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秘密を抱えた政略結婚 ―血に刻まれた静かな復讐と、許されぬ恋の行方―  作者: 雨日
第6章 妹の婚姻 姫でいられた最後の一年
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それを、欲望と呼ぶなら

◇ サカイ城 ユウの部屋


季節は五月。

暖かく、窓から差し込む午後の光が心地よい。


「あぁ・・・もう、うんざり」

ユウは手にしていた布を、軽くテーブルへ置いた。


「姉上、もう終わったの?」

ウイが驚いたように顔を上げる。


「終わった、というより――終わらせたのよ」

ユウは深いため息をついた。


この日は師を招き、刺繍の手解きを受けていた。


刺繍が得意なウイは、すでに難度の高い技法に挑んでいる。

レイは人並み。

そしてユウの腕前は――絶望的だった。


「裁縫が苦手なところまで、母上から引き継いでしまったわ」

ユウはテーブルに顔を伏せ、頬に伝わるひんやりとした感触を味わう。


「姉上・・・頑張っているわよ」

ウイは慰めるように言った。


「この犬、可愛いわ」


「・・・それ、猫だと思うよ」

レイが言いにくそうに指摘する。


「え? 猫なの?」

ウイは目を丸くした。


「馬よ!」

ユウが顎を上げ、きっぱりと言い張る。


シュリは、吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。


――ネズミだと思っていたからである。


「・・・馬」

レイが呆然と呟く。


ヨシノが軽く空咳をした。


「ユウ様。お時間のある時に、刺繍の勉強をいたしましょう」


「いや」

ユウは“馬”と主張する布を指先でくるくると回す。


「そう仰らず。妃となられるには、裁縫も大切でございます」


ヨシノが遠慮がちに説得した、その時――


カチッ、と小さな音がした。


「イーライだわ!」

ウイが目を輝かせる。


――きっと、美味しいおやつを運んできたに違いない。


「失礼します」

イーライが静かに頭を下げた。


「お茶の支度をいたします」


「イーライ、今日のおやつは何?」

ウイは見事な花を刺繍した布を脇へ押しやる。


「本日は、オムレットでございます」


そう言って、ふとユウの前の刺繍に目を留めた。


「・・・キツネ、でしょうか?」


「馬よ!」


ユウの強い声に、部屋の中は一斉に笑いに包まれた。


イーライは笑い声の中で、

その無邪気さが、いつか奪われる日を思い、何も言えず目を伏せた。


「今日は――」

イーライが、少し言いにくそうに声を落とした。


「キヨ様からのお手紙を、賜っております」


その一言で、部屋の空気が変わった。


ユウは思わず眉を寄せる。


「・・・また?」


「はい」

イーライは静かに頷いた。


「今回は、少々長い文のようでして」


懐から取り出した手紙を、外側から示す。


羊皮紙の重なりが、厚みを伝えていた。


「――ですので」


イーライは一拍置き、


「ウイ様、レイ様。ご退室をお願いできますでしょうか」


静かに頭を下げる。


ウイとレイは一瞬顔を見合わせ、強張った表情のまま席を立った。


「オムレットは、お部屋にお届けします」


イーライがそう告げると、

二人は無言で頷き、扉の向こうへ消えていった。


部屋に残ったのは、

ユウ、シュリ、イーライ、ヨシノだけだった。


「お茶にいたしましょうか。それとも、手紙を――」


「手紙にして」

ユウは長い髪を無造作に背へ流す。


「嫌なことは、早く終わらせたいの」


「・・・承知しました」

イーライは一礼する。


「イーライ、読んで」


命じる声に、わずかな迷いもなかった。


イーライは一瞬、躊躇する。


——この文は、ただの挨拶ではない。


封の厚みが、それを物語っていた。


「あの男が書いたものなど、触れたくないの」

