その身を開くまで
ユウの部屋を出たシュリは、廊下に佇む乳母に声をかけた。
「・・・母さん」
振り向いたヨシノは、険しい表情で問いかける。
「ユウ様は・・・?」
「もう、寝ています」
「そう・・・」
わずかに息を吐くヨシノ。
「足を怪我されています。必要最低限の手当はしました。明日、もう一度診てあげてください」
「シュリ・・・今回のユウ様は・・・」
「・・・だいぶ、乱れていました」
その声は低く掠れていた。
「そうよね・・・」
ヨシノの瞳にも、深い影が宿る。
そのとき――。
背後でかすかに扉が軋み、わずかな隙間ができた。
黒い瞳の少女が、そっと二人を見つめていた。
レイだった。
扉の影から洩れ聞こえる会話を、幼い心で必死に受け止めようとしていた。
――姉上は、私たちに見せていない顔を持っている。
◇ 同じ夜、城の一角では――。
執務室に甘く濃い香が漂っていた。
キヨは赤に金色の縁取りをした寝間着のまま、満足げにワインを傾けている。
「・・・今日の眼差しは、誠に良かった」
恍惚とした声でつぶやき、窓の外に目を向けた。
視線の先は、闇に沈んだ湖面ではない。
先ほど自分を射抜いた、ユウの瞳。
虫けらを見るように冷たく、それでいて美しい光。
母のシリよりも、なお苛烈な眼差しだった。
「・・・誠に。誠に、良い」
頬を緩ませ、惚けたように笑う。
その隣でイーライは俯きがちに座り、サムは奥で背筋を伸ばしたまま唇を噛み締めていた。
二人とも、主の様子に言葉を失っている。
そこへ、鋭い声が飛ぶ。
「兄者! 勝手に妾を作ろうなど、あってはならぬことです!」
エルは拳を机に叩きつけた。
重い音が執務室に響き、鎧の金具がかすかに鳴る。
血を分けた弟だからこそ、他の誰よりも強く叱責できる。
その苛烈な動きに、サムとイーライも思わず背筋を伸ばした。
「そうだの・・・どうやってミミを説得するか・・・」
キヨは困惑したように眉を顰め、杯を揺らした。
領主とはいえ、好き勝手に妾を増やせるわけではない。
共に城で暮らすのなら、正妻の許しが必要だ。
これまでミミは寛大であったが――ユウに関しては、そうはいかぬだろう。
「兄者!」
エルは苛立ちを隠さず声を荒げる。
「二日後にはモザ家との争いが迫っているのです!
その時に・・・領主たる兄の関心が、少女だと? 指揮を取る我らにとって、これ以上の不安はない!」
「モザ家・・・シュドリー城か」
キヨはのんびりと構えていた。そこはシリの生家でもある。
「城主マサシは大丈夫だ。この戦、余裕で勝てる」
手を振りながら呟く声には、不思議な確信があった。
「そうは言っても・・・争いは何があるかわからぬものです」
エルの声はわずかに上擦る。
だが兄の行方を見抜く眼差しは恐ろしく鋭い。
「わしはモザ家など相手にしとらん。勝てる」
キヨはワインをゆっくり飲み干すと、目を細めた。
「それよりも・・・西領のジュンが問題よ。あいつだけはわしの元に降らぬ」
忌々しげに舌打ちをする。
「ジュンを倒さぬ限り、国王にはなれん」
「・・・そのとおりです」
エルは真面目に頷く。
だがその横で、サムとイーライは息を殺していた。
「まぁ、あんなたぬき顔を思い出すよりも・・・ユウ様の美しい顔を思い出す方が良い」
キヨの表情は途端に惚ける。
「シリ様は・・・ミミに何と書状を残したのだろうか。誠に気になる」
「ユウ様はまだ十四歳。兄者、三十二も歳が離れているのです」
エルは呆れを隠さず口を開いた。
「想いに年齢の差などない」
キヨは夢見るように目を閉じる。
「・・・父親以上に離れているのですよ」
「だから良い。若ければ元気な子を産む。跡取りの、男をな」
その言葉に、イーライは息を呑み、サムは目を閉じた。
「兄者・・・」
エルの声には諦めが滲む。
「わしは諦めん」
キヨは熱を帯びた声で話す。
「いつかユウ様が、自ら身体を開くようになるまで」
キヨの濁った茶色の瞳はぎらぎらと輝き、執務室の闇に爛々と燃えた。
サムは視線を床に落とした。
二度と主と目を合わせられなかった。
忠義を誓ったはずの胸に、嫌悪が黒い影のように広がっていく
「兄者・・・」
エルの声は力がなく崩れていく。
「女も争いと同じよ。難しい城ほど・・・手に入れたときの喜びは大きいのだ」
キヨは、ゆっくりと微笑んだ。
誰も口を開けなかった。
執務室に漂う香はもう甘さではなく、腐敗のように重く鼻を刺した。
――恐れていたことが、ついに形をとった。
傍らに控えていたサムは、ごくりと唾を飲み込む。
前から予感していた懸念が、キヨの口からはっきりと聞かされた。
ーーキヨ様は・・・ユウ様を妾にしようとしている。
外からは、鎧の打ち合う音や、兵の怒声、廊下を駆ける足音が絶え間なく響いていた。
出陣を控えた城内は熱を帯びているのに、この執務室だけが淀んだ時間に閉ざされていた。
次回ーー明日は2話更新 9時20分更新します
「ユウ様を守る者なら、その腕、この目で見ておきたい」
サムの言葉に、シュリは無言で頷く。
剣が語るのは、出自ではなく、覚悟。
乳母子か、戦士か――その答えが、朝の光の中に刻ま
れる。
『見事な腕前、だが、一生出世できない青年』 明日の9時20分更新
ブックマークありがとうございます。
とても、励みになります。
◇ 登場人物
ユウ
主人公 両親を殺したキヨの城に暮らすが、心の奥には激しい怒りと誇りを秘めている。
シュリ
ユウの乳母子で護衛。誰よりも彼女を理解し、静かに支える青年。
ヨシノ
乳母。ユウと妹たちを育てた母のような存在。息子シュリと共にユウを見守る。
レイ
ユウの末妹。幼くも鋭い感性で、姉の変化を敏感に察している。
キヨ
領主。狂気と執着に支配された男。ユウを自らの妾にしようと企む。
エル
キヨの弟で軍務を統べる将。兄の暴走を止めようとするが、無力。
サム/イーライ
シズル領の家臣。忠誠と嫌悪の狭間で揺れる。




