あの姫を夫に触れさせない
キヨは、惚けたように――いや、何かを確信した者の目で、西棟の玄関の前に立ち尽くした。
回廊の奥にいたのは、ユウだった。
強い陽の光が、つややかな髪にきらめき、
その青い眼差しは、真昼の光に負けない強さを放っている。
白い薔薇を胸に抱え、
彼女は静かに、そこに立っていた。
「・・・ユウ様・・・」
キヨは、恍惚とした声音で呟いた。
戦があり、彼女の姿を目にするのは久しぶりだった。
一年前――彼女は、まだ開きかけの蕾だった。
触れれば壊れてしまいそうな、危うさだけを抱えた少女。
だが今――目の前に立つユウは、まるで違う。
身体の線は、いつの間にかさらに滑らかになり、
無駄のない曲線が、衣の下で静かに息づいている。
伏せられた睫毛の奥で揺れる瞳。
わずかに潤んだ唇は、熟れた果実のような色を帯びていた。
媚びる仕草も、誘う言葉もない。
それでも。
咲いたのだ、と。
キヨは、遅れて理解した。
この一年近くの間、
誰にも触れられぬよう、城の奥に閉じ込められていた姫。
その蕾が、
満開となり――今、自分の前で開いている。
だからこそ。
――その花を摘んで、腕の中に閉じ込めたい。
欲ではない。
情でもない。
これは、
王として、家を守る者として、当然の選択なのだと――
キヨは、一片の疑いもなく、そう思った。
「ユウ様!」
キヨは、思わず駆け出していた。
回廊の石床を踏みしめ、
白薔薇を抱えていたユウの前に立つ。
一瞬、視線が落ちる。
その白い指先を、確かめるように見てから。
その手を――上から、強く握りしめた。
「ひっ」
短い悲鳴が、喉からこぼれた。
ユウの身体が、目に見えて強張る。
指先から、冷えが伝わってきた。
白薔薇の花弁が、わずかに震える。
その背後で、乳母のヨシノが口元を手で押さえる。
控えていたシュリは、反射的に一歩、ユウへ近づいた。
ーー守らねばならない。
身体が、勝手にそう判断した。
けれど――国王と、姫。
その間に、剣は存在しない。
シュリは、歯を噛みしめたまま、
踏み出しかけた足を、床に縫い止める。
ここで動けば、それは「忠誠」ではなく、「反逆」になる。
キヨは、ユウの怯えなど気にも留めず、その手を離さない。
むしろ、確かめるように、指を絡める。
「久しいな、ユウ様」
低く、甘く、絡みつく声。
「・・・お変わりなく、お美しい」
ユウは、必死に息を整えた。
引き抜こうとした手は、
びくりと震えただけで、逃れられない。
「・・・キ、キヨ様・・・」
名を呼ぶ声は、かすれていた。
それを聞いて、キヨの口元が、満足げに歪む。
――逃げない。拒まない。
「ユウ様、許してくれ」
唐突に、キヨがそう言った。
「・・・何が、ですか」
ユウは一歩も退かず、怯えを必死に押し隠した瞳でキヨを睨み返す。
「出陣前に、約束したであろう」
キヨの濁った茶色の瞳が、じっとりと熱を帯びる。
「戦に勝ち、国王になった暁には――ユウ様を迎えると」
その言葉に、ユウの肩がびくりと跳ねた。
「・・・それが今は」
キヨは一瞬、言葉を切る。
脳裏をよぎったのは、妃・ミミの顔だった。
「邪魔が入って、の」
どこか被害者めいた口調で続ける。
「約束を、すぐには果たせぬ。すまぬな」
キヨは、ユウの腕に抱かれた白薔薇へと視線を落とし、
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「私は構いません!」
ユウの声は、ほとんど叫びだった。
拒絶。
だが――
「安心してくれ」
キヨは、その叫びを“照れ”と受け取った。
「国王の名において、わしは必ず通す」
そう言って、ユウの手を、さらに強く握りしめる。
白薔薇の香りが、まるで祝福のように立ちのぼった。
