あの男が戻ってきた日
◇ 夏の盛り サカイ城 西の棟 廊下
「・・・戻ってきたわね」
ユウが低い声で呟いた。
廊下の窓の下から、勝利を告げる雄叫びが波のように押し寄せる。
隊列を組んだ兵たちの姿が、遠く城門へと近づいてくる。
ユウは無意識に窓の縁をぎゅっと握った。
その仕草を、レイは黙って見つめている。
一方、ウイは廊下の窓から身を乗り出すようにして、遥か彼方に視線を凝らしていた。
探しているのは、ただ一人――リオウだ。
「すごい兵の数だわ」
レイが、息を吐くように呟く。
「怪我人は少ないと聞いたわ」
ウイは目の上に手をかざす。
照りつける太陽の光が、容赦なく視界を白く染めた。
やがて、隊列の中央に、萎びた小男が現れる。
金属の鎧に陽光を反射させ、
背筋を伸ばして馬上に座るその男は、振り返りもせず前だけを見据えていた。
――キヨ。
勝利の雄叫びを従え、
戦を制した者として、何の迷いもなく城へと戻ってくる。
その姿は、あまりにも堂々としていて、
ユウの指先に、さらに力がこもった。
「・・・暑くて、疲れたわ・・・」
ユウはそう呟き、ふいに窓から離れた。
「姉上・・・顔色が・・・」
レイが不安そうに見上げる。
「部屋まで付き添います」
ウイがすぐにユウの袖を掴んだ。
「大丈夫よ」
そう言いながら、ユウは優しくウイの手を離した。
「シュリ、いい?」
ユウはかすれた声で問い、そのまま部屋へ向かおうとする。
窓の前に残されたウイは、切なそうに目を細める。
――姉上が、心を開くのは。
私たちではない。
レイでもなく、私でもなく。
シュリだけなのだ。
それが、はっきりと分かってしまった。
自分たちは姉妹で、血を分けていて、
どんな時も一緒に育ってきたはずなのに。
それでも、
姉上が本当に崩れてしまう瞬間に、
寄り添えるのは、あの人だけ。
「・・・仕方ないわよね」
ウイは、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
幼い時から、姉上の少し後ろに付き添っていたシュリ。
剣を取り、命を預け、
姉上の弱さも強さも、すべてを受け止めてきた人。
そのシュリを心の支えにしながら、前をむいて歩いていた姉上。
自分が入り込めない場所があるのだと、
理解してしまったからこそ。
胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっと痛んだ。
「シュリ、お願い」
レイが小さく呟くと、
シュリは何も言わずに頷き、そっとユウの身体を支えた。
ユウは足元を確かめるようにしながら、よろめいて自室へ戻る。
扉が閉まった、その瞬間だった。
ユウは力を失ったように床へしゃがみ込んだ。
「ユウ様!」
ヨシノが慌てて駆け寄る。
「あの男が・・・戻ってきた」
掠れた声とともに、ユウの身体が小さく震えた。
――覚悟は、したはずだった。
妹たちのためなら、何でもする。
そう、心に決めていた。
それでも。
あの男が帰ってきた。
ただ、それだけの事実が――
ユウの身体を、止めどなく震わせていた。
「母さん」
シュリはヨシノの顔を見て、そう呟いた。
ヨシノは何も言わず、静かに頷くと、そのまま二人の横を通り過ぎ、廊下へ出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、二人きり。
その瞬間だった。
ユウは、思わずシュリにしがみついた。
「シュリ・・・怖い」
縋るような声。
その身体は、小刻みに震えている。
「大丈夫です。大丈夫ですよ」
シュリは自分に言い聞かせるように繰り返しながら、
必死にユウの背中を撫でた。
逃げ場のない恐怖を、
せめてこの腕の中だけは、受け止めるために。
「あの男は・・・私を・・・」
そこから先は、どうしても言葉にならなかった。
胸元から切なそうな吐息と、シャツから染みる湿度。
――泣いている。
シュリには、それがはっきりと分かった。
だから、ただユウを抱きしめるしかなかった。
何も言わず、何も問わず。
静かな時間が、ゆっくりと流れていく。
やがて、ユウの呼吸が少しずつ深くなる。
しばらくして、ユウはそっと顔を上げた。
「あの男が、この城に戻ってくるのは・・・久しぶりだから」
どもるように言いながら、視線を伏せる。
「ちょっと、不安になっただけ」
