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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第6章 妹の婚姻 姫でいられた最後の一年
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逃げ場は、もうない

◇ サカイ城 執務室


キヨが南領から戻って、一週間。

城内には、なおも勝利の興奮が残っていた。


キヨは椅子に深く腰掛け、長いため息をつく。


机の上には、処理待ちの書付が山のように積まれている。


「・・・やれやれじゃ。戦は終わった。今日こそは・・・」


その言葉の続きを、キヨは飲み込んだ。


少し離れた机では、イーライが黙々とペンを走らせている。


紙をめくる音だけが、静かな執務室に響いていた。


「イーライ。南領まで行って、ようやく一息つけると思うたが・・・」


イーライは顔を上げることもなく、書付を整え、差し出した。


「恐れながら、すでに“次”がございます」


「・・・次?」

キヨの眉が、ぴくりと動く。


「国割り、兵への褒賞、そして国王就任に向けた掟。

どれも遅れは許されません」

イーライは淡々と説明をする。


キヨは、がくりと肩を落とした。


キヨが情けない声を漏らすのを見て、

部屋の隅に控えていたサムは、思わず苦笑いを浮かべた。


ーー勝ったは勝ったが、キヨ様は相変わらずだな。


その様子を横目で見ながら、

エルは胸の内で、ぎゅっと拳を握る。


ーーイーライ、もっと言ってくれ。


兄者には、それくらいでちょうどいい。


国王になる男が、

「女を抱く時間がない」などと嘆いている場合ではない。


ーー遠慮するな。


容赦なく現実を突きつけてやってくれ。


エルは、表情一つ変えずに立ったまま、

心の中でだけ、イーライに静かな声援を送っていた。


次の瞬間、キヨは情けないほどの勢いでイーライに縋りつく。


「わしは、間もなく国王になるのじゃぞ。帰った途端に、これか!」


イーライは身じろぎもせず、冷静に受け止める。


「昨夜も、西領に行かれたと存じますが」

イーライが、感情の起伏を一切乗せずに告げた。


「違うのじゃ!」

キヨが、甲高い声を張り上げる。


「ユウ様にお逢いする時間が、ないのじゃ!」


妾であれば、夜に会うことは許される。


だが、領主といえども、庇護している姫の私室に入れるのは夕刻まで――


それが、この城で暗黙に守られてきた掟だった。


「わしは、掟を変えるぞ!」


「それよりも」

イーライが、淡々と遮る。


「もっと大きなことを、成し遂げねばなりません」


その瞬間だった。


キヨは、ついにペンを放り投げた。


「嫌じゃ!!わしは、ユウ様に逢いたいのじゃ!!」


子供のように、駄々をこねる。


執務室に、場違いな沈黙が落ちた。


ーーその時、


「そんなに、お逢いしたいのですか?」


低く、滑らかな声が、室内に響いた。


はっとして振り向くと、

開け放された執務室の扉に、キヨの妃――ミミが立っていた。


キヨは息を呑み、イーライの動きが、ぴたりと止まる。


――先ほどの話は、聞かれていたのか。


キヨの背中に、冷たい汗が伝った。


「・・・イーライ」


声を潜め、そっと耳打ちをする。


「この部屋には・・・防音が、あるのか?」


「・・・ございません」

イーライは、唇をほとんど動かさずに答えた。


間が悪いことに、執務室の扉が再び開いた。


書類を抱えたノアが、控えめに中へ入ってくる。


だが、一歩踏み入れた瞬間、その足が、わずかに止まった。


――空気が、重い。


静かな怒りを湛えたミミ。

冷や汗の止まらないキヨ。

必死に場を取り繕おうとするイーライ。

そして、完全に置物と化したサムとエル。


張り詰めた空気に、ノアは明らかに戸惑った。


半歩、扉の外へ引き返しかける。


それほどまでに、この部屋の空気は重く、澱んでいた。


「いいえ」

ミミが、静かに顔を上げた。


その声は穏やかで、けれど、逃げ場を与えない。


「主要な重臣が揃った今、ここでお話をしましょう」


「ミミ・・・話とは・・・」


キヨは問いかけながらも、

その視線は必死にイーライを探していた。


――助けてくれ。


そう言わんばかりの目だった。


イーライは、その視線を正面から受け止め、

小さく、しかし確かに頷く。


そして、構えを取るように背筋を伸ばし、静かに、椅子に座り直した。


――ここからは、逃げません。


そう告げるかのように。


聡いミミは、その一瞬のやり取りを、見逃さなかった。


「イーライ」


静かに、その名を呼ぶ。


「私の侍女のところへ寄って、荷物をユウ様のお部屋に届けてちょうだい」


室内の空気が、途端に張り詰めた。


イーライの、能面のように整った口元が、ほんの一瞬だけ動く。


「・・・今、すぐでしょうか」


「今すぐです」


迷いのない声。


ミミの強い眼差しが、まっすぐに突き刺さる。


――ここで逆らうのは、得策ではない。


イーライは即座にそう判断した。


ミミは感情で命じているのではない。


この場の主導権を、確実に握りに来ている。


イーライはそれ以上何も言わず、静かに席を立った。


「・・・イーライ」

背後から、キヨが震える声で名を呼ぶ。


振り返ることなく、イーライは深く一礼した。


「失礼いたします」


扉の前で、イーライはその場にいたサム、エル、ノアへと順に目配せをした。


――自分がいない間、キヨ様の補佐を頼む。


言葉にせずとも、そう伝える眼差しだった。


だが。


それに応えるべき重臣は、

この場のどこにも、存在していなかった。


頭脳、武勇、戦術――いずれにおいても優れた三人だった。


だが、この場では、誰も武器を持たなかった。


エルは、行き場を失ったように宙を見つめる。


そしてノアは――

自分もイーライと共に、この場を退出したいとでも言いたげな様子で、そっと扉の方へ視線を送っていた。


イーライが扉を閉め、その足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。


それを確かめたミミは、迷いなく動いた。


キヨが座る机の前に、素早く腰を下ろす。


逃げ場を与えない距離だった。


その静かな眼差しを前に、

キヨは無意識のうちに、空席となったイーライの机へと何度も視線を走らせてしまう。


――助けは、ない。


「これから」


ミミが、静かに口を開いた。


「ユウ様の婚礼について、お話をします」


その声は穏やかで、

同時に――決定事項を告げる響きを帯びていた。


次回ーー明日の20時20分


戦が終わり、王妃が口を開いた。

それは、ユウの未来を決める宣告だった。

誰もが正しい選択だと思っていた。


――ただ一人を除いて。



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