私が選んだのは、救うための地獄でした
「――お願いがあります」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気はぴたりと止まった。
「・・・何かしら?」
ミミの声は、わずかに震えていた。
――ユウの眼差しが、あまりにも恐ろしかったからだ。
そこにあったのは、迷いでも怒りでもない。
深い覚悟を決めた者の、凍りつくような静けさ。
「私はキヨ様の想い人になりたいです」
ユウは淡々と告げた。
「どうか――その願いを、叶えていただけますか」
その声にも、その表情にも、熱情はひとかけらもなかった。
ミミの目は大きく見開かれた。
――これまで、何度も妾の申請を許可してきた。
妾になるには妃である自分の承認が必要だ。
だが、そのほとんどはキヨの意向によるものだった。
だからこそ、ミミは一つだけ条件を設けていた。
『ユウ様が、心から望んでいるならば』
それが、唯一の歯止めだった。
だが――
目の前に立つ姫は、感情を押し殺し、
まるで政の取引を告げるかのような口調でそれを口にしている。
願いでも懇願でもない。
ましてや恋ではない。
ただ、決定事項の通達。
その異様さに、ミミは言葉を失った。
隣で聞いていたエルも、
呆然としたまま椅子から立ち上がることもできず、
ただ、その場に固まっていた。
「ユウ様どうして?」
ミミは、声を荒らげることなく問いかけた。
「私の認識では――あなたは、夫を嫌っていたはずです」
言葉を選びながら続ける。
「それなのに、急に・・・」
納得がいかなかった。
「考えが変わりました」
ユウはわずかに視線を落とす。
そして、ゆっくりと顔を上げて言った。
「キヨ様が成し遂げてきたこと。途方もない夢の叶え方。それらを間近で見て、共に過ごすことで――自分を深められると思ったのです」
整った言葉だった。
あまりにも整いすぎている。
ユウの顔色はひどく青ざめ、
まるで人を寄せ付けない外套を、幾重にも纏っているようだった。
背後に控えるシュリとイーライは、
葬列に並ぶ者のように深刻な面持ちで立っている。
――何かがあった。
それだけは、ミミにもはっきりと分かった。
だが、何があったのかまでは想像すらできない。
エルは、うっすらと“レイの婚姻”を思い浮かべた。
ただし――
その件はミミには伏せられている。
「ユウ様」
ミミは今度はさらに柔らかな声で言った。
「何があったの?」
問いかけは責めではなかった。
心を開かせるための静かな声音だった。
だが――本当のことを話せば、この願いは通らない。
それをユウは理解していた。
薄く微笑む。
「・・・気持ちが変わっただけです」
その声とは裏腹に、ユウの拳はきつく握り締められていた。
――気持ちは、変わらない。
変えようがない。
ミミは、心の中で小さく息を吐いた。
――夫、キヨは。
明るく享楽を好む男だ。
妾を囲い女遊びに興じるのも、彼にとっては“楽しみ”の一部に過ぎない。
だが。
だが――ユウ様への想いは女遊びではない。
それだけは、肌で感じていた。
夢中なのだ。
三十以上も年の離れた、この姫に。
ミミは静かに顔を上げ、自分の乳母へと目を向ける。
「マーサ。例のものを」
そう告げると、
長年仕えてきた乳母・マーサは、何も問わず静かに頷いた。
マーサは、薄汚れた白い布包みを抱えていた。
それは小さなものだった。
「ユウ様。お掛けになって」
ミミは、先ほどと変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべている。
ユウは促されるまま腰を下ろしたが、
視線はどうしてもその布包みから離れなかった。
その白布には、懐かしい旗印が縫い取られていた。
――ミンスタ領の旗印。
母・シリの生家のものだ。
ユウの喉がかすかに鳴る。
「これは、レーク城の床下で見つかったものです」
ミミは、静かに告げた。
「中を確認するために、布に包まれていた手紙を読ませていただきました」
一拍、間を置く。
「――その手紙は、ユウ様。あなた宛てのものでした」
「・・・私に?」
思わず零れた声は、ひどく小さかった。
「この手紙は、十三年前にシリ様が書かれたものです」
ミミの声は淡々としている。
「その当時、シリ様は――グユウ様と共に、落命する覚悟でおられたのでしょう」
ユウの指先が、わずかに震えた。
そして、何も言わずその白布を見つめた。
ミミは、ひとつ息を吸い切なげにユウを見つめる。
「私は・・・本当はこれを」
言葉を選ぶように、続けた。
「ユウ様が立派な領主に嫁ぐ日まで、渡さずにおくつもりでした」
その眼差しに計算はない。
あるのは、ひとりの年長者としての真摯な思いだけだった。
ユウの胸がかすかに揺れる。
ミミはまっすぐにユウを見据えた。
「ユウ様」
静かな声だった。
「妾になるという選択は・・・本当に、あなたが望んでいることですか?」
部屋が静まり返る。
――嘘をついて通り抜けられる場ではない。
ユウはゆっくりと息を吸った。
拳を握りしめたまま、静かに顔を上げる。
「・・・私は」
その声は、先ほどまでよりも低く、
だが確かに揺るぎなく、部屋に響いていた。
――自分がどんな未来を描き、どんな未来を生きるのか。
それを最終的に決めるものは「覚悟」と「決意」だ。
ユウは、すでに自分の未来を選んでいた。
「キヨ様の想い人になることを決めました」
静かな声だった。
イーライは何も言えず俯く。
シュリは思わず天を仰いだ。
豪奢な天井がにじんで見える。
それは涙のせいか、それとも――。
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外から、鳥の囀りが聞こえてくる。
「・・・わかりました」
ようやく、ミミは静かに首を縦に振った。
――この子は、夫を好いていない。
それでも、この選択を譲らない理由がある。
それをミミは悟っていた。
「それならば」
ミミは背筋を伸ばす。
「あなたを“想い人”とするよう、キヨに話しておきましょう」
「・・・ありがとうございます」
返された声は低く沈んでいた。
安堵ではない。
救われたわけでもない。
それでも、決めた道を進むための礼だった。
「失礼いたします」
ユウは静かに頭を下げ踵を返す。
その背中を、誰も呼び止めなかった。
「イーライ」
エルがユウを見送らず、前を向いたまま口を開く。
「お前は、私と一緒に執務室へ来い」
「私も行きます」
ミミもまた毅然と立ち上がった。
「・・・はっ」
イーライは深く頭を下げる。
けれど、その視界の端に残る金色の髪を、
ほんの一瞬だけ、名残惜しそうに目で追った。
次回ーー明日の20時20分
守るために選んだ道。
けれど、その代償は――
一番大切な手を離すことだった。




