウ様のこと?」


ヘンリーが静かに口を開いた。


レイの肩が、ぴくりと揺れる。


――どうして知っているの?


そう疑問が浮かんだけれど、考えてみれば、城内は姉上の噂で持ちきりだと聞いた。


しかもヘンリーは、キヨの親族――甥だ。


知らない方が、不自然だった。


「さっき、姉上の口から聞いたの」


レイは震えを押さえ込むように、言葉を吐き出した。


ヘンリーは何も言わない。


「信じられない。あの男は……!」


レイの肩が震えている。


一度口にしてしまうと、もう言葉は止まらなかった。


「あんなに嫌がっていたのに――どうして?」


問いというより、叫びに近かった。


ヘンリーは、息を詰めたまま立ち尽くした。


なぜユウが妾になるのか。

その事情を、彼は知っている。


だが、それを口にした瞬間、すべての均衡が崩れる。


だから――言えない。


軽々しく慰めの言葉をかけることも、できなかった。


だから、ヘンリーは震えるレイの背に、そっと手を当てた。

それしか思いつかなかった。


その温もりに触れた瞬間、レイの中で堪えていたものが崩れる。


涙が、静かに溢れた。


「……ごめんなさい」


掠れた声だった。


「あなたも辛いはずよね。叔母様が……ジュン様の元へ……」


ヘンリーは一瞬、目を伏せる。


「叔母上は、毎日泣いている」


低い声だった。


「叔父上は……家を出た。おばば様は倒れ、母上は怒っている」


キヨの決断は、妹夫婦だけではなく、一族を絶望に落としていた。


仲の良かった夫婦と家族が、その決断で壊れた。


ヘンリーには、それを見ていることしかできなかった。


背後から寄り添う手の温もりに、レイは目を閉じた。


――こういう光景を、何度か見たことがある。


姉上とシュリ。


きっと姉上も、シュリの手の温もりに、何度も救われたのだろう。


そう思った瞬間、胸の奥がほどけ涙が溢れた。


レイは思わず振り返り、そのままヘンリーに抱きついた。


ヘンリーは、微動だにせず固まる。


わずかに視線を落とすと、艶やかな黒髪が腕の中に収まっている。


その瞬間、時間が一瞬止まったように感じた。


それに気づいたとき、妙に胸の奥が震える。


けれど、彼女が求めているのは抱擁ではない。


求めているのは、温もりだけだ。


大事な家族が傷ついていくのを、黙って見ているしかない。


それは、自分もレイも同じだった。


ヘンリーはためらいながら、そっと腕を回す。


レイの背を、静かに包んだ。


「……辛いね」


それだけ言うのが、精一杯だった。


どれほど、時間が過ぎたのだろうか。


レイは、はっとして体を離した。


さっきまで自分が抱きついていたことに、急に気づいたのだ。


二人の間に、ぎこちない沈黙が落ちる。


レイは視線を落とした。


こんなふうに誰かに触れることなど、ほとんどない。

姉のように、自然に誰かに身を預けることも。


胸の奥が妙に落ち着かない。


「……ごめんなさい」


小さくつぶやく。


顔を背けるレイを、ヘンリーは頷くだけだった。


腕の中に残る温もりに、わずかに息を詰めたけれど、

それを口にすることはなかった。



同じ頃――



◇ ユウの部屋


ユウは背筋を伸ばしたまま座っていた。


手の中のカップは、まだ一口も減っていない。


イーライは、その張り詰めた横顔を見つめていた。


「カモミールにしましょうか」


気持ちを落ち着かせるための、控えめな提案だった。


「いいの」


ユウは静かに首を振る。


そして、思い出したようにカップを口元へ運んだ。


その動きさえ、どこか硬い。


その横顔を、シュリは黙って見つめていた。


ユウが下した決断は、あまりにも重い。


そのとき――


ドアの小窓が、かちりと音を立てた。


茶色の髪の侍女が顔をのぞかせる。


「イーライ様、控えの間に商人が待っております」


イーライは静かにポットをテーブルへ置いた。


ユウの初夜の衣装についての打ち合わせだった。


「失礼いたします」


ユウの強張った表情を見つめながら、部屋を後にする。


部屋に残されたのは――

ユウ、シュリ、そしてヨシノ。


シュリは、母であるヨシノの顔をちらりと見た。


感情の乱れたユウを整えるのも、自分の役目だと思っていた。


口を開きかけた、その瞬間。


「シュリ」


ユウが先に声をかけた。


「心配しなくても……私は落ち着いているわ」


静かで、淡々とした声だった。


「……え」


シュリはわずかに目を見開く。


「だから、大丈夫よ」


そう言って、ユウはカップの茶を飲み干した。


シュリは何も言えず、その横顔を見つめていた。


いつもなら――


ユウ様は、こんなふうに背筋を伸ばしてはいない。


疲れたときは、そっと肩に寄りかかる。


困ったときは、甘えるような口調で子供のように不満をこぼす。


だが今、目の前にいるユウは違った。


まるで、別人のようだった。


毅然としたその姿は、あまりにも整いすぎていた。


まるで、自分を遠ざけているように思える。


シュリは、どう声をかけていいのか分からなかった。


ただ――その横顔を見つめることしか、できなかった。



次回ーー明日の20時20分

一つずつ、すべてを終わらせていく。


その裏で――

新たな“犠牲”が選ばれようとしていた

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