ユウは、きっぱりと言い切った。


「・・・承知しました」

イーライは胸元から小さなナイフを取り出し、

ひとつひとつの所作を丁寧に、羊皮紙を開いた。


「ユウ様へ」

イーライの声は、わずかに震えていた。


「夜になると、決まってユウ様の面影が胸に浮かぶ」


一行、読み上げただけで、喉が詰まる。


「戦は、思うより骨が折れる。

剣や策ではなく、人の心を束ねる争いだ。

だが――こうしてペンを取れるのは、ユウ様に会いたいからじゃ」


イーライは、そこで一度、羊皮紙から目を離した。


「戦の最中でも、ユウ様を忘れたことなどない。正直に書く」


その先を見た瞬間、イーライの手が止まった。


ーー無理だ。


これを声に出して、ユウ様の前で読むなど。


「イーライ?」

微かに苛立ちを含んだユウの声。


「続きは?」


「・・・これ以上は」


珍しく、弱腰な声になった。


「ユウ様ご自身が、お読みになった方が・・・」


「構わないわ。続けて」


顎を上げたその姿に、逃げ道はなかった。


「・・・承知しました」


顔が熱い。


指先が震える。


ーー地獄だ。


イーライは、覚悟を決めて読み上げた。


「わしは、ユウ様と体を合わせたい」


その一文を口にした瞬間、イーライの喉が、ひくりと鳴った。


ーー違う。


そう、反射的に思った。


同じ言葉でも、

自分が胸の奥に押し込めてきたものとは、まるで質が違う。


だが。


“体を合わせたい“


その欲だけを切り取れば、自分の中にも、確かに存在していた。


言葉にしなかった。

できなかった。


そんな願いを口にする資格など、一欠片もないと知っていたからだ。


「欲に溺れるためではない。命をつなぐためだ」


読み上げながら、イーライの胸に、鈍い怒りが湧いた。


ーー嘘だ。


それは理屈で塗り固めた、あまりにも身勝手な欲望だ。


それでも。


“体を合わせたい“という言葉そのものが、

イーライ自身の奥底を、無慈悲に掻き乱していく。


ーー自分は。


触れたいと、思ったことがないとでも?


その問いを、

必死に押し殺しながら、イーライは震える声で続けた。



「この国を継ぐ者が要る。弱き子ではならぬ。

迷い、揺らぎ、折れやすい命では、この先を任せられぬ」


声が、かすれる。


「ユウ様となら、強く、丈夫な男の子を授かれるとーーそう思ってしまうのじゃ」


ヨシノとシュリが、息を呑む。


「わしの熱と、ユウ様の強さが重なれば、

必ず、次の時代に耐えうる命が生まれる」


イーライは、何度も息を整えながら続けた。


「戦が片づき次第、戻る。

その時は、何も考えず、ただ、ユウ様を抱きたい」


もう、限界だった。


「国のことも、策も、その夜だけは脇に置く。

わしは、ユウ様のもとへ帰る男でありたい」


そこまで読み切り、イーライは、ようやく声を止めた。


ユウの顔は、見られなかった。


「・・・気持ち悪い」


低く、冷えた声。


「ヨシノ。この手紙は――燃やして」


「はい」

ヨシノは、躊躇わなかった。


羊皮紙は火を得て、あっという間に形を失う。


ユウは立ち上がる。


「妄言だわ」


冷たく、言い捨てた。


「あの男に、子を作る能力など――ない」


それは、

誰もが知っていて、

誰一人として、

口にすることを許されなかった事実だった。


ブックマーク、ありがとうございます。


長文・非テンプレ・群像劇という、なろうでは少し歩きにくい道を進んでいる物語ですが、

それでも読んでくださる方がいることが、本当に励みになっています。


静かに追いかけてくださる方、最近見つけてくださった方、

皆さんの存在が執筆の支えになっています。



次回ーー明日の9時20分


欲望を、愛と呼ぶ男がいる。

拒んでも、否定しても――

戦に勝ったその男は、姫のもとへ帰ってくる。


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