そう言って、少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「・・・ごめんね」
「いえ・・・」
シュリは、ほんのわずかに微笑んだ。
その微笑みが、あまりにも嬉しそうで。
「・・・どうして、笑っているの?」
ユウは拗ねるような口調で、質問をしてしまった。
泣いた後のユウは、少しだけ強情になる。
弱音を見せたあとの、精一杯の強がりだった。
そんな仕草や口調、一つ、一つがシュリにとって、たまらなく愛おしいものだった。
「こんなふうに・・・ユウ様が甘えてくださるのが、嬉しいです」
そう言いながら、
シュリはユウの乱れた前髪を、そっと整えた。
「・・・」
ユウは、じっとシュリを見つめた。
シュリは、涙が潤んだ青い瞳に吸い込まれそうになった瞬間、我に返った。
――近い。
そう気づいた瞬間、
シュリは距離の近さに息を呑み、反射的に身を引こうとした。
だが、その前に。
ユウの手が、シュリの腕を捉えた。
「・・・そばにいて」
低く、縋るような声。
その一言に、逆らえるはずがなかった。
「・・・はい」
シュリは、掠れた声で答える。
「このまま・・・少しだけ・・・」
ユウはそう呟き、
ゆっくりとシュリの胸元に頬を寄せた。
温もりを確かめるように。
逃がさぬように。
シュリは身動きもできず、
ただ、その重さを受け止めていた。
「・・・昔のこと・・・覚えている?」
ユウは、シュリを見上げた。
「レーク城で、かくれんぼをしていて・・・
隠れたまま、シュリと一緒に眠ってしまったこと」
見上げてくる瞳は、あの頃と同じだった。
澄んでいて、美しくて――
そして今もなお、気の強さを秘めている。
「はい」
シュリも、ふっと目を細める。
「皆が心配して、城中を探し回ったことがありましたね」
「エマが、扉の影で寝ている私たちを見つけた時・・・」
ユウが言葉を引き継ぎ、思わず噴き出した。
「絶叫して腰を抜かしていたわ」
城中を探し回ったエマが、干し草まみれで私たちを見つけた。
その光景を思い出し、
二人は顔を見合わせて、声を出して笑った。
けれど。
笑いが収まったあと、ユウは、ぽつりと呟く。
「・・・そのエマも・・・もう、いない」
「・・・帰りたい・・・」
その声は、かすかに震えていた。
「父上と、母上がいた、あの城に・・・あの頃に、戻りたい・・・」
シュリは、何も言えなかった。
「ウイやレイが嫁いだら・・・私はこの城に取り残されて・・・」
ユウの声は、弱々しかった。
ーーあの男が戻ってきた今、その現実が目の前まで来たのだ。
シュリは、ただ黙ってユウを、ぎゅっと抱き寄せる。
――こんなことを考えても、きりがない。
それでも。
もし、ユウ様の両親が健在だったのなら。
こんなふうに、自分に甘えることは、なかったのだろう。
娘らしく。
姫らしく。
その青い瞳には、悲しみや影がなかっただろう。
母を失い、
妹たちの母親代わりを背負うようになってしまった人。
「・・・私がおります」
シュリは、ユウの髪を撫でながら、静かに告げた。
「・・・私が、そばにおりますから」
「そばにいてくれる?」
ユウは、真剣な眼差しでシュリを見つめた。
幼い頃から、大切な人を、次々と失ってきた。
「はい」
シュリは、すうっと息を吸う。
「前にも・・・お話ししましたが・・・」
そう言って、抱きしめる腕に力を入れる。
「私は・・・ユウ様を見届けてから、死にます。
その瞬間まで・・・そばにおります」
迷いのない声だった。
その言葉を聞き、ユウは、そっと目を閉じる。
耳元に伝わってくるのは、
強く、早い――シュリの胸の鼓動。
妹たちは、きっと近いうちに嫁ぐ。
そして、自分はーー
それは避けられない未来だ。
それでも。
――シュリが、そばにいれば。
そう思えた瞬間、ユウの胸に、静かな確信が生まれた。
自分は、まだ――耐えられる。
※ 今回、シュリが口にした言葉は、
前作で一度だけ、14歳の頃のユウに向けて語られたものです。
あの時と、今とでは、
同じ言葉でも、重さがまったく違う。
二人を取り巻く環境も、
背負うものも、あまりにも変わってしまったから。
そう感じながら、書いていました。
次回ーー明日の20時20分
勝者は城に戻り、
次に動き出したのは――婚姻だった。
誰の意思も確認されないまま、
ユウの未来は、静かに決められていく。