だがユウにとって、それは――死刑宣告の鐘に等しかった。
シュリは、その光景から目を逸らさなかった。
逸らせなかった。
白薔薇よりも白いユウの指。
それを包み込む、男の手。
守れぬ距離。
踏み越えられぬ立場。
剣よりも重いものが、胸の奥へ沈んでいく。
ーーくそ。
声にならない言葉だけが、喉の奥で、焼け付くように残った。
硬直したユウの背に、キヨの手が触れようとした――その瞬間。
「キヨ様」
少し震えた声が、回廊に響いた。
「お時間が迫っております」
イーライだった。
その黒い瞳は、いつもより濃く、深い。
言葉にできない想いが、確かに滲んでいる。
それでも、表情は崩さない。
「会議の時間が、迫っております」
淡々とした口調。
だが、その声には、いつもより明確な圧があった。
「あぁ・・・切ないのぅ」
キヨは名残惜しそうに呟き、ようやくユウの手を離す。
「参りましょう」
イーライは、ほとんど引きずるようにキヨを促し、城の本館へと歩き出した。
すれ違いざま、一瞬だけ、ユウを見る。
ユウは、小さく息を吸い、
“ありがとう”と伝えるように、かすかに視線を返した。
イーライは、何も応えない。
ただ、ほんの一瞬だけ―― 無意識に、歩幅を速めた。
二人の足音が遠くなった時ーー
ユウは、足から力が抜けるように地面へと崩れ落ちた。
「・・・っ」
腕から白薔薇が滑り落ち、石畳の上でばらばらと散る。
「ユウ様!」
シュリが駆け寄り、震える背中に手を伸ばす。
ユウは、必死に目を閉じた。
――妹たちのために、守ると決めたはずだった。
あの男から、すべてを守ると。
それなのに。
あの視線。
あの湿った手の温度。
思い出すだけで、覚悟が揺らぐ。
「・・・気持ち、悪い・・・」
絞り出すような声だった。
情けなさと嫌悪が混じり合い、涙が、勝手に溢れてくる。
「ヨシノ・・・水を・・・」
吐き気を堪えるように、ユウは言った。
近くで立ち尽くしていたヨシノが、はっとして駆け出す。
「ユウ様、落ち着いて」
シュリは、必死に背中を摩る。
――このままでは、感情が壊れてしまう。
「息を・・・吸って・・・吐いて・・・」
何度も、何度も。
その声だけが、ユウをこの場につなぎ止めていた。
◇
その一連の光景を、本館の窓から見下ろしている者がいた。
妃の私室。
西側の窓は、西棟の玄関をはっきりと見渡せる。
ミミは、息を詰めたまま、その場を動かなかった。
少し後ろに立つ乳母・マーサが、気遣わしげにその背を見つめている。
ミミの唇は、固く閉ざされたままだ。
声は聞こえない。
けれど――
まるで、すぐ目の前で起きているかのような衝撃が、胸を打った。
晴れやかな顔で西棟を出てきた夫。
その夫が、宝物を見つけたかのように駆け寄った先――ユウ。
ユウの表情は見えない。
だが、その後ろ姿には、はっきりとした拒絶が滲んでいた。
ミミの視線の先で、大きな桶を抱えたヨシノが駆け寄る。
次の瞬間。
ユウは、その桶に勢いよく手を突っ込み、何度も、何度も洗い始めた。
まるで――汚物に触れてしまったかのように。
跳ね返る水を気にも留めず、シュリは、ただ寄り添い続けている。
「・・・ユウ様の気持ちは、明確ね」
ミミは、静かに呟いた。
その独り言を、マーサは黙って受け止める。
「彼女のためにも・・・キヨのためにも」
一拍、間を置き。
「――そして、この国のためにも」
ミミの声は、揺れなかった。
「あの姫を、キヨに触れさせない」
それは、感情ではない。
妻として、妃として、
そして、この国を守る者としての――決断だった。
次回ーー明日の9時20分
洗っても消えない感触と、
離せなかった手。
それは、慰めでも、救いでもなく――
ただ、戻れなくなった証だった。




